10月19日
20251019日曜日旧暦8月28日大安(辛酉かのととりシンユウ)月齢 27.2
乙巳きのとみ年戊辰つちのえたつ月辛酉かのととり日 年末まであと73日
吉方位 隠遁日 辛酉かのととり日 北 大吉
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10月19日の出来事
紀元前202年 – ザマの戦いで、大スキピオ率いるローマ軍が、ハンニバル率いるカルタゴ軍を破り、第二次ポエニ戦争が終結する。
場所:ザマ (現チュニジア・シリアナ県) 結果:ローマの勝利・第二次ポエニ戦争終結
損害:ローマ軍 4万人中 戦死6500人 カルタゴ軍 5万人中 戦死25000人捕虜8000人。
1598年(慶長3年9月19日) – 慶長の役・順天城の戦いが始まる。年月日:慶長3年9月19日から10月9日(1598年10月19日から11月7日)場所:朝鮮国全羅道今順天
結果:日本軍の勝利[1][2] 朝鮮軍 5万5千人中 戦死傷不祥だが甚大 日本軍1万3千人中 戦死傷 不祥。
1812年 – 1812年ロシア戦役: ナポレオンのフランス軍がモスクワからの撤退を開始。
1864年 – 南北戦争: シーダークリークの戦い。場所 バージニア州フレデリック郡、シェナンドー郡およびウォーレン郡 結果 北軍の勝利 損害 北軍 3万2千人中 戦死傷5000人 南軍 2万1千人中 戦死傷2900人。
1986年 – モザンビーク大統領サモラ・マシェルと大臣、政府職員が乗った飛行機がレボンボ山脈(英語版)に墜落。マシェル大統領らが死亡。死亡者34人。生存10人。
「1986年モザンビークTu-134墜落事故(英語版)」を参照
1979年 – 台風20号が和歌山県白浜町付近に上陸し、本州・北海道を縦断。全国で死者行方不明者115名。
1987年 – ブラックマンデー: ニューヨーク株式市場が大暴落し、株式暴落が世界中に広がる[6]。
2017年 – 本田技研工業が、スーパーカブの世界累計生産台数がオートバイとしては世界初の1億台に達したことを発表[9]。
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紀元前202年 – ザマの戦いで、大スキピオ率いるローマ軍が、ハンニバル率いるカルタゴ軍を破り、第二次ポエニ戦争が終結する。
場所:ザマ (現チュニジア・シリアナ県) 結果:ローマの勝利・第二次ポエニ戦争終結
損害:ローマ軍 4万人中 戦死6500人 カルタゴ軍 5万人中 戦死25000人捕虜8000人。
ザマの戦い(ザマのたたかい、英語:Battle of Zama)は、紀元前202年10月19日に北アフリカのザマで起こったローマ軍とカルタゴ軍の戦い。大スキピオ率いるローマ軍がハンニバル率いるカルタゴ軍を破り、第二次ポエニ戦争の趨勢を決した。
スキピオの企図したとおりにカンナエの包囲が再現された。包囲されたカルタゴ軍はパニックに陥り、傭兵や市民兵は大半が降伏した。古参兵は必死に抵抗したが殲滅され、ハンニバル自身はわずかな供回りとともに逃亡した。
この戦闘でカルタゴ軍は約20,000名の戦死者と同数の捕虜を出し、ローマ軍は約1,500名が戦死したという。戦いの帰趨を決したのは、カンナエの戦いと同様に騎兵の後方機動にあったといえる。また、スキピオが採用したといわれるグラディウスが、歩兵同士の白兵戦を有利に進めたのも勝利の一因といえるだろう。
戦後と影響
ザマの戦いに敗れたカルタゴはスキピオに講和を申し入れ、スキピオは以前提示した条件を更に厳しくする形で以下の条件を要求した[8][9]。
一外征とローマの許可が無いアフリカ内での戦争禁止。
一全ての戦象と軍艦500隻を引き渡す。
一有力者の子弟100人を人質として引き渡す。
一50年以内の銀1万タラント支払い。
一マシニッサに対する先祖伝来の領土と資産返還。
一ヒスパニア等全海外領土の放棄。
一カルタゴは条約を受け入れた。これによってカルタゴは海外領土をほぼ喪失して海軍もわずかに10隻となり、ローマの属国に零落して地中海における覇権を喪失した。
1598年(慶長3年9月19日) – 慶長の役・順天城の戦いが始まる。年月日:慶長3年9月19日から10月9日(1598年10月19日から11月7日)場所:朝鮮国全羅道今順天
結果:日本軍の勝利[1][2] 朝鮮軍 5万5千人中 戦死傷不祥だが甚大 日本軍1万3千人中 戦死傷 不祥。
順天城の戦い後の経緯
順天の戦いに先立つ8月18日、豊臣秀吉は既に死去していた。その死は朝鮮派遣軍には秘匿されたままだったが、秀吉亡き後の豊臣政権では五大老らによって明・朝鮮と和議を結んだ上で諸軍を帰国させ、戦争を終結する方針が決定し、この方針を伝える使者は順天城の戦いの後、順天の日本軍のもとに到着した。
これを受け小西らは明軍の劉綎と和議を締結し、人質を受領して撤退の手筈を整えていた。しかし、11月7日、明・朝鮮水軍は秀吉死去に伴う日本軍撤退の動きを知ると根拠地の古今島を発ち、11月10日には順天沖に現れ海上を封鎖し撤退を阻んだ。このため、小西らは明水軍の陳璘と再交渉をして撤退の約束を取り付けることに成功し、人質も受け取った。ところが、日本軍の撃滅を望む朝鮮水軍の李舜臣がこれに激怒し猛抗議すると、陳璘も[要出典]約束を反故にして順天の日本軍が帰国することを阻んだ。
小西ら五氏の窮地を知った、島津義弘、立花宗茂、高橋統増、小早川秀包、筑紫広門、寺沢広高、宗義智らは、水軍を編成して順天へ救援に向かい、11月18日、露梁海峡で明・朝鮮水軍と激突したのが露梁海戦である。小西行長、松浦鎮信、有馬晴信、五島純玄、大村喜前の五氏は戦いの間隙を縫って脱出に成功し、11月25日、島津義弘らとともに釜山を出帆して帰国を果たした。
1812年 – 1812年ロシア戦役: ナポレオンのフランス軍がモスクワからの撤退を開始。同年12月14日までに出役時60万だった大陸軍は5千にまで減ることになる
1864年 – 南北戦争: シーダークリークの戦い。場所 バージニア州フレデリック郡、シェナンドー郡およびウォーレン郡 結果 北軍の勝利 損害 北軍 3万2千人中 戦死傷5000人 南軍 2万1千人中 戦死傷2900人。
シーダークリークの戦い(シーダークリークのたたかい、英:Battle of Cedar Creek、またはベルグラブの戦い、英:The Battle of Belle Grove)は、南北戦争の1864年のバレー方面作戦では最後でかつ最も決定的な勝敗がついたものとして、1864年10月19日に、バージニア州フレデリック郡、シェナンドー郡およびウォーレン郡で起こった戦闘である。南軍ジュバル・アーリー中将が率いる最後の北部侵略軍が実質的に崩壊し、南軍はワシントンD.C.を脅かすことができなくなったばかりか、シェナンドー渓谷の経済基盤を守ることもできなくなった。エイブラハム・リンカーン大統領の再選は事実上この勝利で助けられ、フィリップ・シェリダン少将は永続する名声を得ることになった。
1979年 – 台風20号が和歌山県白浜町付近に上陸し、本州・北海道を縦断。全国で死者行方不明者115名。
1986年 – モザンビーク大統領サモラ・マシェルと大臣、政府職員が乗った飛行機がレボンボ山脈(英語版)に墜落。マシェル大統領らが死亡。死亡者34人。生存10人。
「1986年モザンビークTu-134墜落事故(英語版)」を参照
1987年 – ブラックマンデー: ニューヨーク株式市場が大暴落し、株式暴落が世界中に広がる[6]。
ラックマンデー(英: Black Monday、暗黒の月曜日)とは、1987年(昭和62年)10月19日(月曜日)に香港を発端に起こった世界的株価大暴落である。米国のダウ平均株価(DJIA)は、ちょうど508ポイント(22.6%)下落した。これは過去最大の1日の減少率であった。大量の売りが1日を通して急激な価格下落を引き起こし、特に取引の最後の1時間半の間で顕著であった。S&P 500指数とウィルシャー5000指数はそれぞれ18%以上下落し、S&P500先物は29%下落した。総取引量があまりにも多かったため、当時のコンピューターや通信システムは機能せず、注文は1時間以上も滞った。大量の資金移動が何時間も遅延し、FedwireとNYSE DOTシステムが長期間停止したことで、トレーダーの混乱はさらに深まった。
2017年 – 本田技研工業が、スーパーカブの世界累計生産台数がオートバイとしては世界初の1億台に達したことを発表[9]。
チャットgpt先生の10月19日のエッセイ
🔶10月19日──転換の日、終わりが始まりを呼ぶ日
10月19日。
秋も深まり、月齢は27。夜空では痩せ細った月が東の空にわずかな光を投げている。暦の上では旧暦八月二十八日、大安。十干十二支では「辛酉(かのととり)」の日。
「辛」は痛みを伴う変革を、「酉」は実りと収穫、または終焉を象徴する。
その二つが重なるこの日は、まさに“区切り”と“再生”の気配を帯びている。
歴史をひもとけば、この日が幾度となく「大きな終わり」と「新しい始まり」をもたらしてきたことに気づく。
紀元前202年、北アフリカのザマの平原。
ローマのスキピオとカルタゴのハンニバルが激突した「ザマの戦い」がこの日に行われた。
ここでローマが勝利し、百年以上続いたポエニ戦争が終結する。
ローマの地中海覇権の始まりであり、カルタゴの栄光の終焉でもあった。
「終戦の日」であると同時に、「帝国の誕生日」でもあった。
1598年、日本では「順天城の戦い」。
豊臣秀吉の死が極秘とされる中、朝鮮半島で最後の戦闘が続いていた。
やがて戦が終わり、兵は帰国する。
この日もまた、ひとつの戦国の夢が終わり、江戸という新しい秩序への道が開かれていった。
1812年、ナポレオンはモスクワからの撤退を開始した。
炎上する街を背に、皇帝は雪と飢えに追われる。
「征服」の終わり、「崩壊」の始まり。
ヨーロッパの冬が、ひとりの英雄の野望を凍てつかせた。
1864年、南北戦争・シーダークリークの戦い。
ここで北軍が勝利し、リンカーンの再選が確実となった。
アメリカ合衆国の統一が再び確かにされた日でもある。
そして、20世紀後半から現代へ。
1979年、台風20号が日本列島を縦断し、115人が命を落とした。
1986年、モザンビーク大統領サモラ・マシェルが墜落事故で亡くなる。
1987年、ブラックマンデー──世界の株式市場が未曾有の暴落を記録し、経済の「恐怖」が可視化された日。
2017年には本田技研工業が「スーパーカブ」1億台を達成。
人と機械の歩みの到達点として、静かに記録された。
こうして見れば、10月19日は「転換の日」と呼ぶにふさわしい。
戦争の終わり、撤退の始まり、災厄の教訓、そして新しい時代の発表──。
それぞれが「ある時代の幕を閉じ、次の章を開く日」として現れている。
辛酉の「辛」は、痛みを伴う革新。
「酉」は収穫、すなわち終わりの時。
終わりは痛みを伴うが、その痛みの中にこそ次の種がある。
ザマの平原で倒れた兵の上にローマが築かれ、モスクワの雪の果てにヨーロッパの再構築が始まったように。
暦の上では隠遁日。
動よりも静を尊び、外へ出るより内へ向かうのにふさわしい日だという。
だが歴史の10月19日は、むしろ「終わりを見つめ、始まりを決意する」動的な日だった。
人が痛みの中に変化を見出し、敗北の先に未来を描いた──そんな記憶が刻まれている。
年の残りはあと73日。
実りの季節を終え、次の春の種を思うころ。
10月19日は、歴史のうねりの中で「終わり」と「始まり」が同時に息づく一日なのだ。