10月16日
20251016木曜日旧暦8月25日友引(戊午つちのえうまボゴ)月齢 24.2
乙巳きのとみ年戊辰つちのえたつ月戊午つちのえうま日 年末まであと76日
吉方位 隠遁日 戊午つちのえうま日
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10月16日の出来事
1590年 – イタリアの貴族・作曲家のカルロ・ジェズアルドが、妻とその愛人ファブリツィオ・カラーファの密会の現場をおさえ、2人を惨殺。
1793年 – フランス革命: ルイ16世妃マリー・アントワネットが断頭台で処刑される。
1813年 – ナポレオン戦争: ライプツィヒの戦いが始まる。諸国民戦争。激戦の末ナポレオンフランス軍大敗。年月日:1813年10月16日 – 10月19日 場所:ザクセン王国、ライプツィヒ 結果:連合軍の勝利 損害 フランス軍 19万人中 戦死傷38000人+同盟軍5000人 計43000人死傷 捕虜30000人 諸国民連合軍(プロイセン、ロシア、オーストリア、スウェーデン) 36万人中 戦死傷54000人。
1946年 – ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けたリッベントロップ元外相ら10名の被告への刑が執行される。
1981年 – 北炭夕張新炭鉱ガス突出事故。北炭夕張新炭鉱でガス突出・坑内火災事故。死者93人。
1991年 – アメリカ合衆国テキサス州キリーンのレストラン・ルビーズで銃乱射事件が発生。(ルビーズ銃乱射事件) 犯人含む24人死亡。
2020年 – コンフラン=サントノリーヌのテロ事件。2020年10月16日、フランス・イヴリーヌ県のコミューンであるコンフラン=サントノリーヌで、地理歴史科の中学教師サミュエル・パティ(仏: Samuel Paty)が、授業でイスラーム教の預言者ムハンマドの風刺画を生徒に見せたことに対する報復として、イスラーム過激派の男に首を切られて殺害されたテロ事件である。
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1590年 – イタリアの貴族・作曲家のカルロ・ジェズアルドが、妻とその愛人ファブリツィオ・カラーファの密会の現場をおさえ、2人を惨殺。
殺人事件
1586年にジェズアルドは、いとこでペスカーラ侯爵令嬢のマリア・ダヴァロスと結婚するが、2年後にマリアは、アンドリア公ファブリツィオ・カラーファと情事を重ねた。最初の2年間は、ジェズアルドの目をかすめて不倫を続けることができたようだが、しかしその関係は余人の良く知るところであった。
ついに1590年10月16日、ジェズアルドは狩の遠出に出かけると伝え、マリアとカラーファ公の二人が警戒心を緩めていたところに、手下を連れてナポリの宮殿に乗り込み、妻とその愛人の濡れ場をおさえ、寝台の上で二人を惨殺した。貴族であるジェズアルドは処罰を受けることはなかったが、報復を避けるために領地ジェズアルドの居城に逃げ込み、ダヴァロス家からもカラーファ公の親族からも身の安全を図ろうとした。
この殺人事件はひろく宣伝され、たとえばタッソーのほか、大騒動に乗じようとするナポリ中の詩人たちによって取り上げられた。殺害の不道徳なる詳細は印刷物として広まったが、ヴェノーザ公子であるジェズアルドを捕縛しようとする動きは起きなかった。現場に関する治安報告書[2]は、事件から400年以上経った今でも衝撃的である。 不貞の妻に対する報復殺人は、中世以降のイタリアの貴族階層では珍しい習慣ではなかったが、ジェズアルドが現場に乗り込んだ際に手下を連れており、浮気相手との一騎討ちではなかったことから、ジェズアルドの所業は騎士道にもとるとされ、世論の同情はジェズアルドにではなく、被害者の二人に向かったといわれる。
妻殺しに続いてジェズアルドがどのような所業を行なったかについては、様々に言い伝えられている。当時のある史料によれば、わが子の瞳を見て疑心暗鬼に駆られ、ジェズアルドも嬰児殺しに加担した(「息の根が止まるまで、赤子を揺り籠ごと振り回した」)という。また別の史料は、復讐に現れた義父さえも殺したとしている。実際、ジェズアルドは復讐からわが身を守るために武装した兵士を雇っていた。
後半生においてジェズアルドはうつ病にさいなまれた。それが殺人に対する罪の意識にかかわっていたのかどうかを証明することは困難であるが、それをほのめかす証拠はある。カンパネッラが1635年にリヨンで記したところによると、かつてジェズアルドは日々使用人に鞭打たれており、彼を鞭打たせるための特別の使用人を雇っていたという[2]。 彼は叔父の遺骨を入手するべく、ボロメオ枢機卿と執拗で無益な書簡を交わした。 後年の詩篇第51番による《ミゼレーレ》は、嘆願するかのように単旋律聖歌と低音声部による半音階的ポリフォニーの交代を執拗に繰り返す異色の作品となっている。 ジェズアルドは、最初の結婚で得た長男エマヌエレの死から3週間後に、ジェズアルド城で亡くなった。
1793年 – フランス革命: ルイ16世妃マリー・アントワネットが断頭台で処刑される。
マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アプスブール=ロレーヌ(フランス語: Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine, 1755年11月2日 – 1793年10月16日)またはマリー=アントワネット・ドートリッシュ(フランス語: Marie-Antoinette d’Autriche[1])は、フランス国王ルイ16世の王妃(王后・王太后)。オーストリアとフランスの政治的同盟のためルイ16世へ嫁ぎ[2]、フランス革命で処刑された。37歳没。
10月14日午前8時から午後11時、16日午前8時から午前4時の2日半間に渡り革命裁判所で裁判が行われた(裁判官は合議審で何人も交代し泣いたと伝う。また、マクシミリアン・ロベスピエールとジャコバン派の推薦した証人は数十人以上にもなったと云う)。アントワネットは内通、公費乱用、背徳行為、脱出計画に対しての罪に問われ、重罪により死刑が求刑された[30]。アントワネットは罪状の全てについて否定し、聡明で教養がありノブレス・オブリージュであるアントワネットは自らを弁論し、裁判官の読み上げる罪状の一言一句の全てにディベート(古フランス語・中世フランス語 -debatre- ドゥバトル「戦う」こと)し、彼女らしい芸術的ユーモアのあるフランス語の授業を展開した。彼女を弁論するもの彼女の弁論やディベートに異議を唱えるものはおらず彼女は無実-無罪だという印象を与えた。ヴァレンヌ逃亡については、夫であるルイ16世に従ったためと答えた[31]。ジャック・ルネ・エベールはルイ17世による申し立てとして、母親との近親相姦があったと報告したが[32]、このような荒唐無稽な証言は傍聴人からの反感を買うことになり、マクシミリアン・ロベスピエールを激怒させる結果となった[33]。
処刑前の王妃の様子のスケッチ
しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず、1793年10月16日午前4時頃にアントワネットは死刑判決を受けた[34]。処刑の直前にアントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛ての遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった[35]。 この遺書は牢獄の管理人であったボーに渡され、検察官のタンヴィルから数人の手に渡ったのち、王政復古の時代にルイ18世にゆだねられた[36]。そのため、革命下を唯一生き延びたマリー・テレーズがこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。
ギロチン処刑
遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。すべて終わりました」と述べたと言われ、そして白衣に白い帽子を身に着けた。革命広場に向かうため、アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられていった。コンシェルジュリーを出たときから、苦なく死ねるように髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。19世紀スコットランドの歴史家アーチボルド・アリソンの著した『1789年のフランス革命勃発からブルボン王朝復古までのヨーロッパ史』などによれば、その最期の言葉は、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ(Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l’ai pas fait exprès.) [37]」だとされている。
10月16日の12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。それまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。その後、群衆は昼飯の時間帯であったこともあり一斉に退散し、広場は閑散とした。数名の憲兵がしばらく断頭台を見張っていたが、やがて彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に、首は手押し車の足に載せられ運び去られた[38]。
1813年 – ナポレオン戦争: ライプツィヒの戦いが始まる。諸国民戦争。激戦の末ナポレオンフランス軍大敗。年月日:1813年10月16日 – 10月19日 場所:ザクセン王国、ライプツィヒ 結果:連合軍の勝利 損害 フランス軍 19万人中 戦死傷38000人+同盟軍5000人 計43000人死傷 捕虜30000人 諸国民連合軍(プロイセン、ロシア、オーストリア、スウェーデン) 36万人中 戦死傷54000人。
3日間の激戦の末、圧倒的な兵力差の前にフランス軍は敗北した。フランス軍ではポニャトフスキが戦死、4万以上の死傷者を出した。一方、連合軍も5万以上の死傷者を出した。戦闘の結果、ナポレオンのドイツ支配が終わった。連合軍の総司令官は、元フランス軍元帥のジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット(後のスウェーデン王カール14世ヨハン)だった。
1946年 – ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けたリッベントロップ元外相ら10名の被告への刑が執行される。
1981年 – 北炭夕張新炭鉱ガス突出事故。北炭夕張新炭鉱でガス突出・坑内火災事故。死者93人。
1991年 – アメリカ合衆国テキサス州キリーンのレストラン・ルビーズで銃乱射事件が発生。(ルビーズ銃乱射事件) 犯人含む24人死亡。
2020年 – コンフラン=サントノリーヌのテロ事件。2020年10月16日、フランス・イヴリーヌ県のコミューンであるコンフラン=サントノリーヌで、地理歴史科の中学教師サミュエル・パティ(仏: Samuel Paty)が、授業でイスラーム教の預言者ムハンマドの風刺画を生徒に見せたことに対する報復として、イスラーム過激派の男に首を切られて殺害されたテロ事件である。
概要
殺害されたサミュエル・パティ(仏: Samuel Paty)は地理歴史科の中学教師で、事件当日の夕方17時ごろ学校を出たところで首を切り落とされた[1]。犯人はチェチェン出身のロシア人難民アブドゥッラーク・アンゾロフとみられ[2]、事件後警察により射殺された[1]。
このテロ行為は、2015年に起こったシャルリー・エブド紙の編集スタッフに対するテロ事件の加害者の裁判がフランスで行われているときに発生した。その原因と思われていたのは、シャルリー・エブド紙によるムハンマド風刺画だった。2006年にデンマークの風刺画家が描いたその風刺画は、2020年9月1日に同紙より再掲載された際、パキスタンからの報復の呼びかけのきっかけとなる。この呼びかけが、パリ市内にあったシャルリエブド紙のかつての社屋にて起こった襲撃事件につながった。
チャットgpt先生の10月16日のエッセイ
断罪と赦し ― 10月16日に響く人間の声
10月16日。
旧暦では八月二十五日、友引、戊午の日。月齢は二十四。月は欠け、夜空の光もやや薄い。
年の瀬まで残り七十六日。季節は深まり、光は柔らかく、影は長い。
この日をめくると、歴史の頁の上には奇しくも「断罪」の出来事が並ぶ。
1590年、イタリアの貴族カルロ・ジェズアルドは、妻とその愛人を惨殺した。
嫉妬と裏切りの果てに流された血は、彼の生涯を狂気と贖罪の旋律へと変えた。
やがて作曲家となった彼の《ミゼレーレ》は、己の罪を神に懺悔するような音楽である。
罪を裁く者が、やがて自らを裁く側へと転じる——人間の内なる法廷ほど、苛烈なものはない。
1793年、フランス革命の渦中、マリー・アントワネットが断頭台に上った。
「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ。」
それが最期の言葉だったという。
革命の正義が彼女を断罪し、群衆は「共和国万歳!」と叫んだ。
だが時を経て、彼女の遺書を読むとき、人は静かにその人間性の光に気づく。
——無実の罪で死ぬなら、それは恥ではない、と。
彼女の声は、断罪を超えた赦しのように響いている。
1813年、ライプツィヒの戦い。
数十万の兵士が大地を赤く染めた。国家の理想のため、皇帝の野望のため、無数の命が断たれた。
「祖国」や「自由」といった言葉のもとに行われる殺戮。
この日、断罪されたのは個人ではなく、帝国そのものだった。
ナポレオンの時代が終わりを迎え、ヨーロッパの地図は再び書き換えられる。
歴史の断罪は、いつも遅れてやってくる。
そして、1946年。ニュルンベルク裁判。
人類史上初めて、「戦争そのもの」が裁かれた。
十人の死刑囚が絞首台に消えたその朝、人間はようやく自らの悪を見つめる鏡を手に入れた。
正義の名のもとに行われたその裁きもまた、人間の不完全さを映していた。
時代が下って1981年、北海道・夕張の炭鉱事故。
地の底で働く人々の命を、炎とガスが奪った。
この日もまた、命が断たれ、誰かが泣いた。
そこには罪も罰もなく、ただ現実の無情があった。
そして2020年10月16日。
フランスの教師サミュエル・パティが、言葉と思想の自由のために殺された。
首を切られたその悲劇は、もはや「断罪」と呼ぶことすらためらわれる。
暴力は信仰を名乗り、赦しの名を騙る。
けれども、パティの死を通じてなお、彼が信じた「自由に考える力」は生きている。
人を殺すのは思想ではなく、恐怖だ。
恐怖を克服することこそ、最大の赦しであろう。
10月16日という日は、人間が「正義」という刃を振るった日であり、
同時に「赦し」という祈りを口にした日でもある。
ジェズアルドの懺悔、マリー・アントワネットの微笑、
ナポレオンの敗北、ニュルンベルクの裁き、
夕張の沈黙、パティの勇気——。
それらは一つの問いに帰結する。
「私たちは、誰を裁き、誰を赦すのか。」
夜の月齢24。欠けた月が空に残り、光と影が共にある。
まるで人間そのもののように。
断罪と赦し、その間に生きる者の姿が、今日も薄明の中に浮かび上がる。