kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日10月9日  1969読売日本テレビ系総帥正力松太郎氏没、ほか写真wikipediaお歴々左から吉田茂、堤操、正力、堤康二郎

10月9日

20251009木曜日旧暦8月18日先勝(辛亥かのといシンガイ)月齢 17.2

乙巳きのとみ年丙戌ひのえいぬ月辛亥かのとい日 年末まであと83日

吉方位 隠遁日 辛亥かのとい日

https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%889%E6%97%A5

10月9日の出来事

紀元前3009年 – マハーバーラタに描かれた戦い。

1983年 – ビルマ・ラングーンのアウンサン廟で北朝鮮工作員による韓国要人を標的とした爆弾テロ。(ラングーン事件)日付  1983年10月9日 10時25分 (MST)

概要        暗殺未遂事件 攻撃手段    爆破 武器             クレイモア地雷

死亡者    21名 (徐錫俊韓国副首相ほか) 負傷者        47名

霊廟は1983年10月9日に、大韓民国第5代大統領である全斗煥の暗殺を狙って北朝鮮の工作員が仕掛けた爆弾により破壊された[9][10]。爆発は居合わせた人々を直撃し、21人が死亡、46人が負傷した[11]。14人の韓国の閣僚や大統領顧問、ジャーナリストと治安当局者が殺害され、ジャーナリスト3人を含むビルマ国民4人も死亡した[12]。全斗煥大統領は交通渋滞により乗用車が遅れたため、到着する数分前に爆破が発生したことにより無事であった[1]。

1969年 – 正力松太郎[11]、政治家、読売新聞社主(* 1885年)84歳没。従二位。勲一等旭日桐花大綬章 

日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった。その結果、正力の個人コードネームとして「podam」(ロシア語などで「我、通報す」の意)及び「pojacpot-1」が与えられ、組織としての読売新聞社、そして日本テレビ放送網を示すコードネームは「podalton」と付けられ、この二者を通じて日本政界に介入する計画が「Operation Podalton」と呼ばれた。これらの件に関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残ることになった(アメリカ国立公文書 Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53)[41][42]。正力と共に日本のテレビ放送導入に関わった柴田秀利は「pohalt」というコードネームを与えられた。

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紀元前3009年 – マハーバーラタに描かれた戦い。

1983年 – ビルマ・ラングーンのアウンサン廟で北朝鮮工作員による韓国要人を標的とした爆弾テロ。(ラングーン事件)日付  1983年10月9日 10時25分 (MST)

概要        暗殺未遂事件 攻撃手段    爆破 武器             クレイモア地雷

死亡者    21名 (徐錫俊韓国副首相ほか) 負傷者        47名

霊廟は1983年10月9日に、大韓民国第5代大統領である全斗煥の暗殺を狙って北朝鮮の工作員が仕掛けた爆弾により破壊された[9][10]。爆発は居合わせた人々を直撃し、21人が死亡、46人が負傷した[11]。14人の韓国の閣僚や大統領顧問、ジャーナリストと治安当局者が殺害され、ジャーナリスト3人を含むビルマ国民4人も死亡した[12]。全斗煥大統領は交通渋滞により乗用車が遅れたため、到着する数分前に爆破が発生したことにより無事であった[1]。

1969年 – 正力松太郎[11]、政治家、読売新聞社主(* 1885年)84歳没。従二位。勲一等旭日桐花大綬章 

日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった。その結果、正力の個人コードネームとして「podam」(ロシア語などで「我、通報す」の意)及び「pojacpot-1」が与えられ、組織としての読売新聞社、そして日本テレビ放送網を示すコードネームは「podalton」と付けられ、この二者を通じて日本政界に介入する計画が「Operation Podalton」と呼ばれた。これらの件に関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残ることになった(アメリカ国立公文書 Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53)[41][42]。正力と共に日本のテレビ放送導入に関わった柴田秀利は「pohalt」というコードネームを与えられた。

正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年〉4月11日 – 1969年〈昭和44年〉10月9日[3])は、日本の実業家、政治家。読売新聞社社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、讀賣テレビ放送会長、日本武道館会長などを歴任した。

読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。

読売ジャイアンツ(巨人)の初代オーナーとして、戦後の日本のプロ野球の発展に貢献したために「プロ野球の父」と呼ばれる。日本テレビを創立し、テレビの普及や発展に貢献したために「テレビ放送の父」と呼ばれる。また、原子力発電の推進にも貢献したために「原子力の父」とも呼ばれる[4]。

CIAの協力者としての活動

早稲田大学教授の有馬哲夫が、週刊新潮2006年2月16日号で、正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後にアメリカ中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していたことをアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにし、反響を呼んだ。有馬は日テレとCIAの関連年表も作成しており[40]、その中でアメリカ対日協議会の面々を登場させ、日テレとの密接な関係を抉り出している。

米国中央情報局は、旧ソ連との冷戦体制のなか、日本に原子力を輸出するために‘KMCASHIR’という作戦名の心理戦を繰り広げ、日本国民の原子力に対する恐怖心を取り除くよう、読売新聞率いる正力のメディア力を利用した[23]。アメリカ政府はCIA諜報部員ダニエル・スタンレー・ワトソン(Daniel Stanley Watson, のちに服部智恵子の娘・繁子と結婚し、東南アジア、メキシコでスパイ任務にあたった)を日本へ派遣し、米国のプロパガンダ「平和のための原子力」を大衆に浸透させるため、正力と親しい柴田秀利と接触した[22]。

チャットgpt先生の10月9日のエッセイ


10月9日をめぐる記憶

暦の上で10月9日は、季節の移ろいが深まる時期にあたる。月齢17、名月を過ぎた夜空には少しずつ欠けていく月が浮かび、年末までもうわずかと気づかされる日でもある。だが歴史の上では、この日は幾つもの重い記憶を背負っている。

1983年10月9日、ビルマ(現ミャンマー)のラングーンにあるアウンサン廟が爆発に揺れた。北朝鮮工作員が仕掛けた爆弾によるテロは、大韓民国の全斗煥大統領を狙ったものだった。爆発は彼の到着直前に起こり、大統領は難を逃れたが、韓国の閣僚や記者、警備当局者、そして現地市民を含む21名が命を落とした。爆破に使われたのは軍事用のクレイモア地雷――冷戦下の東アジアにおける対立と代理戦争の影が、ビルマという第三国の地で突如として可視化された事件だった。犠牲者の数や顔ぶれの重さは、「未遂」という言葉では片付けられない。

一方で、1969年の同じ日、日本では一人の巨星が没した。正力松太郎――「読売中興の祖」と呼ばれ、戦後のプロ野球を築き、テレビ放送を広め、「テレビの父」「プロ野球の父」、さらには「原子力の父」とも称された人物である。その多面性は単なる称号に収まらない。戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監されたのち不起訴となり、復活後はCIAと密接に結びつき、日本の世論形成とメディアの方向性に大きな影響を与えたことが後年明らかになった。「Operation Podalton」と呼ばれる工作の一部として、読売新聞や日本テレビが冷戦構造に組み込まれていた事実は、自由なメディアの在り方について今も問いを投げかけ続けている。

こうして見ると、10月9日は「情報」と「暴力」の両極が歴史に刻まれた日でもある。ラングーンの爆破は、国家間の対立が他国の地に血を流させる暴力の連鎖を示し、正力の生涯は、情報を操ることが国の進路をも左右する冷戦の姿を映し出す。力の源泉が銃や爆弾にあるか、あるいは新聞やテレビにあるか。その違いはあれど、10月9日に重なる二つの記憶は、同じ「冷戦時代の影」に属している。

暦はただ流れるが、日付は忘却を許さない。10月9日を思い出すことは、犠牲になった人々を悼むと同時に、情報と権力の関係を見直し、暴力の論理がもたらす悲劇を反芻する営みでもある。月が欠けゆく夜空の下、過ぎ去った日々をただ過去として置き去りにするのではなく、いまを生きる私たちが引き継ぐべき「問い」として記憶しておきたい。