kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日11月16日 1632三十年戦争リュッツェンの戦い、ほか写真wikipediaグスタフアドルフ戦死

11月16日

20251116日曜日旧暦9月27日大安(己丑つちのとうしキチュウ)月齢 25.6

乙巳きのとみ年丁亥ひのとい月己丑つちのとうし日 年末まであと45日

吉方位 隠遁日 己丑つちのとうし日  https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8816%E6%97%A5

11月16日の出来事
1632年(ユリウス暦11月6日) – 三十年戦争: リュッツェンの戦い  年月日:1632年11月16日(旧暦11月6日)場所:リュッツェン(ドイツ語版、英語版)近郊  ドイツのライプツィヒ南西 結果:プロテスタント軍の勝利 損害 プロテスタント軍 17000人中 戦死傷5000人 神聖ローマ帝国カトリック軍 17000人中 戦死傷4000人。
1849年 – フョードル・ドストエフスキーに対し死刑判決。後に執行直前に特赦によりシベリア流刑に減刑。
1940年 – 第二次世界大戦: 2日前のドイツ軍によるコヴェントリー空襲(英語版)に対し、イギリス空軍がハンブルクを爆撃。

1957年 – エド・ゲインによる連続猟奇殺人事件が発覚。

——————————————————————–

1632年(ユリウス暦11月6日) – 三十年戦争: リュッツェンの戦い  年月日:1632年11月16日(旧暦11月6日)場所:リュッツェン(ドイツ語版、英語版)近郊  ドイツのライプツィヒ南西 結果:プロテスタント軍の勝利 損害 プロテスタント軍 17000人中 戦死傷5000人 神聖ローマ帝国カトリック軍 17000人中 戦死傷4000人。

リュッツェンの戦い(Schlacht bei Lützen)は、三十年戦争中の1632年11月16日(旧暦11月6日)にドイツのライプツィヒ南西、リュッツェン(ドイツ語版、英語版)近郊において、グスタフ2世アドルフ(グスタフ・アドルフ)率いるスウェーデン軍およびドイツ・プロテスタント諸侯の連合軍と、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン率いる神聖ローマ帝国軍との戦いである。

この戦いで、スウェーデン王グスタフ・アドルフは戦死した。以後スウェーデンは参戦当初の勢いを失い、2年後のネルトリンゲンの戦いで敗北、三十年戦争における主導権を失った。グスタフ・アドルフの戦死と2年後のヴァレンシュタインの暗殺によって、三十年戦争は膠着状態に陥った。

1849年 – フョードル・ドストエフスキーに対し死刑判決。後に執行直前に特赦によりシベリア流刑に減刑。

死の体験と流刑
その後、ミハイル・ペトラシェフスキーが主宰する空想的社会主義サークルのサークル員となったため、1849年に官憲に逮捕される。死刑判決を受けるも、銃殺刑執行直前に皇帝ニコライ1世からの特赦が与えられて(この一連の特赦は全て仕組まれたものであった)、シベリアに流刑へ減刑となり、オムスクで1854年まで服役する。

この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』を著す。他にも『白痴』などで、死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、この事件は以後の作風に多大な影響を与えた。刑期終了後、セミパラチンスクにおいて兵士として軍隊で勤務した後、1858年にペテルブルクに帰還する[5]。この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化があった。その後『罪と罰』を発表し、評価が高まる。

自身の賭博にのめり込む性質、シベリア流刑時代に悪化した持病のてんかん(側頭葉てんかんの一種と思われる。恍惚感を伴う珍しいタイプのてんかん)などが創作に強い影響を与えており、これらは重要な要素としてしばしば作品中に登場する。賭博好きな性質は、必然としてその生涯を貧乏生活にした。借金返済のため、出版社との無理な契約をして締め切りに追われる日々を送っていた。あまりのスケジュール過密さのため、『罪と罰』『賭博者』などは口述筆記という形をとった。速記係のアンナ・スニートキナは後にドストエフスキーの2番目の妻となる。

また、小説以外の著名作に『作家の日記』がある。これは本来の日記ではなく、雑誌『市民』でドストエフスキーが担当した文芸欄(のちに個人雑誌として独立)であり、文芸時評(トルストイ『アンナ・カレーニナ』を絶賛)、政治・社会評論、時事評論、エッセイ、短編小説、講演原稿(プーシキン論)、宗教論(熱狂的なロシアメシアニズムを唱えた)を含み、後年ドストエフスキー研究の根本文献となった。ドストエフスキーは『作家の日記』でユダヤ人を批判する反ユダヤ主義的な主張を死去するまで繰り返し、またアーリア民族を賛美した[6]。その一方で、『作家の日記』においてドストエフスキーは、年少犯罪者や養育院など恵まれない子どもたちの生活に深い関心を寄せ、愛や人類の再生について考えていた[7]。

晩年に、自身の集大成的作品『カラマーゾフの兄弟』を脱稿。その数ヵ月後の1881年1月28日午後8時38分、家族に看取られながら亡くなった。ドストエフスキーの葬儀には、三万人の人びと、七十二の団体、十五の聖歌隊が参加した[8]。1月31日にアレクサンドル・ネフスキー大修道院墓地に葬られる[9]。ドストエフスキーの墓には、『カラマーゾフの兄弟』の序文で引用した、新約聖書の『ヨハネによる福音書』第12章24節が刻まれている。

1940年 – 第二次世界大戦: 2日前のドイツ軍によるコヴェントリー空襲(英語版)に対し、イギリス空軍がハンブルクを爆撃。
1957年 – エド・ゲインによる連続猟奇殺人事件が発覚。

エド・ゲイン(Ed Gein)こと、エドワード・セオドア・ゲイン(Edward Theodore Gein[2]、1906年8月27日[3] – 1984年7月26日)は、アメリカ合衆国の殺人犯、死体泥棒。「プレインフィールドの屠殺解体職人」(The Butcher of Plainfield)、「プレインフィールドの墓荒らし」(Plainfield Ghoul)との異名を取る。ウィスコンシン州プレインフィールドにある墓場から死体を盗掘し、その死体の皮膚や骨を使って創り上げた「記念品」を州当局が発見したことにより、その名を知られるようになった。

母・アウグスタは苛烈なルーテル教会のプロテスタントであり[13]、2人の息子に対して、「人間は生まれながらにして邪悪であり、飲酒は悪徳行為であり、そして、(自分を除いた)すべての女は淫乱であり、悪魔の手先である」という自身の信念を説教していた。彼女は毎日午後に、主に旧約聖書と黙示録(新約聖書の最後にある預言書的な書)の中から、死、殺人、神罰(Divine Retribution)に関する節を選び、息子たちに読み聞かせた[13]。また、母・アウグスタは「性行為は罪深いものであり、純潔のままでいるように」とエドワードに教え聞かせた[10]。アウグスタは息子たちに聖書の言葉を毎日聞かせ、女という生き物の不道徳と放縦さについて繰り返し警告することにより、地獄に落とされることに対する恐怖を抱かせ、女に対する性的な欲望を抑制させようと考えていた[14]。

作家のデニース・ノエ(Denise Noe)は、「男性蔑視と女性蔑視は、必ずしも正反対の概念というわけではなく、アウグスタのように、男性という生き物を『卑陋で好色なけだもの』と見做す一方で、女性に対しては『男性を誘惑する存在、売春婦』と見做す女性もいる」と書いた[11]。

兄の死

兄ヘンリーは、母・アウグスタへの執心を強める弟のことが気掛かりであった。ヘンリーはエドワードのいる前でアウグスタを悪し様に言い、それに対してエドワードが見せた反応は動揺と精神的苦痛であった[12]。

1944年5月16日、ヘンリーとエドワードは敷地内の湿地帯に生えている草木を焼き払っていた[15]。炎は制御不能なまでに燃え盛り、地元の消防隊が出動する事態となった。ヘンリーの死は、「一見すると、この発見現場で死んだように見受けられる」「火傷や怪我の形跡は無く、心不全で死んだ」と判断された[16]。1944年5月18日、何らかの犯罪が絡んでいる可能性について警察は却下し、郡の検死官はヘンリーの死因について、正式に「窒息」と発表した[12][17][18]。捜査当局は「エドワードには人を殺せない」と考えていた[1]。しかし、この死因は火災による負傷とは一致しない。ヘンリーの胴体に火傷の跡は見られず、頭部にはひどい打撲の傷が見られた[1][19][17][18]。ウィスコンシン州当局は「事故死」として受理したが、公式の調査も剖検も行われなかった[20]。ヘンリーの変死の真相については謎が多い。

母の死

1945年12月29日、アウグスタは亡くなった。67歳であった[1][19]。エドワードは母の死に精神的に打ちのめされた。伝記作家のハロルド・シェクター(英語版)は、母を失ったエドワードについて「彼は唯一の友人にして恋人を失い、天涯孤独の身となったのだ」と表現した[17][18][19]。

日々の仕事

ゲインは農場を手放すことなく、臨時の仕事で収入を得ていた。母が使っていた自宅の2階、階下の客間、居間を木の板で囲み、手つかずのまま保存した。建物の他の部分はますます不潔になりつつあったが、木の板で囲んだ部屋は汚れが全く無かった。ゲインは台所の隣にある小さな部屋に移り住んだ。この頃のゲインはパルプ・マガジン、冒険物語、食人、ナチズムによる残虐行為を描いた読み物に興味を引かれるようになった[12]。特にブーヘンヴァルト強制収容所の女性看守イルゼ・コッホに関するものに強い関心を持っていた。(イルゼ・コッホは、入れ墨のある囚人を死刑囚として選別し、その皮でランプシェードなどの品物を作っていたとして告発された。)

雑役夫として働いていたゲインは、1951年にアメリカ連邦政府から農業の補助金を受け取った。彼は時折、この地域の自治体の道路整備や脱穀作業の仕事に従事していた。1946年から1956年にかけてのある時期に、兄・ヘンリーが所有していた80エイカー(約32ヘクタール)の筆地も売却した[23]。

ゲインが道路建設の作業員として働いていたころ、彼の雇い主はゲインについて「変わり者だが、礼儀正しく、信頼に足る人物だ」と評価していた[10]。

郡保安官代理[26]は、ゲインが所有していた小屋の中でバニースの死体を発見した。彼女は首を斬り落とされており、両足首は横木で、両手首には縄が回されて固定されており、両脚は逆さまに吊るされていた[10][29]。胴体は「鹿の肉を食べるのと同じ要領で、『下ごしらえ』されていた(血や内臓が抜かれていた)」[30][31][29]。彼女は22口径小銃で撃たれており、ゲインは彼女を殺したあとに身体を解体した[32]。

家宅捜索で当局が発見したものは以下の通りであった[33]。

ヒトの骨全部とその断片[34]

ヒトの皮膚で作ったゴミ箱[35]

ヒトの皮膚で覆われた椅子[36]

寝台支柱に引っ掛けられた頭蓋骨[37]

上部が挽き切られた女性の頭蓋骨[38][36][35]

ヒトの頭蓋骨から作ったボウル[35][10]

肩から腰まで皮を剥いだ女性の胴体から作った体型補正下着[36]

ヒトの脚の皮膚から作った脛当て[35]

女性の頭の皮膚から作った仮面[38][36][37]

メアリー・ホーガンの顔を使って作った仮面(紙袋に入っていた)[37]

メアリー・ホーガンの頭蓋骨(箱の中に入っていた)[39]

バニース・ウォーデンの頭部全体(黄麻布のずた袋に入っていた)[40]

バニース・ウォーデンの心臓(達磨ストーブの正面に置かれてあったポリ袋の中に入っていた)[41]

9つの外陰部(靴箱の中に入っていた)[42]

少女用の衣装と、「およそ15歳」と判断された女性の外陰部が2つ[43]

女性の乳首から作ったベルト[44]

4つの鼻[33]

日除けの引き紐にくっ付いた一揃いの唇[33]

ヒトの顔の皮膚から作ったランプシェイド[33]

女性の指と爪

これらの人工的遺物は、州立犯罪研究所が写真に収めたのち、「礼儀正しく処分した」という[45]。

捜査員からの尋問に対し、ゲインは1947年から1952年にかけて[46]「茫然自失」の状態にあったころ、最近になって埋葬された遺体を掘り起こす目的で、地元にある3つの墓地を夜間に40回訪れた、と語った。墓地にいる間に眩惑状態から解放され、気分良く墓地から去り、手ぶらで帰宅したという[47]。ゲインは、最近になって埋葬された中年女性、-母アウグスタに似た女性- の墓を掘り起こし[1]、その死体を自宅に持ち帰り、その皮膚をなめして「道具」を作った[48]。ゲインは墓地から9体の死体を盗掘した行為を認め[49][50]、自分が死体を盗んだ箇所を捜査官に案内した。州立犯罪研究所のアラン・ウィリモフスキー(Allan Wilimovsky)は、ゲインが暴いた3つの墓を開く検証作業に参加した。棺はいずれも木箱の中に入っていた。天板は交差されていた(縦方向ではなかった)。箱の上部は砂質土壌の表面からおよそ2フィート(約61cm)下にあった。墓がまだ仕上がっていない間に、葬儀が終わった直後にその墓を奪った。ゲインがわずか一晩の間に片手で墓を掘れるかどうかについては当局は確信が持てずにおり、墓の発掘の検証作業が行われた。ゲイン本人が説明したとおりとなった。発掘された墓のうちの2つには何も入ってはおらず、そのうちの1つには、死体の代わりにかなてこが入っていた。てこ棒を紛失したゲインには、棺の1つが開けられなかった。盗んだ死体の多くは3番目の墓場に埋葬されていたものであったが、ゲインは死体が身に着けていた指輪や、身体の一部の部位については元に戻しており[45][51][52]、これらはゲインによる告白を裏付けるものであった[49][53][54]。

ゲインは、母・アウグスタを埋葬した墓からそう遠くない場所に埋葬されたばかりの女性に関する新聞報道を目にした。ゲインは女の身体を確認するために、その遺体を掘り起こすことにした。ゲインは、より多くの遺体を盗掘するため、満月の夜に墓地を訪問し続けた。遺体を丸ごと回収することもあれば、特定の部位だけを回収することもあった。ゲインは、それぞれ3つの異なる墓地内にある9つの墓を掘った趣旨を語った[55]。アウグスタの死からまもなく、ゲインは「文字通り、母の皮膚の内部に入り込み、母・アウグスタと一体化する」ために、「女性用スーツ」を作り始めた。ゲインは性転換手術も検討していたという[55]。盗掘した死体との性行為(屍姦)については、「匂いが不快過ぎるんだ」と否定している[56]。結局、性転換手術を受けるのではなく、死体の皮膚から女性用のボディ・スーツと仮面を作り、それを衣装として着用し、月夜に踊った[33]。

チャットgpt先生の11月16日のエッセイ


11月16日という日 ― 死と再生のあわいで

晩秋の光が淡くなり、空が早く暮れ始める頃、11月16日という日は、歴史の上で何度も「死」と「転換」を刻んできた。
1632年、この日、ドイツのリュッツェン近郊で、三十年戦争の激戦があった。
グスタフ・アドルフ王が戦場で倒れたとき、プロテスタント軍は勝利を収めながらも、戦の勢いを失ったという。
勝っても失うものがある――その矛盾の中に、戦争というものの本質がある。
誰もが勝利を求めながら、戦場に残るのは「空虚な勝利」と「失われた命」だけだ。

二百余年後の1849年、ペテルブルクの曇天の下で、もうひとつの「死」が用意されていた。
ドストエフスキーが銃殺刑の直前に「特赦」されたあの日もまた、11月16日であった。
処刑台に立ち、死を覚悟した彼は、その後の生涯を「死を体験した者」として歩むことになる。
流刑、貧困、病、賭博、苦悩――それらは彼の魂を削ったが、同時に『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』という人類の精神史を刻む作品を生んだ。
彼の文学は、あの日「死ななかったこと」から始まったとも言える。
ドストエフスキーにとっての11月16日は、死の終わりではなく、生の始まりだったのだ。

そして、さらに現代に近づく1957年、アメリカの片田舎プレインフィールドで、もうひとりの「人間の闇」が露わになる。
エド・ゲイン。
母への歪んだ愛と抑圧の果てに、死者と生者の境界を越えた彼の行為は、恐怖を超えて哀しみを感じさせる。
彼が作り上げた「皮膚の仮面」や「人間のランプシェード」は、まるで愛を失った魂が、この世にしがみつこうとした形跡のようでもある。
彼の犯した罪は決して許されるものではない。
だが、そこにある「母を求める狂気」は、人間がどこまで孤独になり得るかを示している。
愛を失ったとき、人はどこまで自分を見失うのか。
彼の人生は、まるでドストエフスキーの小説の暗黒面を現実にしたかのようだった。

11月16日という日を見渡すと、そこには「戦い」「死刑」「狂気」「爆撃」といった、死の影が濃く刻まれている。
しかし、同時にそれらの出来事は、死から何かを再生させようとする動きでもあった。
リュッツェンの戦場の後に訪れた宗教的和解の萌芽、ドストエフスキーが生み出した文学的救済、そして戦争の惨禍を経て築かれた平和への希求。
死の中には、必ず生の意志が潜んでいる。
それは人間という存在の宿命かもしれない。

2025年の11月16日。
暦の上では旧暦9月27日、大安。月齢25.6。
月は欠けながらも、夜空にまだその姿を残す。
それはまるで「失いながらも、まだ輝こうとするもの」の象徴のようだ。
グスタフ・アドルフも、ドストエフスキーも、そしてエド・ゲインさえも――形は違えど、「失うことから始まる何か」に取り憑かれていた。

今日という日を生きる私たちもまた、何かを失い、何かを掴もうとしている。
死や終わりは、決して完全な闇ではない。
むしろ、そこからこそ、あらたな意味が生まれるのかもしれない。

11月16日。
この日が持つ静かな重みは、「生きることは、絶えず死を抱きしめながら進むことなのだ」と私たちに囁いている。