kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日11月10日  1444東大寺大仏殿の戦い、ほか写真wikipedia焼失大仏殿模型

11月10日

20251110月曜日旧暦9月21日大安(癸未みずのとひつじキビ)月齢 19.6

乙巳きのとみ年丁亥ひのとい月癸未みずのとひつじ日  年末まであと51日

吉方位 隠遁日 癸未みずのとひつじ日 南西 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8810%E6%97%A5

11月10日の出来事

1444年 – ヴァルナの戦い。オスマン帝国のスルタン・ムラト2世軍が、キリスト教国連合軍を敗退させた戦い。時    1444年11月10日 場所                 現在のブルガリア、ヴァルナ近郊

結果        オスマン帝国の決定的勝利 損害 キリスト教連合軍 2万人中 甚大 オスマン帝国軍 5万人中 甚大。

1567年(永禄10年10月10日) – 松永久秀、三好義継軍が三好三人衆が陣取る東大寺を急襲し、大仏を含めた堂宇が焼失。(東大寺大仏殿の戦い)年月日:永禄10年(1567年)4月18日-10月11日  場所:東大寺、多聞山城周辺 結果:松永久秀軍の勝利 損害 松永久秀軍 不明 不明 三好軍 2万人中 300人以上死亡。

1614年(慶長19年10月9日) – 真田幸村(信繁)、九度山を脱出し、大坂城へ入城。

1915年 – 第一次世界大戦: 第四次イゾンツォの戦い。イタリア戦線 イタリア軍とオーストリアハンガリー帝国の戦い 年月日:1915年11月10日 – 12月2日 場所:イタリア北西部のイゾンツォ川付近 結果:イタリアの戦略的辛勝 損害 イタリア軍 戦死傷49500人 オーストリハンガリー軍 戦死傷32100人。

1939年 – 岩手県松尾鉱山で落盤事故が発生。死者・行方不明者83人以上[2]。

1944年 – ゲシュタポと親衛隊がケルンでエーデルヴァイス海賊団団員ら13名の公開処刑をおこなう。

1946年 – ペルーのアンカシュ(内陸)でM 7.2の地震。死者1500人。

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1444年 – ヴァルナの戦い。オスマン帝国のスルタン・ムラト2世軍が、キリスト教国連合軍を敗退させた戦い。時    1444年11月10日 場所                 現在のブルガリア、ヴァルナ近郊

結果        オスマン帝国の決定的勝利 損害 キリスト教連合軍 2万人中 甚大 オスマン帝国軍 5万人中 甚大。

11月9日夕刻、4万から6万人を擁する大規模なトルコ軍が、西からヴァルナへ接近した。翌10日から始まった戦闘が進むにつれ、キリスト教国混成軍が劣勢となった。ハンガリー軍の主力はヴァルナ湖の泥に馬の足を取られてトルコ歩兵の餌食となり、瞬時のうちに撃破された、このハンガリー部隊と一緒にいた各国軍のうち、クロアチア軍のみが脱出に成功し、全軍の本陣に戻った。

ここでフニャディが配下のハンガリー部隊を率いて主力軍の救援に向かうことが決まり、フニャディは王にはフニャディの部隊が戻るまで本陣にとどまるようにと上奏した。しかし20歳の若きポーランド=ハンガリー王ヴワディスワフ3世はトルコ軍中央の陣が見た目ほど堅牢でないことを見抜くと、フニャディの上奏を無視し、精鋭のポーランド人騎士500人を連れて自軍の本陣から出撃、スルタンの本陣へ向かって中央から突撃した。彼らは、スルタンの周りを固めるイェニチェリを打ち破り、ムラト2世を捕虜にしようと企てたのだった。

この電撃作戦は成功し、イェニチェリの防衛線は撃破され、王の計画通りトルコ軍親衛隊は大混乱に陥った。ポーランド親衛隊はあと少しでスルタンを捕縛するところまで迫った。ところが、王が乗っていた馬がスルタンのすぐ目の前で陥穽に足を取られ、ヴワディスワフ王は落馬してしまったのである。そこへ集まったイェニチェリ親衛隊によって、不運にもヴワディスワフ3世は殺害された。伝承によると、殺害後に切り落とされた首は、トルコ宮廷へ送られた。王の死で落胆したポーランド騎兵隊はトルコ歩兵に包囲された。

王が戦死したことで、今度はヨーロッパ軍の指揮系統が混乱し、トルコ軍の反撃に対処することが難しくなった。王が落命したとの情報を得た摂政フニャディは王の遺体を取り返そうと試みたが、彼が全て完遂できたのは、ヨーロッパ軍の残存兵の退却を指揮することだった。捕虜となったキリスト教軍の兵士は、虐殺されるか奴隷として売られた。

1567年(永禄10年10月10日) – 松永久秀、三好義継軍が三好三人衆が陣取る東大寺を急襲し、大仏を含めた堂宇が焼失。(東大寺大仏殿の戦い)年月日:永禄10年(1567年)4月18日-10月11日  場所:東大寺、多聞山城周辺 結果:松永久秀軍の勝利 損害 松永久秀軍 不明 不明 三好軍 2万人中 300人以上死亡。

東大寺大仏殿の戦い(とうだいじだいぶつでんのたたかい)は、永禄10年(1567年)4月18日から10月11日のおよそ半年間にわたり松永久秀、三好義継と三好三人衆、筒井順慶、池田勝正らが大和東大寺周辺で繰り広げた市街戦。松永久秀の居城であった多聞山城の周辺でも戦闘があったため「多聞山城の戦い」とも呼ばれている。

東大寺攻め

三人衆・筒井連合軍が奈良に駐屯してから約6ヵ月が経過した。多聞山城を背後に松永・三好連合軍も奮闘しているが、兵力は三人衆・筒井連合軍が上で、有利に作戦を展開していた。膠着状態の中、10月10日に松永・三好連合軍は三人衆軍の本陣がある東大寺を奇襲した。この時の戦いの状況を「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断」(『多聞院日記』)と記している。午後11時に戦闘が開始され、戦闘中に穀屋から失火し法花堂それから大仏殿回廊、そして日をまたいだ翌10月11日午前2時には大仏殿が焼失したようである。また、「四ツ時分から、大仏中門堂へ松永軍が夜討、三人衆側も死力を尽くして戦ったが対抗できず、遂には中門堂と西の回廊に火を放たれて焼失した。この戦いで多くの者が討ち死にした。」(『多聞院日記』)と記しており、『東大寺雑集録』にも午後10時と記載されているので、戦闘はこの時間帯から開始されたと思われている。十分な戦闘準備が整っていない三人衆軍の不意打ち狙いであり、東大寺は防備を目的とした砦でもなく、そのような中で懸命に防ごうとしたが支えきれず、浮き足だって崩れ去っていったのではないかと思われる。この戦いで三人衆軍は討ち死にしたり、焼け死んだりした者が300名を数えた。またルイス・フロイスの『日本史』では違う内容で記載している。「多聞山城を包囲した軍勢の大部分は、その大仏の寺院の内部とこの僧院のあらゆる場所に宿営した。その中には我らの同僚によく知られていた一人の勇敢な兵士もいたのであるが、我らは世界万物の創造者に対してのみふさわしい礼拝と崇敬のことに熱心な、誰かある人にたきつけられたからというのではなく、夜分、自分が警護していた間に、ひそかにそれに火を放った。そこで同所にあったすべてのものは、はるか遠くはなれた第一の場所にあった一つの門、および既述の鐘以外は何も残らず全焼してしまった」(『日本史』)と記してある。この文中にある「我ら」というのはイエズス会のことであり、三人衆軍の兵士でイエズス会に入信している誰かが放火したとしており、『多聞院日記』や『東大寺雑集録』とは違う記載になっている。切羽詰った久秀が三人衆軍を大仏殿ごと焼き殺そうとした兵火説や、不意打ち狙いの夜襲のためやむ得ず失火してしまった説、三人衆軍の一部の兵による放火説など、現在でも議論になっている。

奈良の大仏を「戦国時代に仏頭は松永久秀の兵火によって焼き落とされ」と紹介されたり、織田信長が徳川家康に松永久秀を紹介する時に、三悪事の1つとして東大寺大仏を焼討したと紹介したので、久秀が焼討したと現在でも語られている。しかし『 大和軍記』には「(三好軍の)思いがけず鉄砲の火薬に火が移り、」と記載されていたり、『 足利季世記』には「三好軍の小屋は大仏殿の周囲に薦(こも)を張って建っていた。誤って火が燃えつき、」と記載されている事から、『松永久秀の真実』では「松永方が放火して焼けたのではなく、罪があるとしても、過失により、大火を招いたものだろう。ましてや久秀が指示して大仏殿を焼いたということはあり得ない」としていたり、『筒井順慶の生涯』によると「大仏殿は久秀が意図的に焼いたものではなく、戦のさなかに三好方で起きた不慮の事故によって焼けてしまった」としていたり、今谷明によると「大仏炎上は久秀の仕業とされているが、実際は三好方の失火であった。信長に2回も謀反した悪辣ぶりが後世の付会を呼んで、すべての久秀の罪業に押付けられたのである」とする[2]。これより直ちに「松永久秀の放火説」がなかったとは言えないが、最近の研究によると「戦の最中の不慮の失火説」が有力である。

この時焼失したのは、大仏の仏頭、伽監、念仏堂、大菩提院、唐弾院、四聖坊、安楽坊などであった。鐘楼堂も火がついたがこちらは僧侶達の消火活動によって類焼を避けることができた。いずれにしてもこの火災で三人衆軍、池田軍は総崩れになり、摂津、山城に退いていった。また、滝山城の戦いで活躍した別所軍もいたようで、5月17日に岩成友通隊が布陣していた氷室山法雲院にいたが、大仏殿が焼けるとみるや自陣を焼いて播磨へ帰国した。一方の筒井軍は後方の大乗院山に布陣していたためか、大きな被害はでず筒井城に引き上げていったと思われている。また別の説では松永軍が次々と寺を焼き払うのを見かね、東大寺を主戦場とする三人衆と意見の相違があり、残留部隊のみを残し早々に筒井城に引き上げていたという見解もある。しかしこの時の順慶の詳細な行動については記録がなく、詳しいことは解っていない。

1614年(慶長19年10月9日) – 真田幸村(信繁)九度山を脱出し、大坂城へ入城。

真田幸村 信繁

「真田幸村」の由来

「真田幸村」の名が広く知られているが、諱は「信繁」であって「幸村」ではないことが明らかになっている[24]。その証明として、直筆の書状を始め、生前の確かな史料で「幸村」の名が使われているものは全く無い。信繁は道明寺の戦いで勇戦した家臣6名に対して、将棋の駒型の木片に戦功を書き記した感状を与えている[25]。「繁」の字の下半分に花押を重ね書きする信繁の書き癖から翻刻された際に「信仍」「信妙」と誤写されているが、花押の形が信繁のものであると断定でき、死の前日まで「信繁」と名乗っていたことが確認できる[26]。

また、「幸村」と署名した文書の写しが2通伝わるが(正本は伝わらず)[27]、いずれも偽文書と判明している[28]。

「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣が終わってから60年近く経った、寛文12年(1672年)に刊行された軍記物の『難波戦記』[注釈 5]がその初出であると言われる[30]。『難波戦記』では昌幸の次男「左衛門佐幸村」[31]や「眞田左衛門尉海野幸村」[32][注釈 6]との名乗りで登場するが、前述のようにこの名乗りを実際に使用した形跡はなく、大坂入り後の書状でも「信繁」を用いている[24]。

かなり時代は降るが馬場政常『滋野通記』という史書では、兄・信之が生前、近習に「信繁は高野山に入った際、幸村に改名したと聞いている」と語ったという話も載せられていた[33]。「幸」は真田家や(真田家の本家にあたる)海野家の通字である。また、「村」については村正は幸村の佩刀であったとか、介錯に村正が用いられたという話があり、これらに尾ひれがついたことで「幸村」の名は元禄時代には広く知られていた[7]。 そのため、元禄14年(1701年)に書かれた『桃源遺事』(徳川光圀の言行録)では既に、編集者の三木之幹、宮田清貞、牧野和高らがわざわざ、幸村は誤り、信仍が正しい[34]と書き記したほどである。

時代が下るにつれて「幸村」の名があまりに定着したため、江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正式な系図までもが「幸村」を採用した[24]。 松代藩が作成した系図の『真田家系図書上案』では信繁だけだが、『真田家系譜』になると幸村が現れる[35]。大坂夏の陣から200年近く後、文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から「幸村」名についての問い合わせを受けた松代藩・真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答している[36]。

篠原幸久は論文で、武田信玄の同母弟に典厩信繁がおり、難波戦記の作者らには真田信繁の活躍を描く効果上、その旧主家一門の著名な同名者の呼称を避ける意図があり、信繁の名乗りが否定されて幸村が案出されたのであろうと主張する[37]。

信繁の発給文書は20点が確認でき、花印は9回変えている[35]。

*つまり 正確には 真田信繁 ということですね。

人物 エピソード

□旗印である六文銭(もしくは「六連銭」)は、冥銭を表しているといわれている。冥銭とは本来古代中国の習俗で[66]、日本ではとくに亡くなった人を葬る時に棺に入れる六文の銭を意味し、三途の川の渡し賃のことである。これを旗印にする事は死を受け入れる「不惜身命」[注釈 18]を意味するといわれている。

□信繁の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。また、信之は『幸村君伝記』において「左衛門佐は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある」とも語っている。

□『真武内伝追加』によれば、九度山幽閉中の信繁は日頃から地域の人々や老僧と深く交わり、狩りをしたり寺に遊びに行っては囲碁や双六に興じ、屋敷では夜更けまで兵書を読み耽っていたという。また、父昌幸生存中は、兵書の問答を欠かさず、欠けていた知識を教え込まれ、常に武備を怠ることは無かった。心中に蟠竜(伏流する竜)を保ち近隣の郷士や郎従をしばしば集めては、兵術、弓、鉄砲の訓練を行っていたとされる。これがどこまで真実であるかは定かでは無いが、信繁のその後の戦歴と活躍を見ると極めて蓋然性が高い[62]。

1915年 – 第一次世界大戦: 第四次イゾンツォの戦い。イタリア戦線 イタリア軍とオーストリアハンガリー帝国の戦い 年月日:1915年11月10日 – 12月2日 場所:イタリア北西部のイゾンツォ川付近 結果:イタリアの戦略的辛勝 損害 イタリア軍 戦死傷49500人 オーストリハンガリー軍 戦死傷32100人。

概要

本会戦は他のイゾンツォの戦いとは違い、短期間で終わった。そのため、第三次イゾンツォの戦いの続きと考えられることもある。

両軍は戦線の全域に均等配置されたが、戦闘の大部分は、ゴリツィアとクラス高原に集中した。ゴリツィアを攻撃目標に定めたイタリア第2軍は、ゴリツィアの西方に位置するオスラヴィエ(Oslavje、イタリア名:Oslavia)を占領した。その間、沿岸付近には陣取らなかった第3軍は、無意味な攻撃を実施しようとしていた。イタリア第3軍は5回に渡りMount Sei Busiを攻撃したが、すべて徒労に終わった。

戦闘の激しさが増しだした11月末にはトールミンの橋頭堡の両岸部において激しい爆破が起きた。死傷者の割合はそのときが最も高かった 。その後、12月の最初の15日間の間だけは戦闘は小規模になった。原因として本格的に冬季がせまってきたこと、補給物資が不足しがちとなり、作戦できなくなったためである。

莫大な損害を憂慮したオーストリア=ハンガリーの司令部は初めて、イタリアの行為(未回収のイタリア)に反対していたドイツ帝国に軍の派遣を要請した。ドイツ帝国のイタリア戦線に干渉するのは、ようやく第十一次イゾンツォの戦いが始まるとき(1917年8月)となる。

1939年 – 岩手県松尾鉱山で落盤事故が発生。死者・行方不明者83人以上[2]。

1944年 – ゲシュタポと親衛隊がケルンでエーデルヴァイス海賊団団員ら13名の公開処刑をおこなう。

エーデルヴァイス海賊団(エーデルヴァイスかいぞくだん、ドイツ語: Edelweißpiraten)は、ナチス政権下のドイツに存在した若者のグループである。これはヒトラーユーゲント内の厳しい統制生活に対抗した若者の自然発生的な運動として、ドイツ西部で1930年代末に発生した。彼らは主に14歳から18歳の若者で構成されていた。当時のドイツでは、少年たちは学校を卒業(当時は14歳で卒業する)した後、ヒトラーユーゲントに入隊、17歳でドイツ国家労働奉仕団に入り、兵役に就くことになっていた[1]が、このグループの若者たちはこれを避けようとしていた。

意義

エーデルヴァイス海賊団やモイテンの攻撃性、スウィング・ボーイの無関心さはナチスをいらだたせるものであったが、これはナチスが画一的な社会を形成しようとしていたことに対する明らかな反逆であり、独自の文化を発達させるものであったからである。彼等はナチスの押し付ける物を拒否し、それを認めないことを証明するためヒトラーユーゲントへの挑発を行い、独自の文化的主観性を作り出していた[36]。

エーデルヴァイス海賊団・モイテン

ナチス当局はこれらの原因を戦争や思春期に求めたが、その枠組みに当てはまることはなく、実際に社会に出た青少年が経験したもの、労働によって規定されるアイデンティティが反映したものであった。彼等はヒトラーユーゲントのように学生でなく、自ら働き、賃金を稼ぐ一人前の男であると言う自信を持っており[37]、また、ナチスの求める全体主義ではなく、個人を大事にしていた。それは労働が強制的なものと感じる態度にも反映され、強制に対抗するために仕事をサボるなど職場での反抗にもつながった[7]。彼等は伝統的熟練労働者や生産者としての誇りを持たなかった。

彼等はそれまで存在した労働者階級の基本文化を再編したのではなく、彼等の経験から新たな文化を形成したのであった。

スウィング・ボーイ

彼等の問題はナチスにとって危ういものであった。なぜならば、ナチスが政権に就いたときの主な支持層が彼等の親であったからである。しかし、親の価値観を彼等が受け継ぐことはなく、それを無価値と考えていたとされる。つまり「ジャズを聴いて踊る」ことや「のらりくらりとした生活」はナチスにとって大きな破壊力となる恐れが存在した[38]。

ナチスの報告書によれば、スウィングと教育程度には強い関連性が存在するとされており、事実、彼等はある程度の教育を受けており、合理的な解決を行うことを好み、ナチスの美辞麗句では自分たちを表現することができないと感じていた。また、ヒトラーユーゲントの軍事訓練にも嫌気を感じていたのである[39]。

これについては明確な答えはまだ存在していないが、スウィング・ボーイの世代は、ドイツにおける天文学的インフレや世界恐慌を経験しており、それまでのドイツの価値観が大きく揺らいだ時を過ごしていた。この時代に家庭内の父親の存在は著しく下落し、それまで理想とされていた軍人的男性に魅力を感じなくなり、新たな価値観を求めたという説がある[39]。 ヒムラーは彼等を忌み嫌っており、1942年1月26日、総統大本営からハイドリヒへ彼等を厳しく取り締まるよう指示を送っている[40]。

1946年 – ペルーのアンカシュ(内陸)でM 7.2の地震。死者1500人。

チャットgpt先生の11月10日のエッセイ


11月10日──戦いと記憶の狭間で

暦の上で11月10日は、晩秋の冷たさが増し、木々の葉が落ちきるころにあたる。
旧暦では9月21日、大安。癸未の日。静けさとともに、年の終わりの気配が忍び寄る。
けれども、歴史の帳をめくると、この日は不思議なほど「戦い」と「転機」に彩られている。


ヴァルナの戦い──若き王の死と十字軍の終焉(1444年)

1444年11月10日、ブルガリア・ヴァルナの地で、オスマン帝国とヨーロッパ諸国の連合軍が激突した。
20歳のポーランド=ハンガリー王ヴワディスワフ3世は、輝く鎧をまとい、トルコ軍の中央へ突撃する。
王は勇敢に、そして無謀に前線へ出た。馬が泥に足を取られ、王は落馬。
次の瞬間、イェニチェリの刃が彼を貫いた。若き王の首はトルコ宮廷に送られたという。

その死は、ヨーロッパ十字軍の理想の終焉を告げた。
信仰と勇気が現実の戦略の前に散った日でもあった。
秋風が吹き荒ぶ黒海沿岸に、宗教と国家の幻想が崩れ落ちた音が、確かに響いていたに違いない。


東大寺大仏殿の戦い──炎に包まれた信仰(1567年)

それからおよそ120年後の日本、戦国の世。
松永久秀と三好三人衆が激突した「東大寺大仏殿の戦い」も、奇しくも11月10日(旧暦10月11日)に終結を迎えた。
炎上する東大寺──仏の象徴が、戦乱の渦に呑まれ、火の粉となって夜空へ舞い上がる。

久秀が放火したとも、敵方の失火だったとも伝わるが、真相は定かではない。
ただ確かなのは、人が信仰よりも権力を優先したとき、どんな聖域も守れないということだ。
燃え落ちる大仏の光が、戦国という狂気の時代を象徴している。


真田信繁、九度山を出る(1614年)

時は流れ、平和の仮面を被った徳川の世。
九度山の静けさを破り、真田信繁――後に「幸村」と呼ばれる男が、大坂城へ向かう。
彼は名誉でも領地でもなく、「義」を携えて山を下りた。
その行動が後に「日本一の兵(つわもの)」として語り継がれる。

信繁が用いた旗印「六文銭」は、冥銭──三途の川を渡る通行料。
つまり、死を恐れぬ覚悟の象徴である。
ヴァルナで若き王が命を賭けたように、信繁もまた理想と覚悟のために立ち上がった。
11月10日は、戦う者が己の運命を受け入れる日なのかもしれない。


近代の影──イゾンツォの激戦と抵抗の若者たち

1915年、第一次世界大戦のイゾンツォ川。
イタリア軍とオーストリア=ハンガリー軍が、霧に包まれた渓谷で砲火を交えた。
山岳の寒さと血の匂いの中で、誰が敵で誰が味方かもわからぬまま、
数万人が倒れていった。勝敗よりも、失われた命の重さが残った。

そしてその29年後、1944年のケルン。
ナチスの独裁に抗った若者たち――「エーデルヴァイス海賊団」が処刑された。
彼らは武器を持たず、ジャズを愛し、自由を夢見た。
国家の命令に背くことが、最大の勇気であると知っていた。

歴史の中で、命を懸ける形は変わっても、根底に流れるものは同じだ。
それは「自由への希求」と「誇りを失わぬ心」だ。


地の鳴動と人の祈り(1946年・ペルー)

1946年、ペルー・アンカシュで大地が震え、1500人の命が失われた。
地球の息吹が人間の営みを一瞬で奪う。
戦争も、権力も、信仰も、この力の前では何の意味も持たない。
それでも人は瓦礫の中に祈りを見つけ、再び立ち上がる。
歴史とは、そうした祈りの積み重ねにほかならない。


終わりに──記憶するということ

11月10日は、奇しくも「戦い」「喪失」「再生」が繰り返されてきた日だ。
若き王の死、大仏の炎上、武将の決意、若者の抵抗、そして地の怒り。
それらすべてが、「人は何のために生きるのか」という問いを突きつけている。

戦うことも、祈ることも、記録することも、すべては「忘れない」ための営みだ。
暦の上のたった一日であっても、歴史の上では無数の命と意思が刻まれている。
その一つひとつに耳を澄ませると、今日という日が少し違って見えるだろう。


11月10日。
それは、過去の炎が今を照らし、未来への警鐘となる日である。