kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日10月28日 312コンスタンティヌス1世がマクセンティウスを破る、ほか写真wikipedia現在のミルウィウス橋

10月28日

20251028火曜日旧暦9月8日仏滅(庚午かのえうまコウゴ)月齢 6.6

乙巳きのとみ年戊辰つちのえたつ月庚午かのえうま日 年末まであと64日

吉方位 隠遁日 庚午かのえうま日

https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8828%E6%97%A5

10月28日の出来事

312年 – ミルウィウス橋の戦い。コンスタンティヌス1世がマクセンティウスを破り、西ローマ帝国の単独皇帝になる。年月日:312年10月28日 場所:ミルウィウス橋(ローマ郊外) 結果:コンスタンティヌス軍の勝利 損害詳細不明だが 10万人規模の双方軍隊がぶつかりあったとされる。

1628年 – ユグノーの反乱(英語版): ラ・ロシェル包囲戦が終結。

時             1627-1628

場所        ラ・ロシェル

結果        フランス国王の勝利

損害  フランス軍23000人中 戦死500人 ラロシェルユグノー軍 3万人中 戦死22500人

1707年(宝永4年10月4日) – 宝永地震。東海道・紀伊半島・四国に被害がおよび、2万人以上が死亡。

1876年 – 萩の乱:山口県萩で、不平士族らが、吉田松陰門下生として名高い前原一誠を擁して反政府反乱を起こす。熊本の神風連の乱・秋月の乱に呼応する形で挙兵。年月日:1876年10月28日 – 12月8日 場所:山口県 萩市 結果:政府軍の勝利

首謀者とされた一誠と奥平および横山俊彦、佐世一清(一誠の実弟)、山田頴太郎(一誠の実弟)、有福旬允、小倉信一、河野義一は即日(翌日説あり)斬首された。 残る人物の処遇は明治九年司法省之部賊徒口供書では有罪72名、無罪1名、放免299名、合計372名

1891年 – マグニチュード8.0の濃尾地震が発生。死者7273名、全壊・焼失家屋142,000戸[2]。

1995年 – バクー地下鉄で火災が発生。289人が死亡する惨事となった。

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312年 – ミルウィウス橋の戦いコンスタンティヌス1世がマクセンティウスを破り、西ローマ帝国の単独皇帝になる。年月日:312年10月28日 場所:ミルウィウス橋(ローマ郊外) 結果:コンスタンティヌス軍の勝利 損害詳細不明だが 10万人規模の双方軍隊がぶつかりあったとされる。

合戦

マクセンティウスは、戦場をローマを流れるティベリス川を横切るフラミニア街道に架かる巨大な石橋であるミルウィウス橋に決めた。それは、マクセンティウスがローマ市内へライバル皇帝を入城させないようにする為には、ミルウィウス橋を保持することが重要であったからである。

マクセンティウス軍は、全体に縦深陣を敷き、前線が平野部、末端部はティベリス川河畔にまで達する背水の陣とも言える陣形を組んだ一方で、コンスタンティヌス軍はコンスタンティヌス自身が前線に出て、マクセンティウス軍と相対する陣形を組んだ。

10月28日、両軍隊が衝突して、コンスタンティヌス自らも騎馬に乗って突撃したが、マクセンティウス軍が動きの緩慢な重装騎兵や、軽装のヌミディア騎兵が主力であったのに対して、コンスタンティヌス軍は自らの支配地でもあった機動力に優れたガリア騎兵が主力となり、地形からもコンスタンティヌス軍が優位に立った。

歩兵部隊(コホルス)同士の対戦では、マクセンティウスの軍は当初は善戦したものの、徐々にティベリス川へと押し込まれた。その為、マクセンティウスは、一度後退して、ローマ市内で陣営を立て直すことを決定した。しかし、ローマへの帰路はミルウィウス橋を渡るしかなく、コンスタンティヌス軍の追討もあって、ミルウィウス橋へと殺到したマクセンティウス軍の多くの将兵がティベリス川へ転落するか捕虜となった。また、マクセンティウスのプラエトリアニは、激しく抵抗したものの、殆どが戦死した。マクセンティウス自身はミルウィウス橋から落ちて溺死したとも、ティベリス川を泳いで逃げる最中に甲冑の重さに耐え切れずに溺死したとも伝えられる。

コンスタンティヌス軍が勝利を収め、コンスタンティヌスは、10月29日にローマに入城した。ティベリス川から引き上げられたマクセンティウスの遺体は検めて斬首されて、ローマ市民が見物する中で市内の通りを首を晒して回った。式典の後、マクセンティウスの首はカルタゴへ送られ、アフリカ諸属州も降伏した。

マクセンティウスの遺児二人を含む近親者は皆殺しにされ、マクセンティウスに連なる者は悉く粛清されたとされているが、一説にマクセンティウスの子とされるアントニウス・ドナトゥスなる者が逃げ延び、子孫を残したともされる。アントニウス・ドナトゥスの血筋は少なくとも20世紀の終わりまで存続しているという。

ミルウィウス橋の戦いの結果、ローマ帝国の西半分の支配権をコンスタンティヌスは手中に収めることとなった。戦勝後に今までの皇帝が行っていたカピトリヌスの丘にある神殿での儀式を一切無視して、皇宮に向かった。コンスタンティヌスは元老院が持つ先祖伝来の種々の特権を認めた一方で、元老院もコンスタンティヌスにありとあらゆる称号を授与した。マクセンティウスにダムナティオ・メモリアエを実施し、マクセンティウスが策定した法令は全て無効であると宣言した。

1628年 – ユグノーの反乱(英語版): ラ・ロシェル包囲戦が終結。

時             1627-1628

場所        ラ・ロシェル

結果        フランス国王の勝利

損害  フランス軍23000人中 戦死500人 ラロシェルユグノー軍 3万人中 戦死22500人

1707年(宝永4年10月4日) – 宝永地震。東海道・紀伊半島・四国に被害がおよび、2万人以上が死亡。

1876年 – 萩の乱:山口県萩で、不平士族らが、吉田松陰門下生として名高い前原一誠を擁して反政府反乱を起こす。熊本の神風連の乱・秋月の乱に呼応する形で挙兵。年月日:1876年10月28日 – 12月8日 場所:山口県 萩市 結果:政府軍の勝利

萩の乱(はぎのらん)は、1876年(明治9年)に山口県の萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ。

首謀者とされた一誠と奥平および横山俊彦、佐世一清(一誠の実弟)、山田頴太郎(一誠の実弟)、有福旬允、小倉信一、河野義一は即日(翌日説あり)斬首された。 残る人物の処遇は明治九年司法省之部賊徒口供書では有罪72名、無罪1名、放免299名、合計372名

1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に福岡県で起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名(吉田樟堂文庫「丙子萩事変裁判調書」では506名、岩村通俊遺稿では2千余名と諸説あり)によって起こされた反乱である。後の内閣総理大臣(第26代)田中義一も当時13歳で反乱に参加している。

乱による松下村塾への影響

この乱には松下村塾最年長の一誠をはじめ、多くの塾生や吉田松陰の親族(松陰叔父の玉木家、本人の吉田家、実家の杉家)跡取が事件に深く関与した。いずれも松陰の実兄の杉民治を介しており、玉木正誼は民治長女の婿養子、吉田小太郎は民治長男、杉相次郎は民治次女の婿養子である。玉木正誼と吉田小太郎が戦死したため玉木家は正誼の子・玉木正之が、吉田家は民治三女の婿養子・吉田庫三が相続した。この件により松陰の叔父であり松下村塾塾頭玉木文之進は切腹し塾も閉鎖された。松陰の実兄・杉民治も本郷代官を辞して隠居の身となったが、明治13年(1880年)松下村塾を再興し明治23年(1890年)の教育勅語で塾が閉鎖されるまで子弟教育に励んだ。

1891年 – マグニチュード8.0の濃尾地震が発生。死者7273名、全壊・焼失家屋142,000戸[2]。

1995年 – バクー地下鉄で火災が発生。289人が死亡する惨事となった。

チャットgpt先生の10月28日のエッセイ


10月28日 ― 歴史の転換点に立つ日

10月28日。
秋も深まり、陽の傾きが早くなるこの季節は、しばしば歴史の転換を刻んできた日である。
暦の上では、2025年のこの日は旧暦9月8日、仏滅。月齢6.6の夜空には、半月を少し欠いた月が浮かぶ。
「庚午(かのえうま)」の日。庚は金気、午は火気。燃え盛る中に金が鍛えられるような、激動と転化の象意を持つ日だという。

その象意をなぞるように、この日は古今東西で「戦い」と「再生」の記憶を刻んできた。


ミルウィウス橋の戦い ― 信仰と権力の分岐点(312年)

ローマ郊外のティベリス川に架かるミルウィウス橋で、コンスタンティヌス1世とマクセンティウスが激突したのは、1700年以上も昔の10月28日。
10万人を超える兵がぶつかり合い、ティベリス川は兵士の命を呑み込んだ。
勝利したコンスタンティヌスは、後にキリスト教を公認し、世界の宗教史を塗り替える。
この戦いは単なる内戦ではなく、「信仰が国家を動かした最初の瞬間」とも言える。
剣と祈り、血と信仰。そこにあったのは、人間の根源的な“より強い光”への希求だったのだろう。


ラ・ロシェル包囲戦 ― 信仰と権力の再びの衝突(1628年)

それから1300年後、フランスの港町ラ・ロシェルでもまた、信仰をめぐる血戦が終結する。
ユグノー(プロテスタント)たちが自由と自治を求めて籠城し、1年あまりの包囲戦の末、餓死や病で2万を超える命が失われた。
勝ったのは国王ルイ13世、だがその勝利は「信仰の自由」という理念を封じ込めるものだった。
ローマのミルウィウス橋も、フランスのラ・ロシェルも、「信仰」が政治の炎に包まれた場所である。
炎の中で人間は祈りを失い、そしてまた新たな祈りを見出してきた。


宝永地震(1707年) ― 大地の怒りと人の無力

戦いのない災厄もまた、この日に訪れた。
宝永4年10月4日(西暦1707年10月28日)――東海道から紀伊半島、四国を揺るがした宝永地震。
死者2万人以上。
富士山が宝永の大噴火を起こすのはその49日後。
この地震はまるで、大地が人間の傲慢を諫めるようである。
刀や信仰では抗えぬ自然の前で、人はただ震える。
それでも人は、廃墟の中に家を建て、稲を植え、暦をめくっていった。
それもまた、人間の強さなのだ。


萩の乱(1876年) ― 忠義と近代のはざまで

明治9年10月28日、山口県萩。
吉田松陰の門下生、前原一誠が政府に反旗を翻した。
神風連、秋月に呼応して起こったこの反乱は、近代国家への転換期に生まれた「旧士族の悲鳴」である。
松下村塾の仲間たちが互いに刃を向けることになり、塾頭の玉木文之進は切腹し、松下村塾も一時閉ざされた。
だが、その志は後に田中義一らの世代に受け継がれ、明治日本の礎を築く。
敗れた者たちの魂が、時代の礎石となった。
庚午の火に焼かれた鉄が、やがて刀となるように。


そして現代へ ― 忘れられた日常の中の記憶

1995年10月28日、バクー地下鉄火災。
密閉空間の中で289人が命を落とした。
戦も信仰も関係のない、ただの「日常」が一瞬で地獄に変わる。
その悲劇は、現代社会の脆さを静かに突きつける。


終わりに ― 歴史の呼吸を聴く日

10月28日。
それは、戦いの炎が燃え上がり、信仰が揺れ、地が裂け、人が死に、そして人が再び立ち上がった日。
庚午の火が焼くものは、時代の矛盾と人間の傲慢かもしれない。
だが同時に、その火は「再生」の光でもある。

年の終わりまで、あと64日。
過ぎ去った時代の息づかいに耳を傾けながら、私たちはまた、新しい年へ向かう。
戦も地震も火災もない今日があること自体が、すでにひとつの「奇跡」なのかもしれない。