kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日12月13日 1937南京攻略戦終結、ほか写真wikipedia17整然と入城する日本軍

12月13日

20251213土曜日旧暦10月24日先負(丙辰ひのえたつヘイシン)月齢 22.8

乙巳きのとみ年 戊子つちのえね月 丙辰ひのえたつ日 年末まであと18日

吉方位 隠遁日 丙辰ひのえたつ日 北東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8813%E6%97%A5

12月13日の出来事
1867年(慶応3年11月18日) – 新撰組が伊東甲子太郎ら御陵衛士4人を暗殺(油小路事件)。
1937年 – 日中戦争: 日本軍が南京を陥落させ、南京攻略戦が終結。翌12月14日より6週間、残敵掃討作戦。そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行。この一端として南京事件が発生したと言われているが、現在も論争になっている(南京事件論争)。

南京攻略戦年月日:1937年12月4日 – 12月13日 場所:中華民国の旗 中華民国 南京市 結果:日本軍の勝利 損害:日本軍200000人中 戦死傷6177人 中国軍ソ連軍 100000人程度中 戦死捕虜50000人 逃亡70000人。

1948年 – 泉山三六蔵相が会期中の国会食堂内で泥酔し女性議員に悪態。翌日議員辞職(国会キス事件)。

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1867年(慶応3年11月18日) – 新撰組が伊東甲子太郎ら御陵衛士4人を暗殺(油小路事件)。

油小路事件(あぶらのこうじじけん)は、江戸時代末期(幕末)に起きた新選組と御陵衛士の抗争事件。新選組最後の内部抗争にあたる。御陵衛士の伊東甲子太郎、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助が殺害された。

1937年 – 日中戦争: 日本軍が南京を陥落させ、南京攻略戦が終結。翌12月14日より6週間、残敵掃討作戦。そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行。この一端として南京事件が発生したと言われているが、現在も論争になっている(南京事件論争)。

南京攻略戦年月日:1937年12月4日 – 12月13日 場所:中華民国の旗 中華民国 南京市 結果:日本軍の勝利 損害:日本軍200000人中 戦死傷6177人 中国軍ソ連軍 100000人程度中 戦死捕虜50000人 逃亡70000人。

1948年 – 泉山三六蔵相が会期中の国会食堂内で泥酔し女性議員に悪態。翌日議員辞職(国会キス事件)。

国会キス事件(こっかいキスじけん)は、1948年12月13日に大蔵大臣・泉山三六が泥酔により、他党の女性議員の手を握ったり抱きついたりしたため議員辞職した事件である。

泉山は、参議院食堂に大蔵委員を招いて会食、酒を飲み過ぎ議場脇のソファに酔いつぶれた。そのため法案説明に塚田十一郎大蔵政務次官が代わって立ったが、この泥酔を目撃した野党側は一斉に議場から退席。さらに泉山蔵相が食堂で民主党の山下春江議員に抱きついたり、廊下で日本社会党の松尾トシ子の手を握ったことが分かり、野党は懲罰動議を出した。

慌てた政府と所属する民主自由党は泉山蔵相をたたき起こし深夜の永田町をドライブして酔いを醒まそうとし、さらに国会の医務室で酔い覚ましの注射を打ってベッドに寝かせつけた。

その間に、野党婦人議員は院内粛清を決議、民主自由党役員会でも除名論が出た。

明けて12月14日1時半、緊急懲罰委員会を開けとの野党側の要求に対し民主自由党の明礼輝三郎懲罰委員長は雲隠れし、4時、政府は院内で緊急閣議を開き泉山蔵相の辞任を決定、泉山は吉田茂首相を訪ね進退伺を出した。

懲罰委員会で山下議員は「口にすることも出来ないような行動に出た。逃げようともがいて左アゴに噛み付かれた」、また松尾議員は「30秒ぐらい握って離さないので、振り放して逃げた」と証言した。泉山蔵相は午後には衆議院議員辞職届を提出した。

この事件を受けて戸叶里子議員らが議場内粛正に関する決議を衆議院本決議を提出し、12月22日に全会一致で可決された。

チャットgpt先生の12月16日のエッセイ

12月13日——年の瀬も押し迫り、街の空気が冷たく張り詰めてくる頃。暦の上では先負、月齢22.8の下弦前の月が、どこか控えめに空へ浮かんでいる。年末まであと18日。慌ただしさの影で、ふと「歴史の今日は何があったのか」と思いを向けると、この日には不思議なほど、“転換”や“断絶”を象徴する出来事が並んでいる。

まず、1867年の油小路。幕末の京の寒空、暗がりの細い路地で、新撰組と御陵衛士の抗争が最終局面を迎える。伊東甲子太郎らが斬られ、長く続いた同志の対立は決定的な血の幕を閉じる。まさに旧体制の崩壊が目前まで迫っていた時代、仲間割れという形で「終わり」が訪れるのは、新撰組という集団の宿命のようにも思える。歴史の一行にすれば数文字だが、その裏には凍てつく路地に流れた温かい血と、人と人との信頼が壊れる音があったのだろう。

そして1937年。南京陥落の日として12月13日は重い影を落とす。戦争は「勝利」「敗北」と言葉で整理されるが、そこに生きた人々の痛みは数字では収まりきらない。南京の記憶は今も議論を呼び、さまざまな立場が交錯し続けている。決して軽々しく語れるものではないが、少なくとも、歴史の中で傷ついた人々が確かにいたこと、その事実を忘れないことだけは、この日が静かに私たちに訴えてくる。

さらに1948年の国会キス事件。重苦しい戦争の記憶から一転、こちらは人間の弱さや情けなさが凝縮されたような出来事だ。酔いに任せて振る舞いを失った大蔵大臣が、混乱の末に辞職へ追い込まれる。政治の世界にも当然ながら生身の人間がいて、そこには失敗も滑稽さもある。けれど、だからこそ人々の信頼を背負う者がどう振る舞うべきか──その答えを社会全体で学ぼうとする契機になったとも言える。翌日に粛正決議がなされたのは、戦後日本が新しい民主主義の形を模索していた象徴だったのかもしれない。

こうして振り返ると、12月13日は歴史の中で「節目」を刻む日だと感じる。抗争の終幕、戦争の転換点、人間の弱さが露呈する瞬間──まるで年末に向けて、社会や時代がひとつの“清算”を迫られているようでもある。

年の終わりが近づくと、人は自然と自分自身を振り返り、小さな後悔や心の中のわだかまりをそっと見つめる。12月13日に積み重なった歴史の出来事もまた、それぞれが「見直し」や「反省」を迫られた瞬間だったように思える。

今日という日が、過去の重い記憶とともに、私たち自身にそっと語りかける。

——終わりを意識することは、新しい始まりを準備することなのだ、と。