kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日11月9日  1925ナチスss発足、ほか写真wikipedia親衛隊帽章

11月9日

20251109日曜日旧暦9月20日仏滅(壬午みずのえうまジンゴ)月齢 18.6

乙巳きのとみ年丁亥ひのとい月壬午みずのうま日  年末まであと52日

吉方位 隠遁日 壬午みずのえうま日 南西 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%889%E6%97%A5

11月9日の出来事

1180年(治承4年10月20日)- 治承・寿永の乱: 富士川の戦い。

戦争:治承・寿永の乱

年月日:治承4年(1180年11月9日)文献によって異説あり

場所:駿河国大堀川(現・富士市)

結果:目立った交戦のないまま平氏の撤退

戦力と損害:源氏 4万騎 平氏 2000騎が潰走壊滅

1799年(フランス革命暦ブリュメール18日) – フランス革命: ブリュメールのクーデタ。ナポレオンが軍事クーデターを起こし総裁政府を倒す。フランス革命が終焉。

1867年(慶応3年10月14日) – 徳川慶喜が二条城で大政奉還を宣言。

1888年 – 切り裂きジャックが売春婦のメアリー・ジェイン・ケリーを殺害。確実に切り裂きジャックの犯行とされる最後の事件。

1923年 – ミュンヘン一揆が鎮圧。

1925年 – ナチス親衛隊 (SS) が発足。

1938年 – 水晶の夜(クリスタルナハト)。この日の夜から翌日未明にかけてドイツ各地でユダヤ人に対する襲撃が行われる。

1963年 – 三井三池三川炭鉱炭じん爆発。死者458人。

1963年 – 鶴見事故。横浜市鶴見区の東海道貨物線で貨物列車が脱線。東海道線上下線の旅客列車の多重衝突事故を引き起こし、死者161人。本事故と上記の事故は同日に発生し、両事故とも多数の犠牲者を出したことから、「血塗られた土曜日」「魔の土曜日」とも呼ばれた。

1974年 – 東京湾でLPG・石油タンカー「第十雄洋丸」が衝突炎上事故を起こす。(第十雄洋丸事件)。33名死亡、7名負傷。

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1180年(治承4年10月20日)- 治承・寿永の乱: 富士川の戦い

戦争:治承・寿永の乱

年月日:治承4年(1180年11月9日)文献によって異説あり

場所:駿河国大堀川(現・富士市)

結果:目立った交戦のないまま平氏の撤退

戦力と損害:源氏 4万騎 平氏 2000騎が潰走壊滅

平家の撤退

『玉葉』によると18日、『吾妻鏡』によると20日、甲斐源氏の兵は富士川の東岸に進む。また、『吾妻鏡』によると頼朝は駿河国賀島に進んだとある[注釈 3]。平家方はその西岸に布陣した。兵糧の欠乏により平家方の士気は低下し、まともに戦える状態になかった。『吾妻鏡』によると、この時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であり、さらに脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう有様だった。この要因として、平氏軍の大半が遠征の中途で徴発された駆り武者によって占められていることなどが挙げられている[4][注釈 4]。両軍の兵力差から、平家方は戦う前から戦意を喪失しており、奇襲に対してかなり神経質になっていたものと思われる。

両軍が対峙したその夜、平氏軍は突如撤退し、大規模な戦闘が行われないまま富士川の戦いは終結する。

なお、従来は頼朝が富士川の戦いの当事者と見なされていたが、近年の見解では合戦に勝利した主体そのものが甲斐源氏であり、『吾妻鏡』の記述は治承・寿永の乱で頼朝が常に源氏の中心であったかに装う後世の創作で、実際には頼朝は後方にあって副次的な役割しか果たしていないという説が有力である[6]。近年発行の出版物では甲斐源氏主体説をとるものが増えている[7]。

1799年(フランス革命暦ブリュメール18日) – フランス革命: ブリュメールのクーデタ。ナポレオンが軍事クーデターを起こし総裁政府を倒す。フランス革命が終焉。

概要

テルミドール9日のクーデターによって、総裁政府の実権を握ったエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスは政局を安定させるべく、強力な政府を求め憲法の改正を考えていた。憲法改正を支持する元老会を通過させることはできても、憲法擁護派の多い五百人会を説得するのは無理と思い、エジプト遠征から帰還したばかりのナポレオンを利用した軍事クーデターを画策した。

このことからわかるように、そもそもナポレオンはクーデターを成功させる剣の役割でしかなかった。ナポレオン自身も「シエイエスらが首謀しただけで、私は手先に過ぎず、主役ではなかった。ただ果実だけは頂いた」と述懐している。ナポレオンの役割は当初は受け身であって、首謀者ではなかった。それでもナポレオン自身にはエジプト遠征での敵前逃亡罪の嫌疑がかかっており、クーデターを起こすことは、自明の理であった。

シエイエスらが統領として職務に入るとき、議長を誰とするか諮ったおりに、民衆の人気と武力を背景に持つナポレオンがいち早く買って出たのである。こうして第1コンスルとなってシエイエスらを抑えたナポレオンは5年後の1804年に帝政を敷き、ナポレオン1世として皇帝に即位した。

1867年(慶応3年10月14日) – 徳川慶喜が二条城で大政奉還を宣言。

概要

江戸時代、徳川将軍家は日本の実質的統治者として君臨していたが、「天皇が国家統治を将軍に委任している」とする大政委任論も広く受容されていた。

幕末になると、朝廷が自立的な政治勢力として急浮上し、主に対外問題における朝廷と幕府との不一致により、幕府権力の正統性が脅かされる中で、幕府は朝廷に対し、大政委任の再確認を求めるようになった。

文久3年(1863年)3月・翌元治元年(1864年)4月に、それぞれ一定の留保のもとで大政委任の再確認が行われ、それまであくまで慣例にすぎないものであった大政委任論の実質化・制度化が実現した。

幕末の朝幕交渉において再確認された「大政」を天皇に返上したのが、慶応3年10月(1867年11月10日)の慶喜による大政奉還だが、大政奉還の時点では慶喜は征夷大将軍を辞職していない。慶喜は将軍職辞職願を10月24日(1867年11月19日)に提出したが、引き続き諸藩への軍事指揮権を有する将軍職が勅許され、幕府が廃止されるのは12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令においてである。

大政奉還の目的は、内戦を回避しつつ、幕府独裁制を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる公議政体体制を樹立することにあった。しかし、大政奉還後に想定された諸侯会同が実現しない間に、薩摩藩を中核とする討幕派による内乱(鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争)が起こった。

1888年 – 切り裂きジャックが売春婦のメアリー・ジェイン・ケリーを殺害。確実に切り裂きジャックの犯行とされる最後の事件。

1923年 – ミュンヘン一揆が鎮圧。

ミュンヘン一揆(ミュンヘンいっき、ドイツ語: München Putsch)は、1923年11月8日から9日に、ドイツ国のミュンヘンでエーリヒ・ルーデンドルフ、アドルフ・ヒトラーら国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を始めとする州右派勢力によって結成されたドイツ闘争連盟(英語版)が起こしたクーデター未遂事件。半日あまりで鎮圧され、ヒトラーら首謀者は逮捕された。

名称

ドイツでは主に、首謀者の名前から「ヒトラープッチ (Hitlerputsch)」もしくは「ヒトラー・ルーデンドルフ・プッチ(Hitler-Ludendorff-Putsch)」と呼ばれているほか、事件が発生したビアホール[注釈 1]「ビュルガーブロイケラー」の名をとって「ビュルガーブロイケラープッチ (Bürgerbräukellerputsch)」と呼ばれている。英語でも「ビア・ホール・プッチ(Beer Hall Putsch)」と呼ばれる事が多い。プッチ(独: Putsch)はドイツ語におけるクーデターや暴動に近いニュアンスを持った用語であり、日本においては「一揆」と訳されることが多い。

1925年 – ナチス親衛隊 (SS) が発足。

          概要

元は総統アドルフ・ヒトラーを護衛する党内組織(親衛隊)として1925年に創設された。

1929年にハインリヒ・ヒムラーが親衛隊全国指導者に就任し、彼の下で党内警察組織として急速に勢力を拡大。ナチスが政権を獲得した1933年以降には政府の警察組織との一体化が進められた。保安警察(ゲシュタポと刑事警察)、秩序警察、親衛隊情報部、強制収容所など第三帝国の主要な治安組織・諜報組織はほぼ全て親衛隊の傘下に置かれていた。1934年には正規軍である国防軍から軍事組織の保有を許可され、親衛隊特務部隊(後の武装親衛隊)を創設した。以降特務部隊以外の親衛隊員は一般親衛隊と呼ばれるようになった。

第二次世界大戦中、武装親衛隊がヨーロッパ各地で戦ったが、警察業務の親衛隊はドイツ及びドイツ占領下のヨーロッパ諸国においてナチ支配の維持、反ナチ勢力の弾圧、ユダヤ人狩りなどにあたった。戦時中に親衛隊は絶滅収容所やアインザッツグルッペンを組織してユダヤ人の絶滅を図ろうとした(ホロコースト)。そのため親衛隊は悪名高い組織となり、戦後のニュルンベルク裁判では全ての親衛隊組織は「犯罪組織(英:Criminal Organization)」であるとする認定を受けた。21世紀に入って尚、隊員達は本人の死亡が確認されるまで犯罪者として追跡され、居所が確認されれば逮捕、裁判に掛けられている[1]。

隊のモットーは「Meine Ehre heißt Treue(My honor is called fidelity:忠誠こそ我が名誉、我が名誉は忠誠を宣する事)」。

1938年 – 水晶の夜(クリスタルナハト)。この日の夜から翌日未明にかけてドイツ各地でユダヤ人に対する襲撃が行われる。

水晶の夜(すいしょうのよる、ドイツ語: Kristallnacht、クリスタルナハト)とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動、迫害である。ユダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された。

暴動の主力となったのは突撃隊(SA)のメンバーであり、総統アドルフ・ヒトラーや親衛隊(SS)は暴動を止める事なく、傍観者として振る舞った。ナチス政権による「官製暴動」の疑惑も指摘されている(後述)。

事件当時は「帝国水晶の夜(Reichskristallnacht)」と呼ばれていた[1]。この事件により、ドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなった。

水晶の夜という名前は、破壊された店舗のガラスが月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたことに由来する。この呼称は、ナチス政権側から一連の暴力を賛美するものとして使用されたものであり[要出典]、現代ドイツにおいては、「11月ポグロム(ドイツ語: Novemberpogrome)」、「1938年11月ポグロム(ドイツ語: Novemberpogrome 1938)」、「帝国ポグロムの夜(ドイツ語: Reichspogromnacht)」などが用いられる。ただし、イスラエル政府をはじめ、ヤド・ヴァシェムや米国ホロコースト博物館など、世界中の多くの被害者側ないしユダヤ人側の政府・施設では、正式に「水晶の夜(Kristallnacht)」という言葉を使い続けており、「水晶の夜」が、被害者やユダヤ人の感情を傷つける言葉や(日本で)言い換えが必要な言葉でないことが判る。

1963年 – 三井三池三川炭鉱炭じん爆発。死者458人。

1963年 – 鶴見事故。横浜市鶴見区の東海道貨物線で貨物列車が脱線。東海道線上下線の旅客列車の多重衝突事故を引き起こし、死者161人。本事故と上記の事故は同日に発生し、両事故とも多数の犠牲者を出したことから、「血塗られた土曜日」「魔の土曜日」とも呼ばれた。

1974年 – 東京湾でLPG・石油タンカー「第十雄洋丸」が衝突炎上事故を起こす。(第十雄洋丸事件)。33名死亡、7名負傷。

チャットgpt先生の11月9日のエッセイ


11月9日 ― 歴史の交差点に立つ日

暦の上で、11月9日はいつも静かにやってくる。
だがその静けさの奥底には、世界を震わせた出来事の響きが幾重にも積み重なっている。
まるで、時の川がその日を何度も巡りながら、節目を刻んできたかのようだ。

富士川の水音 ― 戦わずして勝つ

1180年11月9日。
駿河の大地を冷たい風が渡り、富士川の水面がさざめく。
平家と源氏、二つの武家の命運を分けるはずだった戦は、意外にも静寂のうちに終わった。
夜半、逃げ惑う水鳥の羽音を敵襲と誤認した平家軍が総崩れとなったという伝説。
実際には、飢えと恐れ、そして士気の枯渇が、戦わずして軍を瓦解させた。
それでも、この「戦わぬ勝利」は、武士の世の幕開けを告げる一節として、
800年以上経った今もなお、秋の夜風に語り継がれている。

剣と知略のクーデター ― ブリュメール18日の朝

1799年の同じ日、ナポレオンはフランスの運命を掌にした。
総裁政府を倒し、革命を終わらせ、新たな秩序を築くために。
だが、最初から彼が主役だったわけではない。
「果実だけを頂いた」との言葉が残るように、
彼もまた、時代の波に押し上げられた一人に過ぎなかった。
11月9日は、剣と知略が交錯し、理想と現実の狭間で政治が生まれ変わった日でもある。

大政奉還 ― 静かな幕引き

1867年の11月9日(旧暦10月14日)。
徳川慶喜は二条城で「大政奉還」を宣言した。
260年続いた幕府政治を、たった一つの決断で終わらせた。
戦ではなく、筆と印章による“権力の返上”。
そこには、戦を避け、国を守ろうとする最後の矜持があった。
しかしその静謐は短く、まもなく鳥羽・伏見の戦いが火を噴く。
11月9日は、権力の終焉と新時代の胎動が交差する日でもある。

暗黒の炎 ― ヨーロッパを焦がした夜

そして1938年、ドイツ。
「水晶の夜」と呼ばれた11月9日の夜。
砕け散ったのは、ショーウィンドウのガラスだけではなかった。
人間の尊厳、社会の良心、そしてヨーロッパの未来もまた、
その夜の炎とともに崩れ落ちていった。
この夜を境に、ホロコーストへと続く道が開かれていく。
ガラス片が月光に光る美しさの裏に、
人類の暗部が冷たく輝いていた。

災厄の昭和 ― 魔の土曜日

1963年の11月9日、日本列島は二つの惨劇に見舞われた。
三井三池炭鉱の爆発、458名の命が奪われ、
同じ日の夜、横浜・鶴見では列車事故で161人が亡くなった。
「血塗られた土曜日」と呼ばれるその一日は、
高度経済成長の陰に潜む“人の命の軽さ”を突きつけた。
豊かさの代償を、11月9日は静かに語り続けている。

歴史が語りかけるもの

こうして並べてみると、11月9日は“変わり目の日”だ。
戦いの終わりと始まり、革命の勃発と崩壊、
秩序の誕生と破滅、そして人間の愚かさと希望。
それらがひとつの暦の上で呼吸している。

偶然かもしれない。
だが、もし歴史が「学ばなければ繰り返すもの」だとするならば、
11月9日は、人類が何度も立ち返る“歴史の試金石”なのだろう。

今日もまた、その日付をカレンダーに見つけたとき、
私たちは思い出すべきだ。
戦わずして勝つ知恵、権力を手放す勇気、
そして、人を傷つけることの恐ろしさを。

11月9日――
それは、過去と未来の狭間に立ち、
「人間とは何か」を問いかける一日である。