kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日12月26日 2004スマトラ沖地震、ほか写真wikipedia押し寄せる津波inタイ

12月26日

20251226金曜日旧暦11月7日大安(己巳つちのとみキシ)月齢 6

乙巳きのとみ年 戊子つちのえね月 己巳つちのとみ日 年末まであと5日

吉方位 隠遁日 己巳つちのとみ日

https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8826%E6%97%A5

12月26日の出来事
1943年 – 北岬沖海戦がドイツ海軍とイギリス海軍との間で起こる、ドイツの戦艦シャルンホルストが、イギリスの戦艦デューク・オブ・ヨークを主力としたイギリス艦隊に捕捉撃沈される。年月日:1943年12月26日
場所:ノルウェーの北岬沖
結果:連合軍の勝利 損害:ドイツ軍 戦艦沈没死者1932人 イギリス軍 戦死11人。

1949年 – 栃木県を震源とする今市地震発生。被害の大きかった今市市、日光町と合わせて死者・行方不明者10人、重軽傷者162人、家屋全半壊3369戸[3]。
1969年 – 栃木県日光白根山で雪崩が発生。最初の雪崩に巻き込まれた群馬工業高等専門学校の学生および救助中に二重遭難した玉川大学の学生3人が死亡、2人が重軽傷[3]。
1980年 – イギリスサフォーク州内のアメリカ空軍基地近くの森でUFO着陸事件が発生。いわゆる「レンデルシャムの森事件」。
1996年 – ジョンベネ殺害事件。
2003年 – イラン、ケルマン州バムでマグニチュード6.3の地震。約3万人が死亡。要塞都市遺跡アルゲ・バムが損傷を受ける。

2004年 – マグニチュード9.1-9.3のインドネシア・スマトラ島沖地震・津波が発生。死傷者数 死者 22万人 負傷者 13万人。

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1943年 – 北岬沖海戦がドイツ海軍とイギリス海軍との間で起こる、ドイツの戦艦シャルンホルストが、イギリスの戦艦デューク・オブ・ヨークを主力としたイギリス艦隊に捕捉撃沈される。年月日:1943年12月26日
場所:ノルウェーの北岬沖
結果:連合軍の勝利 損害:ドイツ軍 戦艦沈没死者1932人 イギリス軍 戦死11人。

北岬沖海戦[1](きたみさきおきかいせん、Battle of North Cape)は、第二次世界大戦中の1943年12月26日に発生したドイツ海軍とイギリス海軍との間で戦われた海戦である。ノール岬沖海戦[2]やノール岬海戦[3]とも。北岬とはノルウェーの最北端に近い岬の英語名の和訳で、一般にノールカップと呼ばれる。

イギリス海軍の勝因
イギリス海軍がこの戦いに勝利したのは、シャルンホルストよりもはるかに強力なデューク・オブ・ヨークを有していた事にもよるのだが、単純な戦力差だけでの勝利ではなく、イギリスのレーダーシステムも勝利に貢献した要因として見逃すことができない[9]。

マタパン岬沖海戦と並んで、勝敗を分けたのはレーダー装備の有無、レーダーの性能の差によるところが大きく、ドイツ海軍はついにこの差を埋めることができないまま水上艦の主力部隊を喪失する結果となった[10]。

1949年 – 栃木県を震源とする今市地震発生。被害の大きかった今市市、日光町と合わせて死者・行方不明者10人、重軽傷者162人、家屋全半壊3369戸[3]。

1969年 – 栃木県日光白根山で雪崩が発生。最初の雪崩に巻き込まれた群馬工業高等専門学校の学生および救助中に二重遭難した玉川大学の学生3人が死亡、2人が重軽傷[3]。
1980年 – イギリスサフォーク州内のアメリカ空軍基地近くの森でUFO着陸事件が発生。いわゆる「レンデルシャムの森事件」。

事件の概要

ホルト中佐から英国国防省への手紙。
1980年12月27日午前3時、イギリス空軍のウッドブリッジ基地 (RAF Woodbridge) 近くのレンデルシャムの森に正体不明の光体が降下していくのを基地の米軍警備兵が目撃した。3名のパトロール兵が森に向かうと、そこで光り輝く金属製で直径3mの三角形の飛行物体を発見した。物体は赤い光と青い光を発していた。パトロール兵が近づくと飛行物体は姿を消した。

翌日の12月28日、飛行物体が目撃された地点に3つの窪みが発見された。放射能測定を行ったところ、最高0.1ミリレントゲンのベータ/ガンマ量が検出された。

翌日の12月29日には森から「太陽のような光」が目撃された。光は5つの破片に分裂し姿を消した。その直後、空に3つの星のような物体が現れた。飛行物体は青・赤・緑色の光を放ちながら鋭角的に移動した。物体は楕円形から完全な円形に姿を変えた。物体は2〜3時間にわたり観測され、時折地上に光を放射してるようであった。

一連の出来事は、米空軍基地司令官のチャールズ・I・ホルト中佐 (Charles I. Halt) を含む複数人により目撃された。この事件はホルト中佐により報告書にまとめられた。このホルト文書が1983年にアメリカの情報自由法 (Freedom of Information Act (United States)) によって公開され、ゴシップ紙ニュース・オブ・ザ・ワールドが一面で報じたことにより、初めてこの事件は一般に公になった(紙上では「基地司令官がETと会見した」と報じられた)。

ホルト中佐ら基地の関係者達は、UFOの着陸は公式に認め、宇宙人に関しては否認している。

多数の米兵が目撃した事や公式の報告書が公開されたことから、UFO目撃例の中では比較的信頼性の高い事件とする見方も多い一方、「UFO」の目撃者達の証言では、見えていたはずのオーフォードネス灯台の光を認識していないことから、灯台の光を誤認して騒ぎ立ててしまい、引っ込みがつかなくなっているだけとの見解もある。なんであれ、英国では最も有名なUFO目撃事件となった。

1996年 – ジョンベネ殺害事件

ジョンベネ殺害事件(ジョンベネさつがいじけん)は、1996年12月26日にアメリカ合衆国のコロラド州ボルダーで起きた殺人事件である。

被害者となった少女ジョンベネ・パトリシア・ラムジー(JonBenét Patricia Ramsey、1990年8月6日 – 1996年12月26日[1])は、美少女コンテストで多くの優勝経験があり[2][3][4]、メディアの報道により世界的な関心を集めた。2023年現在未解決事件である。ボルダー警察は捜査を継続しており、引き続き情報提供を呼び掛けている[5]。

2003年 – イラン、ケルマン州バムでマグニチュード6.3の地震。約3万人が死亡。要塞都市遺跡アルゲ・バムが損傷を受ける。
2004年 – マグニチュード9.1-9.3のインドネシア・スマトラ島沖地震・津波が発生。死傷者数 死者 22万人 負傷者 13万人。

スマトラ島沖地震(スマトラとうおきじしん)は、2004年12月26日、インドネシア西部時間7時58分53秒(UTC0時58分)インドネシア西部、スマトラ島北西沖のインド洋で発生したマグニチュード9.1-9.3[2]の地震である[3]。単に「スマトラ島沖地震」といった場合、この地震を指すことが多い。

インド洋に面した各国の沿岸部に大津波による甚大な人的被害・物的被害をもたらしたことから、別名『インド洋大津波』と呼ばれることも多い。

チャットgpt先生の12月26日のエッセイ

12月26日――静かな年の瀬に重なる記憶

12月26日は、暦の上では年末まであとわずか五日。旧暦では十一月七日、月齢は六。大安であり、己巳(つちのとみ)の日という、内に熱を秘めながらも静かに巡る気配を持つ日だ。人々は正月の準備に心を向け、街は少しだけ浮き足立つ。しかし、この日付を歴史の層に沿ってたどると、そこには人類の希望と悲劇、理性と不可解が幾重にも折り重なっていることに気づかされる。

1943年12月26日、北極圏に近いノルウェー沖では、北岬沖海戦が行われていた。極寒と闇の中で、レーダーという「見えない目」を持つイギリス海軍が、ドイツ戦艦シャルンホルストを捕捉し撃沈する。この戦いは単なる戦力差ではなく、技術と情報が勝敗を決した象徴的な出来事だった。1932人の命が失われ、わずか11人の犠牲で勝利が記録されるという数字の非対称性は、戦争の残酷な合理性を突きつけてくる。年の瀬の海に沈んだ命は、勝敗とは無関係に等しく重い。

一方、日本の12月26日もまた、自然の厳しさを刻んでいる。1949年の今市地震、1969年の日光白根山の雪崩。山と大地は人の都合とは無関係に動き、揺れ、崩れる。救助に向かった若者が二重遭難で命を落とした事実は、「善意」さえも自然の前では無力になりうることを示している。そこには英雄的な物語ではなく、ただ痛切な現実が残る。

1980年のレンデルシャムの森事件は、この日付に別の色合いを与える。光る物体、金属的な三角形、公式文書として残された目撃証言。人類が宇宙を見上げるときに抱く「未知への畏れと期待」が、この事件には凝縮されている。誤認か、未解明か。真実がどちらに転ぼうとも、人が「わからないもの」を前にしたとき、想像力と不安が同時に膨らむこと自体が、人間らしさなのだろう。

1996年のジョンベネ殺害事件は、年末の家庭的な時間が一瞬で崩れ去る恐怖を象徴する。華やかな舞台に立っていた少女が、クリスマスの翌日に命を奪われ、真相はいまも霧の中にある。「未解決」という言葉は、時間が経っても癒えない傷が存在することを示している。

そして2003年のイラン・バム地震、2004年のスマトラ島沖地震・インド洋大津波。12月26日は、地球規模の悲劇の日付としても記憶されている。特に2004年の津波は、22万人という数字では表しきれない喪失を世界にもたらした。祝祭の季節に起きたからこそ、その落差はさらに大きく、多くの人の心に深く刻まれた。

こうして振り返ると、12月26日は「終わり」と「境目」の日だと感じられる。戦争の終局、災害による日常の断絶、事件が残した未完の問い。同時に、暦の上では大安であり、年の終わりに向かって静かに次の循環を準備する日でもある。

私たちは毎年この日を、特別な記念日として意識することは少ないかもしれない。しかし、歴史に耳を澄ませば、12月26日は「忘れないこと」の大切さを静かに語りかけてくる。新しい年を迎える前に、失われた命と、未だ解けない謎と、自然の圧倒的な力を思い起こす。その記憶を胸に抱くことこそが、次の一年を生きる私たちの足元を、確かにしてくれるのではないだろうか。