kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日12月6日  1223チンギスハン軍ルシ侵略開始、ほか写真wikipedia進軍経路図

12月6日

20251206土曜日旧暦10月17日友引(己酉つちのととりキユウ)月齢 15.8

乙巳きのとみ年 丁亥ひのとい月 己酉つちのととり日  年末まであと25日

吉方位 隠遁日 己酉つちのととり日 北西 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%886%E6%97%A5

12月6日の出来事

1240年 – モンゴルのルーシ侵攻: バトゥ率いるモンゴル軍によりキーウが陥落し、キエフ大公国が滅亡。時 1223年、および1236年-1240年 場所 現在のウクライナ、ロシア、ベラルーシ 結果 モンゴル帝国の圧勝、キエフ大公国の滅亡、ルーシ諸国のジョチ・ウルスへの属国化 損害:1232遠征時 モンゴル軍20000人中 戦死7000人以上 ルシ(ロシア)諸国軍 1223年 80000人中 ルシの人口の半数が死傷捕虜奴隷 少なくとも500000人以上。(1223遠征だけで数万から10万人規模の殺害と見積もられる)

1917年 – ハリファックス大爆発。ハリファックス大爆発(ハリファックスだいばくはつ、英語: Halifax Explosion)は、1917年12月6日朝、カナダのノバスコシア州ハリファックスで発生した大災害である。ノルウェー船「イモ(Imo)」が、高性能爆薬を積んだフランスの貨物船「モンブラン(Mont-Blanc)」と衝突し、モンブランで発生した火災が積荷に燃え移り、ハリファックスのリッチモンド地区(英語版)を破壊する大爆発を起こした。爆風や破片、火災、建物の倒壊により約2,000人が死亡したほか、推定9,000人が負傷した

1989年 – モントリオール理工科大学虐殺事件。日付 1989年12月6日

標的        女子学生

攻撃手段                 銃撃

武器        ミニ14

死亡者    14人

負傷者    14人

犯人        マルク・レピーヌ

動機        フェミニズムへの敵意

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1240年 – モンゴルのルーシ侵攻: バトゥ率いるモンゴル軍によりキーウが陥落し、キエフ大公国が滅亡。時 1223年、および1236年-1240年 場所 現在のウクライナ、ロシア、ベラルーシ 結果 モンゴル帝国の圧勝、キエフ大公国の滅亡、ルーシ諸国のジョチ・ウルスへの属国化 損害:1232遠征時 モンゴル軍20000人中 戦死7000人以上 ルシ(ロシア)諸国軍 1223年 80000人中 ルシの人口の半数が死傷捕虜奴隷 少なくとも500000人以上。(1223遠征だけで数万から10万人規模の殺害と見積もられる)

モンゴルのルーシ侵攻(モンゴルのルーシしんこう)は、1223年のカルカ河畔の戦いに始まり、1236年のバトゥの西征で本格化する、ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争である。

1223年のカルカ河畔の戦いでは、スブタイとジェベのモンゴル軍偵察隊にルーシ諸侯やキプチャク(クマン人)連合軍が挑み、ルーシ・キプチャク連合軍が大敗したが、モンゴル軍はルーシの征服は行わず東へ去っていった。その十数年後、バトゥは征西のために大軍を率いてルーシおよびヨーロッパへの大規模侵攻を開始する。これに対し、キエフ大公国の分裂後のルーシを割拠するノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが戦ったが、結果はルーシ諸国の大敗に終わり、ルーシの人口に甚大な被害が出た。人口の半分を失う結果になった[1]という見方もあれば、犠牲者は50万人ほどという見方もある[2]。

結果
歴史家の間では、モンゴル帝国の侵入によって引き起こされた虐殺の規模について意見の相違が見られる。ルーシの人民の犠牲者数は疑いなく甚大だった。特に、モンゴルは征服に抵抗する都市に対しては、全人口の抹殺をもって応じており、ルーシの都市も例外でなかった。「Atlas of World Population History, 1978」の著者、コリン・マッケヴェディ(Colin McEvedy)はルーシの人口はモンゴル侵攻前の750万人から700万人に減少したとみており[2]、これによれば50万人が殺されたということになる。その他の犠牲者数見積はより大きく、ルーシの人口の半分が殺されたという見方もある[1]。

1917年 – ハリファックス大爆発。ハリファックス大爆発(ハリファックスだいばくはつ、英語: Halifax Explosion)は、1917年12月6日朝、カナダのノバスコシア州ハリファックスで発生した大災害である。ノルウェー船「イモ(Imo)」が、高性能爆薬を積んだフランスの貨物船「モンブラン(Mont-Blanc)」と衝突し、モンブランで発生した火災が積荷に燃え移り、ハリファックスのリッチモンド地区(英語版)を破壊する大爆発を起こした。爆風や破片、火災、建物の倒壊により約2,000人が死亡したほか、推定9,000人が負傷した

総括
ハリファックス大爆発は、人間が引き起こした核爆発以外の大爆発の一つである。1994年にハリファックスの歴史家ジェイ・ホワイト(Jay White)は130の大爆発を幅広く比較し、「ハリファックス大爆発は、5つの要素:被害者数、爆発力、廃墟の半径、爆発物の量、破壊された資産の総額を複合的に考察する限り、全体的な規模で並ぶものがない。」と結論付けた[145]。長い間、ハリファックス大爆発は大きな爆発を比較する上での基準となった。例えば、広島への原子爆弾投下の報道で「タイム」誌は、リトルボーイの爆発力はハリファックス大爆発の7倍だと述べた[2]。

1989年 – モントリオール理工科大学虐殺事件

日付        1989年12月6日

標的        女子学生

攻撃手段                 銃撃

武器        ミニ14

死亡者    14人

負傷者    14人

犯人        マルク・レピーヌ

動機        フェミニズムへの敵意

概要

マルク・レピーヌは大学の教室に入り、男子学生と女子学生に分けた後、フェミニズムに反対していることを告げ、部屋にいた9人の女性を銃撃(うち6名は死亡)。その後レピーヌは、廊下からカフェテリアへ、そして別の教室へ移動しながら女性ばかりを銃撃。14人の女性を殺害、4人の男性と10人の女性に怪我を負わせた。その20分後、レピーヌは銃によって自殺した[1][2]。

死者数は、カナダで発生した銃撃事件の中では、2020年にノバスコシア州銃撃事件で更新されるまで過去最大の事件となっていた[3]。

動機

レピーヌはフランス系カナダ人の母親とアルジェリア人の父親の間に生まれ、子供の頃から父親に肉体的な虐待を受けるとともに、徹底した女性蔑視の思想を植え付けられた。彼のノートには政治的な動機と、フェミニズムによって自分の人生が台無しになったことが書かれていた。また、ノートには、レピーヌがフェミニストだと考え、殺したいと願ったと思われるケベックに住む19人の女性の名前が表になっていた[4]。

彼はモントリオール理工科大学の受験に失敗し、その理由を追及した結果、「男性が占めていた理工科系の世界に女性が進出し始めたから」「男が座っていた椅子を新興勢力の女性が奪ったから自分は落ちた」という理屈を導き出した。そして「女は高等教育を受けるべきではない」、よって「行き過ぎた教育を女に施すフェミニストは殺害するべきだ」として虐殺事件を起こした[5]。

チャットgpt先生の12月6日のエッセイ


**12月6日という日をめぐる考察

――破壊の記憶と、静かに続く人間の営み――**

旧暦では10月17日、月齢15.8。澄んだ冬空にまんまるに近い月が昇る頃、私たちは暦の上で“年末まであと25日”という現実に気づく。慌ただしさの影で、日付の中に潜む歴史をあらためて見つめると、この12月6日という日は、奇妙なほど「破壊」と「喪失」に結びつく出来事に満ちている。

遠く離れた時代と場所で起きた3つの事件――
1240年のキーウ陥落、1917年のハリファックス大爆発、1989年のモントリオール理工科大学虐殺――。
それぞれ異なる背景を持ちながら、共通して「人間社会の脆さ」と「暴力がある瞬間にすべてを奪う」という残酷さを浮かび上がらせる。

■ キーウ陥落 ―― 国家と人口が失われるということ

モンゴルのルーシ侵攻によってキーウが陥落したのは1240年のこの日。
歴史の記録が示す被害規模は推計によって異なるものの、
「人口の半分を失った」という見方さえあるほどの壊滅だった。

建物が失われるよりも重いのは、時間が失われたことだろう。
文化、記憶、人のつながり。
破壊とは単に命を奪うだけではなく、「未来の可能性」までも奪い去るものなのだ。

■ ハリファックス大爆発 ―― 人間の文明が生む破壊の力

1917年のハリファックスでの爆発は、
核兵器を除けば人類史上最大級の人工爆発とされる。

港を埋め尽くした瓦礫、吹き飛んだ街、2,000人近い死者。
その破壊力は、同時代の人々に「原子爆弾の7分の1」という比較を想起させたほどだ。

技術は人間を豊かにしながら、その裏側に絶えず“制御できない力”を孕んでいる。
文明が進むほど、私たちは自らが作ったものに脅かされる危険と共存せねばならない。

■ モントリオール理工科大学虐殺 ―― 個人の憎悪が社会を撃つ

1989年のこの日、社会に潜む女性嫌悪が銃声となって現れた。
マルク・レピーヌは、自らの挫折の理由をフェミニズムになすりつけ、
女子学生だけを狙って14人を殺害した。

これは単なる銃撃事件ではない。
「自分の失敗や不安を弱者に向ける」という、
現代にも続く問題の典型であり、
社会に沈殿する差別や憎悪が、ある瞬間に突沸する怖さを示している。

暴力は、国家の野心からも、技術の偶然からも、人間の心の闇からも生まれる。

■ 過去を振り返る理由

12月6日という日を並べてみると、
“破壊の歴史の日”と呼びたくなるほどだ。

しかし、こうした過去を並べることで感じるのは、
「人類は暴力の記憶とともに今日を生きている」という事実でもある。

暦の上では友引、吉方は北西で大吉。
日々の生活の中では、占いや天気、今日の予定が私たちの関心を占める。
けれども、過去の同じ日に失われた多くの生命を思い返すと、
“今日を生きている”ということがどれほど偶然で、どれほど貴いことかを思い知らされる。

■ 破壊の記念日を、生の記念日に変える

過去の悲劇は変えられない。
だが、その記憶に触れた私たちは、
今日という日の意味を静かに更新することができる。

・暴力に鈍感にならないこと
・差別や憎悪の芽に気づくこと
・技術と文明には必ず責任が伴うこと
・平穏な一日がどれほど脆いバランスの上に成り立つかを忘れないこと

12月6日は、人類史の「破壊の記録」を思い返す日であると同時に、
“いま自分が手の中に持っている平穏の重さ”を確かめる日でもある。

凍てつく空を照らす満ちかけの月のように、
世界の歴史にも、光と影が同時に存在している。