kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日11月7日 1918スペイン風邪発症、ほか写真wikipediaマスクをする女学生

11月7日

20251107金曜日旧暦9月18日友引(庚辰かのえたつコウシン)月齢 16.6

乙巳きのとみ年丁亥ひのとい月庚辰かのえたつ日  年末まであと54日

吉方位 隠遁日 庚辰かのえたつ日 南東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%887%E6%97%A5

11月7日の出来事

1598年(慶長3年10月9日) – 慶長の役・順天城の戦い終結:順天城を包囲していた明・朝鮮水軍が古今島に撤退する。

戦争:慶長の役

年月日:慶長3年9月19日から10月9日(1598年10月19日から11月7日)

場所:朝鮮国全羅道今順天

結果:日本軍の勝利[1][2]

戦力 損害:明 朝鮮軍 5万4千人中 損害 大 日本軍 1万3千人中 損害 不明。

1837年 – チリ中部で大地震(M8.4、60名死亡)。

1861年 – 南北戦争: ベルモントの戦い 

時             1861年11月7日

場所        ミズーリ州ミシシッピ郡

結果        決着付かず

損害  北軍3千人中 戦死傷捕虜1000人 南軍6千人中 戦死傷捕虜1000人

1918年 – スペインかぜ: 西サモアでインフルエンザが始まり、年末までに人口の2割の7,542人が死亡。1918-1920で死者数5000万-1億人以上(推計)

1950年 – 高知県で国鉄バス大栃線の車両が物部川に転落。死者33人。

2006年 – 北海道佐呂間町で竜巻が発生。9人が死亡し、23人が負傷。(北海道佐呂間町竜巻災害)

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1598年(慶長3年10月9日) – 慶長の役・順天城の戦い終結:順天城を包囲していた明・朝鮮水軍が古今島に撤退する。

戦争:慶長の役

年月日:慶長3年9月19日から10月9日(1598年10月19日から11月7日)

場所:朝鮮国全羅道今順天

結果:日本軍の勝利[1][2]

戦力 損害:明 朝鮮軍 5万4千人中 損害 大 日本軍 1万3千人中 損害 不明。

順天城の戦い後の経緯

順天の戦いに先立つ8月18日、豊臣秀吉は既に死去していた。その死は朝鮮派遣軍には秘匿されたままだったが、秀吉亡き後の豊臣政権では五大老らによって明・朝鮮と和議を結んだ上で諸軍を帰国させ、戦争を終結する方針が決定し、この方針を伝える使者は順天城の戦いの後、順天の日本軍のもとに到着した。

これを受け小西らは明軍の劉綎と和議を締結し、人質を受領して撤退の手筈を整えていた。しかし、11月7日、明・朝鮮水軍は秀吉死去に伴う日本軍撤退の動きを知ると根拠地の古今島を発ち、11月10日には順天沖に現れ海上を封鎖し撤退を阻んだ。このため、小西らは明水軍の陳璘と再交渉をして撤退の約束を取り付けることに成功し、人質も受け取った。ところが、日本軍の撃滅を望む朝鮮水軍の李舜臣がこれに激怒し猛抗議すると、陳璘も[要出典]約束を反故にして順天の日本軍が帰国することを阻んだ。

小西ら五氏の窮地を知った、島津義弘、立花宗茂、高橋統増、小早川秀包、筑紫広門、寺沢広高、宗義智らは、水軍を編成して順天へ救援に向かい、11月18日、露梁海峡で明・朝鮮水軍と激突したのが露梁海戦である。小西行長、松浦鎮信、有馬晴信、五島純玄、大村喜前の五氏は戦いの間隙を縫って脱出に成功し、11月25日、島津義弘らとともに釜山を出帆して帰国を果たした。

1837年 – チリ中部で大地震(M8.4、60名死亡)。

1861年 – 南北戦争: ベルモントの戦い 

時             1861年11月7日

場所        ミズーリ州ミシシッピ郡

結果        決着付かず

損害  北軍3千人中 戦死傷捕虜1000人 南軍6千人中 戦死傷捕虜1000人

11月6日、グラントはイリノイ州カイロから船でケンタッキー州コロンバスにある南軍の要塞攻撃に向かった。翌朝、南軍はミシシッピ川を渡ってミズーリ州ベルモントにいることが分かった。グラントは部隊をミズーリ州側に上陸させて、ベルモントに向けて行軍させた。グラント軍は南軍キャンプを占領して破壊した。しかし、散り散りになっていた南軍が直ぐに再編されコロンバスから援軍も到着した。南軍は対岸からの激しい砲撃にも支えられて反撃した。グラントは部隊を川舟まで後退させ、ケンタッキー州パデューカまで移動した。この戦闘の規模は小さかったが、当時他の場所では戦争の進展が無く、新聞で大いに注目された。

1918年 – スペインかぜ: 西サモアでインフルエンザが始まり、年末までに人口の2割の7,542人が死亡。

日付        1918年 – 1920年  確定症例数    5億人(推計)[1] 死者数

5000万-1億人以上(推計)

スペイン風邪(英語: 1918 flu pandemic, Spanish flu、スペイン語: La pandemia de gripe de 1918、gran pandemia de gripe、gripe española)は、一般的に1918年から1920年[2]にかけ全世界的に大流行したH1N1亜型インフルエンザの通称。初期にスペインから感染拡大の情報がもたらされたため、この名で呼ばれている[3][4][5]。アメリカ疾病予防管理センセン(CDC)によるインフルエンザ・パン・デミック・ウィルシミック重度指数(PSI)においては最上位のカテゴリー5に分類される[6]。

全世界で5億人が感染したとされ[7][8]、 世界入口(18億-19億)のおよそ27%(CDCによれば3分の1[9])とされており、 これには北極および太平洋諸国人口も含まれる。死亡者数は5,000万-1億人以上[10]、おそらくは1億人を超えていたと推定されており、人類史上最も死者を出したパンデミックのひとつである[11][12]。現状の歴史的・疫学的データでは、その地理的起源を特定できていない[7]。また、なぜ終息したのかも、依然として研究対象である。パンデミックが始まった1918年は第一次世界大戦中であり、世界で情報が検閲されていた中でスペインは中立国であったため戦時の情報統制下になく、感染症による被害が自由に報道されていた[3][4]。一説によると、この大流行により多くの死者が出たことで徴兵できる成人男性が減ったため、第一次世界大戦の終結が早まったといわれている[13]。

第一次世界大戦:戦死者900万、非戦闘員死者1000万、負傷者2200万人。第二次世界大戦: 戦死者1500万、軍人負傷者2500万、一般市民の死者数3800万。控えめな推定。

1950年 – 高知県で国鉄バス大栃線の車両が物部川に転落。死者33人。

2006年 – 北海道佐呂間町で竜巻が発生。9人が死亡し、23人が負傷。(北海道佐呂間町竜巻災害)

チャットgpt先生の11月7日のエッセイ


11月7日という日 ―― 時の終わりと始まりのあわいで

暦の上では霜月。2025年11月7日は、旧暦で九月十八日、月齢十六・六の満ちゆく月。干支は庚辰(かのえたつ)、友引、吉方は南東――「隠遁日」と記される。隠れて力を養い、再び表に立つ日のために心を沈めるには、ふさわしい日なのかもしれない。

歴史を振り返れば、この日には「終わり」と「帰還」を象徴する出来事が幾つも刻まれている。

1598年のこの日、朝鮮・順天での戦いが終結した。
秀吉亡き後、密かに伝わる撤兵命令を受け、疲弊した将兵たちは帰国への道を模索していた。だが、戦場ではまだ、誰も知らぬ「終わりなき戦」が続いていた。
明・朝鮮軍の包囲、海上封鎖、そして露梁海戦――。
ようやく脱出を果たした兵たちは、国に戻っても、主君なき政の混乱の中に沈んでいく。戦の勝敗は決したようで、実は何も終わっていなかった。
「戦い」とは、剣や火砲で決するものではなく、人の心に長く残る火のようなものだと、この日の記録は語る。

1837年、チリでは地が裂け、M8.4の地震が60人の命を奪った。
1861年の同日、アメリカ・ミズーリ州ではベルモントの戦い。
決着はつかず、双方に千人の死傷者を出した。
「勝者なき戦い」という言葉は、遠い時代にも、いまにも響く。

1918年11月7日、西サモアに流行が始まったインフルエンザは、瞬く間に全世界を覆い、二年間で5,000万から1億人を奪った。
戦場よりも、銃よりも、人の見えぬ呼気が多くの命を呑み込んだ。
第一次世界大戦が終わろうとする頃、世界は戦火よりも深い闇に沈んでいた。
それでも、感染の波が去った後、人々はまた暮らしを立て直し、音楽を奏で、恋をし、子を育てた。
終わりのあとに、必ず始まりがあった。

1950年、高知県の物部川に国鉄バスが転落し、33人の命が失われた。
2006年には、北海道佐呂間町を竜巻が襲い、9人が亡くなった。
地は揺れ、風は荒れ、水は溢れる。自然の力は、時に冷酷なほど静かで、そして一瞬にして全てを変えてしまう。
だがそのあとに訪れる静けさの中で、人は祈り、慰め、記録を残す。
それこそが、人が自然に抗わず、生き続けるための術なのだろう。

そして現代の11月7日、私たちは年の瀬まであと54日を数える。
忙しさの中で、ふと空を見上げれば、十五夜を過ぎた月がまだ輝いている。
戦や災いのない今日も、過去の出来事の上に立っている。
それらは遠い記憶ではなく、私たちが「生き延びてきた」証そのものだ。

11月7日――
それは、終わりを受け入れ、新しい季節へと歩み出す「静かな節目」の日である。
戦も病も災害も越えて、人は今日も生きる。
その営みの継続こそが、最大の勝利なのだ。