kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
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今日という日11月18日  1916ソンムの戦い、ほか写真wikipediaソンムのイギリス軍塹壕

11月18日

20251118火曜日旧暦9月29日先勝(辛卯かのとうシンボウ)月齢 27.6

乙巳きのとみ年丁亥ひのとい月辛卯かのとう日  年末まであと43日

吉方位 隠遁日 辛卯かのとう日  東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8818%E6%97%A5

11月18日の出来事

794年(延暦13年10月22日) – 桓武天皇が長岡京から平安京へ遷都。

1307年 – 伝承によると、ウィリアム・テルが自分の息子の頭上に乗せられたリンゴを射抜く。

1727年 – イラン北西部のタブリーズで大地震発生。死者約7万人。

1803年 – ハイチ革命: ヴェルティエールの戦い。ジャン=ジャック・デサリーヌ指揮のアフリカ人(黒人)奴隷反乱軍がフランス軍(ナポレオン・ボナパルト軍)に勝利。サン=ドマング(現在のハイチ共和国)独立が決定的になる。場所 ハイチ、カパイシャン南部

結果 ハイチ軍の勝利  損害  フランス軍2000人中 1200人戦死傷 ハイチ軍 2万7千人中 1200人 戦死 2000人負傷。

1916年 – 第一次世界大戦: ソンムの戦いが終結。年月日:1916年7月1日 – 11月18日

場所:フランスのピカルディ地方のソンム 結果:膠着 損害 イギリス他連合軍 戦死傷655000人 ドイツ他同盟軍 戦死傷500000人。

1930年 – 牧口常三郎と戸田城聖が、創価学会の母体である創価教育学会を設立[1]。

1941年 – 愛知県豊橋市内で竜巻が発生。死者12人、重傷者10人、軽傷者30人[2]。

1978年 – ガイアナ・ジョーンズタウンで、新宗教「人民寺院」の教祖ジム・ジョーンズとその信者が集団自殺。914人が死亡。

794年(延暦13年10月22日) – 桓武天皇が長岡京から平安京へ遷都。

1307年 – 伝承によると、ウィリアム・テルが自分の息子の頭上に乗せられたリンゴを射抜く。

ウィリアム・テル(ドイツ語: Wilhelm Tell〔ヴィルヘルム・テル〕、フランス語: Guillaume Tell〔ギヨム・テル[1]〕、イタリア語: Guglielmo Tell〔グリエルモ・テル〕、ロマンシュ語: Guglielm Tell〔グリエルム・テル〕、英語: William Tell)は、スイスの伝説に登場する民衆の英雄で、弓(クロスボウ)の名手。14世紀初頭にスイス中央部のウーリ州アルトドルフに住んだとされ、オーストリア公国(ハプスブルク家)が同地に置いた代官であるゲスラーを暗殺し、これにより民衆の周辺国への反抗が生まれて、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンとともにスイス同盟(英語版)の基礎が作られたとされている。彼の名が記された史料が見つかっていないため実在性は証明されていないが、スイス人の6割はテルが実在の人物であると信じている[2]。

1727年 – イラン北西部のタブリーズで大地震発生。死者約7万人。
1803年 – ハイチ革命: ヴェルティエールの戦い。ジャン=ジャック・デサリーヌ指揮のアフリカ人(黒人)奴隷反乱軍がフランス軍(ナポレオン・ボナパルト軍)に勝利。サン=ドマング(現在のハイチ共和国)独立が決定的になる。場所 ハイチ、カパイシャン南部
結果 ハイチ軍の勝利  損害  フランス軍2000人中 1200人戦死傷 ハイチ軍 2万7千人中 1200人 戦死 2000人負傷。

ヴェルティエールの戦い(Battle of Vertières)は、第二次ハイチ独立戦争の最後の大規模な戦いで、フランソワ・カポワの率いるハイチ革命の最後を飾る戦いである。ハイチ反乱軍とフランス遠征軍の間で、1803年11月18日に戦われた。戦いの場となったヴェルティエールは、ハイチのカパイシャンにある。1803年10月末までには、ハイチ反乱軍は既にほぼ全ての領土をフランスから取り返しており、フランス軍に残された場所は、ノアイユ公の守るモール・サン・ニコラ郡とロシャンボー子爵が5000人の部隊を率いて守るカプ=フランソワだけになっていた。

ヴェルティエールの戦いでは、人類史上初めて奴隷軍が自由を勝ち取るのに成功した。これ以来、11月18日はハイチで「軍と勝利の日」として広く祝われている。

1916年 – 第一次世界大戦: ソンムの戦いが終結。年月日:1916年7月1日 – 11月18日
場所:フランスのピカルディ地方のソンム 結果:膠着 損害 イギリス他連合軍 戦死傷655000人 ドイツ他同盟軍 戦死傷500000人。

ソンムの戦い(ソンムのたたかい、仏: Bataille de la Somme、英: Battle of the Somme、独: Schlacht an der Somme)は、第一次世界大戦における最大の会戦である。1916年7月1日から同11月19日までフランス北部・ピカルディ地域圏を流れるソンム河畔の戦線において展開された。連合国側のイギリス軍・フランス軍が同盟国側のドイツ軍に対する大攻勢として開始し、最終的に両軍合わせて100万人以上の損害を出したが、連合国軍はわずかな土地を獲得したにとどまり、ドイツ側は後退を最少におさえた。

大戦初期のマルヌ会戦などに比して武器の消費量や性能も飛躍的に向上し、軽機関銃も初登場した。また当時新兵器であった戦車が初めて投入された戦いでもある。

1930年 – 牧口常三郎と戸田城聖が、創価学会の母体である創価教育学会を設立[1]。

1941年 – 愛知県豊橋市内で竜巻が発生。死者12人、重傷者10人、軽傷者30人[2]。
1978年 – ガイアナ・ジョーンズタウンで、新宗教「人民寺院」の教祖ジム・ジョーンズとその信者が集団自殺。914人が死亡。

全体で914人が死亡し、内276人が子供であった[94]。この集団自殺は、現代における同様の惨劇の中でも最大規模のものであり、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生するまで、アメリカ合衆国民の故殺において最多の被害者数を記録した事件であった[95][96][97]。この人数には、同日夜にジョージタウンの人民寺院本部で死亡した4人も含まれている[98]。

人民寺院のサンフランシスコ本部は、メディアや犠牲者の遺族に取り囲まれた[99]。この出来事は、ギャラップによる調査によれば、アメリカ史の中で最も知られている出来事のひとつであり、タイム誌等様々な雑誌の表紙や、数ヶ月間新聞の一面を飾った[100]。

事件後、米国で生活していた信者は、ジョーンズタウン事件の生存者による「テロ組織」による攻撃対象になるという危険性を警察は公表した[101][102]。1979年にはアメリカ議会補佐官は、ジョーンズタウンからの洗脳された120人の暗殺者達が殺害の指示を待っている、と述べた[103]。

人民寺院会員のマイケル・プロークスは、ソビエト連邦共産党に人民寺院の財産を詰めたスーツケースを運ぶ命令を受けていたが[104][105]、集団自殺事件の4ヶ月後、1979年3月に自殺した。自殺の数日前、プロークスは30枚に及ぶ人民寺院について書き残した書付を数人の人物に送っていた。コラムニストのハーブ・カンはサンフランシスコ・クロニクルのコラムの一部を再印刷した[106]。プロークスは、モデストのモーテルの部屋で記者会見を行った。会見には8人の記者が参加し、プロークスは声明を読み上げ、弁明を行った。その後トイレで頭を撃ち抜き自殺した[106]。

この惨事の前、人民寺院信者のパウラ・アダムスは、ガイアナのアメリカ合衆国大使、ローレンス・”ボニー”・マンと恋愛小説的な縁で婚約し[107]、後に結婚した[108]。しかし1983年10月24日、マンはアダムスと自身の子供を射殺した後、自殺した。教団離反者のハロルド・コーデルは、この集団自殺で教団に残っていた家族20人を失っている[109]。同じく教団を離反したボグ一家は、彼らの娘マリリー(当時18歳)を失い、別の離反者ヴァーノン・ゴスニーは息子のマーク(当時5歳)を失っている[110]。

人民寺院の集団自殺は、新宗教が破滅的なものであるという認識を深く刻み込んだ。ただし、ブライアン・R・ウィルソンは、実際にこのような出来事を引き起こした宗教団体は、人民寺院と、ブランチ・ダビディアン、太陽寺院、オウム真理教そしてヘヴンズ・ゲートの5つに過ぎないと指摘している[111]が、その後も神の十戒復古運動が信者の大量殺戮を実施している。

チャットgpt先生の11月18日のエッセイ


11月18日――人の手で世界を作り直す日

2025年11月18日、火曜日。旧暦では九月二十九日。
月齢は27.6、夜空に残る細い月が、長い一年の終わりを静かに照らしている。
暦の上では「先勝」。そして「隠遁日」。物事を派手に進めるより、静かに内を見つめるのにふさわしい日だという。
吉方は東――新しい日の出の方角だ。

歴史の頁をめくれば、この日は何度も「新しい始まり」や「世界の転換」を刻んできた日でもある。
794年、桓武天皇が平安京に都を移した。長岡京からのわずか十年の旅の果てに、千年の都が誕生した。そこには、人が永く安らかに生きる国を築きたいという祈りがあっただろう。だが「平安」という言葉の理想は、いつの時代も人の手の届くようで届かない。

1307年、この日、スイスの山あいではウィリアム・テルが息子の頭上のリンゴを射抜いたという。
圧政に抗う民の象徴として語り継がれたその伝説は、真実かどうかよりも、「恐怖に屈せず正義を貫く」という物語の力を今に伝えている。人は、自由のために弓を引く。たとえ伝説の矢であっても。

1803年のハイチでは、奴隷として連れてこられた人々がフランス軍を打ち破った。
ヴェルティエールの戦い――世界史上初めて、奴隷が自らの手で自由を勝ち取った日。
「自由」「人間の尊厳」という言葉が、書物の理屈ではなく血と汗の重みをもって示された日である。
この日をハイチでは今も「軍と勝利の日」と呼ぶ。
その勝利は、暗闇の中の一筋の光のように、世界のあちこちで今も灯り続けている。

1916年の同じ日、フランスのソンムでは、第一次世界大戦の大攻勢がようやく終わった。
百万人を超える死者と負傷者を出しながら、得られた土地はわずかだった。
文明が進んでも、人はなぜ同じ場所に塹壕を掘り続けるのか――
その問いは、今も世界のどこかで鳴り止まない砲声の中に響いている。

そして1978年。ガイアナのジャングルの奥で、ジム・ジョーンズ率いる人民寺院の信者914人が集団自殺を遂げた。
信仰が人を救うこともあれば、破滅へ導くこともある。
「信じる」という行為が、どれほど危うい綱の上を歩くことなのか、この事件は痛烈に教えている。
理想を語る声が大きくなるほど、そこに潜む人間の弱さや恐れを見失いやすくなるのだ。

――平安京の建都も、ウィリアム・テルの矢も、ハイチの自由も、ソンムの塹壕も、そしてジョーンズタウンの悲劇も。
それらはすべて、人間が「よりよい世界」を求めた結果として起きた出来事だ。
「よりよく」と願う心が、時に希望となり、時に狂気となる。
だが、それでも人は願い続ける。破壊のあとに再び築き、沈黙のあとにまた歌う。

今年の11月18日、東の空から昇る朝日を見上げながら思う。
平安を願った天皇も、自由を射抜いた弓の英雄も、鎖を断ち切った民も、
そして、信じる力に敗れた人々も――すべてが「人間の可能性」という名の物語の登場人物だ。

残り43日で一年が終わる。
この年の終わりに、私たちはまた一つのページを閉じ、次の時代へと歩み出す。
東の方角、大吉の方へ。
静かに、しかし確かに。