kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日12月29日  1998クメールルージュ70年代虐殺謝罪、ほかwikipedia殺戮された人々

12月29日

20251229月曜日旧暦11月10日友引(壬申みずのえさるジンシン)月齢 9

乙巳きのとみ年 戊子つちのえね月 壬申みずのえさる日 年末まであと2日

吉方位 隠遁日 壬申みずのえさる日

https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8829%E6%97%A5

12月29日の出来事

1890年 – ウンデット・ニーの虐殺。「1890年のウンデッド・ニーでは、武装解除されたラコタ・スー族の集団が米陸軍によって襲撃され、住民の約8割300人前後が殺害された。結果として共同体は壊滅し、事実上の皆殺しであり、民族浄化的な行政暴力であった。」(チャットGPT先生)—私刑リンチでもなく純然たる行政行為という点が重要です。

1924年 – 東京の青山脳病院で火災。患者20人が焼死[1]。

1948年 – 免田事件。熊本県人吉市で祈祷師夫婦が殺害される事件が発生[2]。
1972年 – イースタン航空401便墜落事故。史上初のワイドボディ旅客機の全損事故。死亡101人 生存75人。
1989年 – 日経平均株価が算出開始以来の最高値を記録(ザラ場 38957.44円、終値38915.87円)。その後バブル経済は崩壊し、2024年までこの水準に回復することはなかった[2]。
1996年 – グアテマラ内戦: グアテマラ政府とグアテマラ国民革命連合(英語版)の間で和平合意が成立し、36年におよぶ内戦が終結。20万人以上が死亡し、数万人が行方不明になり、100万人以上が避難民となった。

1998年 – カンボジアのクメール・ルージュが1970年代の大量殺戮について謝罪。虐殺数は100万人から300万人まで諸説あるが、クメールルージュ政権前の内戦にて60万人死亡、内戦後クメールルージュ支配下で100万人以上は虐殺されている。

2024年 – チェジュ航空2216便事故。乗客乗員181人のうち179人が死亡。

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1890年 – ウンデット・ニーの虐殺。「1890年のウンデッド・ニーでは、武装解除されたラコタ・スー族の集団が米陸軍によって襲撃され、住民の約8割300人前後が殺害された。結果として共同体は壊滅し、事実上の皆殺しであり、民族浄化的な行政暴力であった。」(チャットGPT先生)—私刑リンチでもなく純然たる行政行為という点が重要です。

この虐殺を合衆国政府側は「ウーンデッド・ニーの戦い」(~のたたかい)と呼び、虐殺を実行した第7騎兵隊には名誉勲章が授与されている。しかし、インディアン(先住民)側ではこれを「ビッグ・フット一行に対する虐殺」と呼んでいる。

ビッグ・フット・バンドの死者数に関しては、虐殺した側と虐殺された側とで証言が食い違っている。白人側は150人から多くて200人程度だとし、スー族側は約300人、またそれ以上の数[要追加記述]を挙げる向きもある。どちらにしろ、合衆国政府側は殺したスー族を上記のように扱って、その数を記録しなかったし、未だ十分な検証も行われていない

虐殺を生き残ったブラック・エルクは後年、ウーンデッド・ニーの虐殺についてこう書き残している。

この高い丘に立つと昔を思い出す。うねった谷のあちこちに殺された女や子どもが積み重なっていたんだ。あの光景は忘れられない。それに、死んだものはもうひとつある。血に染まった土のなかで息絶え、吹雪に埋もれてしまった。皆の夢が死んだんだ。美しい夢だったよ。[1]

1924年 – 東京の青山脳病院で火災。患者20人が焼死[1]。

1948年 – 免田事件。熊本県人吉市で祈祷師夫婦が殺害される事件が発生[2]。
1972年 – イースタン航空401便墜落事故。史上初のワイドボディ旅客機の全損事故。死亡101人 生存75人。

イースタン航空401便墜落事故(イースタンこうくう401びんついらくじこ、英: Eastern Air Lines Flight 401)とは、1972年12月29日にアメリカ合衆国フロリダ州のエバーグレーズで起きた航空事故である。

1989年 – 日経平均株価が算出開始以来の最高値を記録(ザラ場 38957.44円、終値38915.87円)。その後バブル経済は崩壊し、2024年までこの水準に回復することはなかった[2]。
1996年 – グアテマラ内戦: グアテマラ政府とグアテマラ国民革命連合(英語版)の間で和平合意が成立し、36年におよぶ内戦が終結。20万人以上が死亡し、数万人が行方不明になり、100万人以上が避難民となった。
1998年 – カンボジアのクメール・ルージュが1970年代の大量殺戮について謝罪。虐殺数は100万人から300万人まで諸説あるが、クメールルージュ政権前の内戦にて60万人死亡、内戦後クメールルージュ支配下で100万人以上は虐殺されている。

概要
クメール・ルージュは、民主カンプチアの指導者となったサロット・サル(ポル・ポト)の理想実現とその独裁体制や大量虐殺行為を支えた。ベトナム軍の侵攻による民主カンプチアの崩壊後、国際連合で中国とアメリカや日本[10]などから支持を得て亡命政府を樹立し、カンプチア人民共和国に対して地下活動で戦闘を行った。東西冷戦終結後、ベトナム軍がカンボジアから撤退したのちに国連の監視下で行われた選挙も拒否した。シハヌークによる王政復古後もカンボジアの辺境で孤立し続けたが、クメール・ルージュの残党は最終的に王国政府に投降した。カンボジア政府と国連が協力するカンボジア特別法廷が開かれ、ポル・ポトとその一派は人道に対する罪で裁かれることとなった。

クメール・ルージュのイデオロギーは、ヨーロッパ列強撤退後の反植民地主義的なナショナリズムと極端な毛沢東思想[11][12][13]を組み合わせたものである[14]。党の指導層は、1950年代のフランスの大学への留学中にそうした思想に親しみ、カンボジア人の間に存在したベトナム人への長い服従に対する反感にも影響されていた。また、タ・モクのような元僧侶も幹部に少なくなかったために、カンボジアなどの南方仏教に受け継がれた原始仏教に由来する禁欲主義も影響を与えたという見方もある[15]。彼らは政権を握るや、カンボジアの社会にかつて思い描かれた原始共産制への移行を試みた[16]。党中央が毛沢東思想に染まっていく上では中国共産党の康生の薫陶によるところが大きく、康生はポル・ポトと親交があった[17]。

大量粛清

クメール・ルージュ犠牲者
1975年4月のプノンペン陥落をもって無から始まる新しい時代として破壊の限りが尽くされたことからポル・ポト政権の時代はゼロ年(英語版)(クメール語: ឆ្នាំសូន្យ, ラテン文字転写: chhnam saun)と呼称された[53]。カンボジア各地にはキリング・フィールドと呼ばれる大量殺戮のための刑場が作られた[54]。ポル・ポトや強制収容所の所長だったカン・ケク・イウらオンカーの幹部の多くは高学歴でインテリ出身であったが、高度な知識や教養はポル・ポトの愚民政策の邪魔になることから眼鏡をかけている者(ポル・ポトの右腕ソン・センは眼鏡をかけていたにもかかわらず)、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者は片っ端から粛清の名目で殺害しており[55]、この政策は歴史的にも反知性主義の最も極端な例とされる[56][57][58][59]。病人・高齢者・妊婦などの弱者に対しても、オンカーは全く配慮しなかった[60]。音楽などの娯楽も否定され、国民的歌手のシン・シサモット、ロ・セレイソティア、ヨー・オウラーラングら音楽家、革命が成功したことを知って国の発展のためにと海外から帰国した留学生、資本家、旧政権関係者も殺害され、伝統文化の継承者も大量虐殺して文化浄化を行った。また、オンカーは「クメール・ルージュ」の俗称の通りクメール民族至上主義的であり[11]、原住民ではない入植者としてベトナム系や中国系などの非クメール人は積極的に民族浄化の対象となった[61][62][63]。ポル・ポト政権時代の華人と華僑の犠牲者は東南アジア史上最大規模とされ[64]、当初は42万人いた中国系も20万人に減った[64]が、ポル・ポトを支援した中華人民共和国はこれを無視した[65]。

オンカーによって殺害された人数は、様々な立場で検討されている。ヘン・サムリン政権は330万人が死亡したと主張した[注 8]。CIAは5万から10万人がオンカーによって殺害されたと推測したが、これには飢餓による死者数を含まない。アメリカ国務省、アムネスティ・インターナショナル、イェール大学のカンボジア人大量虐殺研究プロジェクトの3者は、120万人、140万人および170万人とそれぞれ推計している。これらの機関は内戦時代の爆撃や戦闘による死者数については数字を出していない。 フィンランド政府の調査団は、ポル・ポト政権以前の死者(戦闘・爆撃による)を60万人、ポル・ポト政権以後の死者を100万人としている。カンボジアでは1962年を最後に国勢調査が行われておらず、内戦時代には大量の死者および国内難民が発生しており1975年までの正確な人口動態が掴めていないために、こうした諸推計にも大きな開きが出ている。

オンカー支配下のカンボジアに残留した日本人女性は7名いたが、そのうち5名は死亡または行方不明。内藤泰子[注 9]と細川美智子[注 10]の2名は生き残り、1979年にベトナム経由で帰国した[66][67]。

2024年 – チェジュ航空2216便事故。乗客乗員181人のうち179人が死亡。

チェジュ航空2216便事故(チェジュこうくう2216びんじこ、韓国語: 12·29 제주항공 여객기 참사[1])は、2024年12月29日にチェジュ航空2216便(ボーイング737-800)が大韓民国(韓国)全羅南道務安郡の務安国際空港への胴体着陸に失敗し、大破炎上した航空事故である[2]。事故により乗員・乗客181名のうち乗員2名を除く179名が死亡した。

チャットgpt先生の12月29日のエッセイ


12月29日――年の終わりに置かれた「行政の暴力」と沈黙の記憶

12月29日は、暦の上では年末まであとわずか二日という、時間が静かに収束していく地点にあたる。旧暦では十一月十日、月齢九。完全な満月には届かず、しかし確実に満ちていく途中の月だ。この「未完成の円」は、12月29日に刻まれてきた歴史の性格を象徴しているように思える。出来事は終わったように見えて、検証も総括も、いまだ終わっていない。

この日に起きた出来事を並べると、ひとつの共通した重さが浮かび上がる。それは「事故」や「事件」という言葉では回収しきれない、人為と制度がもたらした死である。

1890年のウーンデッド・ニーは、その最も象徴的な例だ。合衆国政府はこれを「戦い」と呼び、第7騎兵隊に名誉勲章を授与した。しかし実態は、武装解除されたラコタ・スー族の集団に対する一方的な殺戮であり、行政命令の延長線上で遂行された民族浄化的暴力だった。私刑でも暴徒化でもない。制服を着た国家が、規則と正義の名のもとに行った殺害である点に、この出来事の決定的な恐ろしさがある。

ブラック・エルクの回想が示すのは、死者の数以上に、「夢が死んだ」という感覚だ。人が殺されただけではない。未来を思い描く能力そのものが、雪と血の中で窒息させられた。その夢の死は、いまなお完全には弔われていない。

12月29日は、日本においても「制度の内側で起きた死」を記憶させる。1924年の青山脳病院火災では、逃げる術を奪われた患者20人が焼死した。1948年の免田事件は、のちに冤罪として知られるが、発端は祈祷師夫婦の殺害という、地域社会の歪みが生んだ暴力だった。どちらも、弱い立場にある人々が最も大きな代償を払っている。

航空事故もまた、この日に繰り返されている。1972年のイースタン航空401便、2024年のチェジュ航空2216便。高度な技術と組織の集合体である航空システムが、一瞬の判断や構造的欠陥によって、数百の命を同時に失う。これらは単なる「不運」ではなく、管理、訓練、判断体系の問題として検証され続けるべき事象だ。

さらに1996年のグアテマラ内戦終結、1998年のクメール・ルージュによる謝罪が示すのは、暴力が長期化し、制度化した末に、ようやく「終わったことにされる」瞬間である。特にカンボジアでは、反知性主義と民族至上主義が結びつき、国家が自国民を徹底的に解体した。眼鏡をかけているという理由で殺される社会は、思想が現実をどこまで破壊できるかを冷酷に示している。

12月29日は、祝祭の日ではない。しかし忘却の日でもない。年の終わりに近いこの日は、「終わったこと」にされがちな死と暴力を、もう一度照らし返すために存在しているように思える。行政、制度、理想、効率、正義――それらが人の命よりも上位に置かれたとき、悲劇は必ず合理的な顔をして現れる。

月齢九の月は、まだ欠けている。検証も、反省も、和解も、完成してはいない。だからこそ12月29日は、静かに問いを残す日なのだ。
私たちは、どの死を「仕方がなかった」と片づけ、どの暴力を「記録しないまま」にしてきたのか。その問いを年越しの喧騒に紛れさせないこと、それ自体が、この日に生きる者の責任なのかもしれない。