kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
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今日という日11月1日 1755万聖節リスボン大震災、ほか写真wikipedia震災後の都市

11月1日

20251101土曜日旧暦9月12日友引(甲戌きのえいぬコウジュツ)月齢 10.6

乙巳きのとみ年戊辰つちのえたつ月甲戌きのえいぬ日  年末まであと60日

吉方位 隠遁日 北 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%881%E6%97%A5

11月1日の出来事

1512年 – ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画が公開される。

1755年 – ポルトガルでリスボン大地震が発生。津波と火災による死者10万人。

1790年 – エドマンド・バークが『フランス革命の省察』を出版。同書中でフランス革命が失敗に終わることを予言。

1805年 – ナポレオン戦争・1805年オーストリア戦役: ナポレオン軍がオーストリアに侵攻。

時             1805年–1806年

場所        中央ヨーロッパ, イタリア, 大西洋

結果       

フランスの勝利

プレスブルクの和約

フランス帝国の統治の強化

ライン同盟の形成

神聖ローマ帝国の解体

数ヶ月後の第四次対仏大同盟の形成

被害者数  対仏同盟軍 死傷者65000人 捕虜70000人 フランス軍 死傷者 57,050名 捕虜 5,000名 死傷者合計双方で10万人以上

1916年 – 第一次世界大戦: 第九次イゾンツォの戦い。年月日:1916年11月1日 – 11月4日 場所:イゾンツォ川、西スロベニア 結果:オーストリア=ハンガリー軍の勝利(イタリア軍攻勢失敗) 損害 イタリア軍 戦死傷39000人 オーストリアハンガリー軍 戦死傷 33000人。

1920年 – 明治神宮創建。鎮座祭に群衆が殺到し、死傷者38人が生じる事故も発生[1]。

1955年 – ユナイテッド航空629便爆破事件。死亡45人(全員)。

1955年 – 北海道赤平市の茂尻炭鉱でガス爆発事故。死者71人[6]。

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1512年 – ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画が公開される。

1755年 – ポルトガルでリスボン大地震が発生。津波と火災による死者10万人。

11月1日はカトリックの祭日(諸聖人の日(万聖節))であった。当時の記録では、揺れは3分半続いたというものや、6分続いたというものもある[6]。リスボンの中心部には5m幅の地割れができ、多くの建物(85%とも言われる)が崩れ落ちた。即死した市民は2万人とされる。生き残ったリスボン市民は河川敷や港のドックなどの空き地に殺到した(狭い土地で無計画に都市開発が行われたために建物が密集し、市街には広場がなく狭い路地が入り組んでいた)が、やがて海水が引いていき、海に落ちた貨物や沈んでいた難破船が次々にあらわになった。地震から約40分後、逆に津波(押し波)が押し寄せ、海水の水位はどんどん上がって港や市街地を飲み込み、テージョ川を遡った[7]。15mの津波はさらに2回市街地に押し寄せ、避難していた約1万人の市民を飲み込んだ。津波に飲まれなかった市街地では火の手が上がり、火災旋風となって、その後5日間にわたってリスボンを焼き尽くした。

当時リスボンは27万5,000人の人口を数えたが、最大で9万人が死亡した。モロッコでも津波などで1万人が死亡したとされるが、記録がはっきりしておらず、続く11月18日から19日に起こった一連の地震の被害も合わさっている可能性もある[10]。

宰相のセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(のちのポンバル侯爵)は王室同様に地震を生きのびた。彼は地震直後「さあ、死者を埋葬して生存者の手当をするんだ」と命じたと伝えられる[11]。彼は、後年ポルトガルに君臨したときと同様の実用主義をもって、すぐさま救命と再建に取りかかった。彼は消火隊を組織し、市街地に送って火災を鎮め、また疫病が広がる前に数千の遺体を処理するよう軍隊に命令した。教会の意見や当時の慣習に反し、遺体ははしけに積まれてテージョ川河口より沖で水葬された。廃墟の町に無秩序、特に略奪が広がるのを防ぐため、街の周囲の丘の上に絞首台が作られ、30人以上の人々が処刑された[12]。軍隊は街を包囲して強壮な者が街から逃げるのを防いだが、これにより廃墟の撤去に多くの市民を駆り出すことができた。震災直後は物資不足が問題となったが、まもなくリスボンに在住していた貿易商などの外国人によってヨーロッパ各地に震災の被害が報告されたため、彼らを支援するための物資がリスボンに集まり、復興物資を確保することができた。

1790年 – エドマンド・バークが『フランス革命の省察』を出版。同書中でフランス革命が失敗に終わることを予言。

エドマンドバーク

生誕        1729年1月12日

 アイルランド王国、ダブリン

死没        1797年7月9日(68歳没)

グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国

イングランドの旗 イングランド、ビーコンズフィールド

時代        18世紀の哲学

地域        西洋哲学

イギリス

学派        イギリス経験論、懐疑主義

啓蒙思想

功利主義

古典的自由主義、保守主義

研究分野                 法の支配、コモン・ロー

政党政治、議会制、政治哲学 美学

バーク哲学において、人間の知力などというものは、祖先の叡智が巨大な山のように堆積している古来からの〈制度〉には及ばない、矮小で欠陥だらけのものとの考えがある。それゆえ「理性主義」、すなわちデカルト的な人間の理性への過信を根源的に危険視し、慎慮を提起する。言い換えれば、個々の人間を多くの間違いを冒す不完全な存在とみなす、謙抑な人間観に基づいている。

文明社会が人間の知力で設計されたものでない以上、仮に、文明の政治経済社会に人間の知力や理性に基づく「設計」や「計画」が参入すれば、その破壊は不可避となり、個人の自由は圧搾され剥奪されるとする[要出典]。

バーク哲学の主要概念は、慎慮、偏見・固定観念、取得時効、仮定、相続・世襲、法の支配、慣習、伝統、私有財産[注 15]などである。

逆にバークが断固として拒絶した概念は、平等、人権、人民主権、抽象、理性(裸の理性)、進歩、革新・刷新、民主制、人意・人間の意向、人間の無謬性[注 16]などである。

1805年 – ナポレオン戦争・1805年オーストリア戦役: ナポレオン軍がオーストリアに侵攻。

時             1805年–1806年

場所        中央ヨーロッパ, イタリア, 大西洋

結果       

フランスの勝利

プレスブルクの和約

フランス帝国の統治の強化

ライン同盟の形成

神聖ローマ帝国の解体

数ヶ月後の第四次対仏大同盟の形成

被害者数  対仏同盟軍 死傷者65000人 捕虜70000人 フランス軍 死傷者 57,050名 捕虜 5,000名 死傷者合計双方で10万人以上

1916年 – 第一次世界大戦: 第九次イゾンツォの戦い。年月日:1916年11月1日 – 11月4日 場所:イゾンツォ川、西スロベニア 結果:オーストリア=ハンガリー軍の勝利(イタリア軍攻勢失敗) 損害 イタリア軍 戦死傷39000人 オーストリアハンガリー軍 戦死傷 33000人。

1916年 – 第一次世界大戦: 第九次イゾンツォの戦い。年月日:1916年11月1日 – 11月4日 場所:イゾンツォ川、西スロベニア 結果:オーストリア=ハンガリー軍の勝利(イタリア軍攻勢失敗) 損害 イタリア軍 戦死傷39000人 オーストリアハンガリー軍 戦死傷 33000人。

1920年 – 明治神宮創建。鎮座祭に群衆が殺到し、死傷者38人が生じる事故も発生[1]。

鎮座祭は1920年(大正9年)11月1日に行われ、明治神宮はこの日を以て創建としている[2]。掌典長九条道実が勅使として御霊代を奉じて参向した。正午、一般人の参拝が許可された。総数50万人以上が参拝した。参拝者が殺到し混乱を来たしたため、神符や守札の授与が中止された[31]。群衆殺到により38人の死傷者も出た[32][33]。

1955年 – ユナイテッド航空629便爆破事件。死亡45人(全員)。

1955年 – 北海道赤平市の茂尻炭鉱でガス爆発事故。死者71人[6]。

チャットgpt先生の11月1日のエッセイ


11月1日 ― 歴史の中の人間と慎慮

2025年11月1日、土曜日。
旧暦では九月十二日、友引。
干支は甲戌(きのえいぬ)、月齢10.6。
年の瀬まで、あと60日。
吉方は北――「隠遁日」とある。
静かに、己を見つめるにはよい日かもしれない。

この日を歴史の中で振り返ると、人類の栄光と悲劇が幾層にも重なっている。
1512年、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画を世に現した日。
神の創造を描いたその天井は、人間の手が神の領域に触れうることを証明したようでもある。
同じ日、1755年のリスボンでは、大地が裂け、火と水が街を呑み込み、十万人の命が消えた。
諸聖人の日――人々が祈りを捧げるその朝、世界はまるで信仰の根底を試すように震えた。
「神は何処にいるのか」と問う声が、灰と煙の中にこだました。

時を経て、1790年のこの日、エドマンド・バークは『フランス革命の省察』を世に問う。
彼は、理性という名の熱狂に冷たい水を注ぐ。
人間の知は限りある――
制度や伝統は、祖先の叡智が積み重なった「生きた時間の遺産」であり、
それを理屈で壊すことの危うさを彼は見抜いていた。
彼の「慎慮(しんりょ)」の思想は、革命の嵐の中にあって、
むしろ嵐を超えた静かな警鐘だったのだろう。

1805年、ナポレオンの軍勢がヨーロッパを席巻し、
1916年、イゾンツォの戦いでは数万の命が川に散った。
どの戦争も「理性」の名のもとに始まり、
その果てで人々はいつも同じ問いに戻る。
――何を守るために、私たちは壊すのか。

1920年11月1日、東京・代々木の森に明治神宮が創建された。
五十万人が参拝に訪れ、押し寄せる群衆の中で三十八人が命を落とした。
祝祭と悲劇が同居するその瞬間にも、
人の心には「敬う」という思いと「群れる」という衝動が同居している。
どちらも人間らしい。だからこそ慎みが要る。

そして1955年――空では爆破事件、地では炭鉱の爆発。
空と地の双方で、人間の技術と欲望の影が同時に揺らいだ日でもあった。


こうして11月1日をたどると、
人間の創造と破壊、祈りと傲慢、希望と慎慮が交錯していることに気づく。
ミケランジェロの筆も、バークの言葉も、そしてポンバル侯の実務も、
みな「人間は理想に近づこうとして、しばしば神の領域を試す」行為だった。

今日という日を「隠遁日」と暦が告げるのは、偶然ではない気がする。
世界の喧噪や情報の奔流の中で、
一歩下がって、自らの理性を疑い、
心の奥の静寂に耳を澄ます時間が必要だ。

「慎慮」とは、恐れではなく、深い愛のかたちだと思う。
人間の不完全さを受け入れたうえで、なお良くあろうとする努力。
それは、500年前に天井画を描いた手にも、
300年前に革命を省察した筆にも、
そして今日、私たちの指先にも、確かに宿っている。


2025年11月1日
天井の彼方の神々も、瓦礫の下の人々も、
そして今を生きる私たちも、同じ時間の流れの中にいる。
この日を静かに過ごすこと――
それ自体が、長い人類史への敬意なのかもしれない。