kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日11月27日    1868ウォシタ川の虐殺、ほか写真wikipediaカスターらに襲撃される集落

11月27日

20251127木曜日旧暦10月8日大安(庚子かのえねコウシ)月齢 6.8

乙巳きのとみ年 丁亥ひのとい月 庚子かのえね日 年末まであと34日

吉方位 隠遁日 庚子かのえね日

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8827%E6%97%A5

11月27日の出来事
1868年 – インディアン戦争: ウォシタ川の戦い。1868年11月27日に、アメリカ軍ジョージ・アームストロング・カスター中佐率いる第7騎兵隊が、ブラック・ケトルを酋長とするシャイアン族インディアンのバンド(一団)の、ウォシタ川沿いのティーピー野営[4]を奇襲したもの。「戦い(Battle)」と名は付いているが、実情は米軍がインディアンの村を襲い、無抵抗のインディアンを無差別大量虐殺した民族浄化である。損害: アメリカ軍 第7騎兵隊 戦死21人 負傷13人 シャイアン族 150人 非戦闘員も含み全滅。
1947年 – 新潟県高田市の精神病院で火災が発生。死者20人[3]。
1949年 – 長崎県大島町の松島炭鉱(大島第2坑)でガス爆発が発生。死者7人、負傷者46人[4]。
1973年 – インド、ムンバイの病院で女性看護師アルナ・シャンバグがレイプの被害に遭い、植物状態になる。看護師は以後41年半意識を取り戻さないまま、2015年5月18日に死去した。

2009年 – ロシア、トヴェリ州ボロゴエ付近で列車脱線事故、26人死亡[6]。

——————————————–

1868年 – インディアン戦争: ウォシタ川の戦い。1868年11月27日に、アメリカ軍ジョージ・アームストロング・カスター中佐率いる第7騎兵隊が、ブラック・ケトルを酋長とするシャイアン族インディアンのバンド(一団)の、ウォシタ川沿いのティーピー野営[4]を奇襲したもの。「戦い(Battle)」と名は付いているが、実情は米軍がインディアンの村を襲い、無抵抗のインディアンを無差別大量虐殺した民族浄化である。損害: アメリカ軍 第7騎兵隊 戦死21人 負傷13人 シャイアン族 150人 非戦闘員も含み全滅。

・突然の白人の襲撃に、ブラック・ケトルはもはや逃げようとはしなかった。「サンドクリークの虐殺」を経て、白人はここに再び和平協定を破った。その妻メディシン・ウーマン・レイターとともに、自分のティーピーのそばで射殺された。ブラックケトルの頭の皮を、オーセージ族の斥候が剥いだ[39][40]。カスターはブラック・ケトルたちの虐殺を終えた後で、間もなく自分が危険な立場におかれていることを知った。襲撃が下火になり始めたときに、カスターは大集団の騎馬インディアンが近くの丘の上に集まっていることに気付いた。カイオワ族やアラパホー族、シャイアン族がブラック・ケトル・バンドの危機を察して救援に駆け付けたのである。ここで初めてカスターは、ブラック・ケトル・バンドの野営は、川沿いに野営している多くのインディアン部族の野営のなかの1つに過ぎないことを理解したのである。カスターは救援隊の攻撃を恐れて、急いで部隊に防御体制をとり、また殺したシャイアン族インディアンの所持品や馬を収奪するよう命じた。運べないと判断された物品は破壊され、200頭の馬やポニーはシャイアン族の捕虜と一緒にまとめた[41]。

虐殺のあと
白人側でどのような議論があろうと、シャイアン族にとってはカスターのこの所業は隠れもない「大虐殺」だった。なにより、合衆国はこの虐殺の後、「酋長と盟約してもインディアンは言うことを聞かない」という、白人側の勝手な思い込みによって、インディアン部族と和平会談を持とうとしなくなった。以後合衆国は、彼らの侵略に対してインディアンたちが武器を取って立ち向かおうものなら、問答無用で最新鋭の重火器でこれに攻撃を加え、部族そのものを保留地におしこめるという民族浄化をさらに激化させていったのである。

一方、シャイアン族は「サンドクリークの虐殺」と併せたこの虐殺を決して忘れなかった。8年後、彼らは宿敵カスターを「リトルビッグホーンの戦い」で打ち破ったが、この際、死んだカスターの耳に「和平の調停がよく聞こえるように」と錐で穴を開けたと現在もシャイアン族は伝えているのである。

1947年 – 新潟県高田市の精神病院で火災が発生。死者20人[3]。
1949年 – 長崎県大島町の松島炭鉱(大島第2坑)でガス爆発が発生。死者7人、負傷者46人[4]。
1973年 – インド、ムンバイの病院で女性看護師アルナ・シャンバグがレイプの被害に遭い、植物状態になる。看護師は以後41年半意識を取り戻さないまま、2015年5月18日に死去した。

2009年 – ロシア、トヴェリ州ボロゴエ付近で列車脱線事故、26人死亡[6]。

チャットgpt先生の11月27日のエッセイ


11月27日 ― 静けさの裏にある記憶

11月27日。
旧暦では霜月八日、大安。月齢は6.8。
冬の入り口に立つこの日、空気は澄み、月はまだ満ちきらず、夜は静かに人の心を照らす。
しかし、暦の光の裏で、この日は世界のあちこちに深い影を残してきた日でもある。


■ ウォシタ川の朝

1868年11月27日。
アメリカ大陸の広大な平原、ウォシタ川沿い。
夜明け前の冷え込みの中で、シャイアン族の野営地に、突然の銃声が響いた。
ジョージ・カスター中佐率いる第7騎兵隊が、ブラック・ケトルの村を襲撃したのだ。
和平を願い、白旗を掲げた酋長とその妻は、ティーピーの傍らで撃たれた。
村は炎に包まれ、子どもも女も老人も区別なく殺された。

白人の記録はこれを「戦い(Battle)」と呼んだ。
だがシャイアン族にとって、それは「虐殺(Massacre)」以外の何ものでもなかった。
カスターの軍が立ち去ったあとに残ったのは、凍りつく大地と、沈黙だけだった。

八年後、彼はリトルビッグホーンの戦いで命を落とす。
その死体の耳に開けられた小さな穴は、「次の世界では、和平の声が聞こえるように」との祈りだったという。
人の歴史はしばしば血で書かれるが、その血はいつも、どこかで祈りとともに流れている。


■ 炎と息の止まる日

時を経て、1947年の日本。
新潟県高田市の精神病院で火災が起き、20人が亡くなった。
その二年後には、長崎県の松島炭鉱でガス爆発が起こり、7人が帰らぬ人となった。
閉ざされた場所で起こる悲劇は、いつも社会の目から遠く、報じられてもすぐに風化していく。
しかし、火もガスも、無情ではあっても無意味ではない。
それは「安全」や「尊厳」を問う声として、静かに今も響いている。


■ ひとつの命の長い祈り

1973年、インド・ムンバイの病院。
若い看護師アルナ・シャンバグは、夜勤中に襲われ、意識を失ったまま41年半を生き続けた。
彼女の身体は眠りながらも、まるで「人の尊厳とは何か」を問い続けていたようだった。
生命維持の是非が社会で議論されるたび、彼女の名が呼ばれた。
やがて2015年、彼女は静かに息を引き取る。
その死は「終わり」ではなく、「問いの継承」だった。


■ 歴史を包む冬の光

11月27日。
この日をめぐる記録には、火、血、沈黙が並んでいる。
だがそれらの底には、人が生き、感じ、祈った証が確かにある。
ウォシタ川の冷気の中でも、燃えさかる病院の中でも、誰かが誰かを思い、助けようとした。
それが、たとえ報われぬ結末に終わったとしても。

冬の光は冷たい。
けれど、冷たさの中にこそ、人の温もりは深く感じられる。
年の瀬まであと34日。
暦が静かにめくれるこの日、
私たちはただ「平和であること」の重さを、ひととき心に置きたい。


――11月27日。
その静けさの下には、たしかに生きた人々の息がある。
暦の言葉でいえば「隠遁日」。
喧騒を離れ、過去を思い、未来を見つめるのにふさわしい日だ。