kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日10月4日 1853クリミア戦争開始、ほか写真wikipediaセヴァストーポリ要塞

10月4日

20251004土曜日旧暦8月13日友引(丙午ひのえうまヘイゴ)月齢 12.2

乙巳きのとみ年乙酉きのととり月丙午ひのえうま日  年末まであと88日

吉方位 隠遁日 丙午日ひのえうま

https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%884%E6%97%A5

10月4日の出来事

663年(天智天皇2年8月27日) – 白村江の戦いが始まる。

年月日:(旧暦)天智天皇2年8月27日 – 同年8月28日

(ユリウス暦)663年10月4日 – 10月5日

場所:朝鮮半島、白村江(現在の錦江近郊)

結果:唐・新羅連合軍の大勝[要出典]、朝鮮半島における倭の勢力圏の完全消滅[要出典]

損害 唐・新羅連合軍 唐軍1万3千人新羅7千人合計2万程度 戦死傷不明 百済・日本連合軍 日本2万7千人+百済数千人合計3万人中 戦死船舶400 兵士10000人。

1363年(至正23年/大定3年8月26日) – 鄱陽湖の戦いが終結。朱元璋が陳友諒を破る。

戦争:鄱陽湖の戦い

年月日:1363年7月

場所:鄱陽湖

結果:朱元璋軍の勝利、陳友諒の戦死

損害:朱元璋 二十万人中 7千人余りの兵を失う     陳友諒軍 六十万人中 斬首された者2000余、溺死・焼死した者は数え切れずという壊滅的敗北軍 

1777年 – アメリカ独立戦争: ジャーマンタウンの戦い

年月日:1777年10月4日

場所:ペンシルベニア、ジャーマンタウン

結果:イギリス軍の勝利

損害 大陸軍 1万1千7百人中 戦死傷1000人程度 イギリス軍 8千人中 戦死傷 600人。

1853年 – クリミア戦争: オスマン帝国がロシアに宣戦布告。

戦争:クリミア戦争[1]

年月日:1853年10月 - 1856年3月[1]

場所:主にクリミア半島[1]

結果:連合軍の勝利、ロシアの敗北[1]。

損害 ロシア軍 侵攻軍8万人+陽5万人=13万人中 130000人全滅 オスマントルコ他連合軍 5万6千人中 70000人戦死(民間人含む)

2001年 – シベリア航空機撃墜事件。シベリア航空機がウクライナ防空軍のミサイルの誤射により墜落。78人全員死亡。

2003年 – イスラエル・ハイファのレストランで自爆テロ、21人が死亡。(en:Maxim restaurant suicide bombing)

2005年 – ハリケーン・スタンがメキシコ南部ベラクルス州に上陸。グアテマラを中心に死者千人以上。

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663年(天智天皇2年8月27日) – 白村江の戦いが始まる。

年月日:(旧暦)天智天皇2年8月27日 – 同年8月28日

(ユリウス暦)663年10月4日 – 10月5日

場所:朝鮮半島、白村江(現在の錦江近郊)

結果:唐・新羅連合軍の大勝[要出典]、朝鮮半島における倭の勢力圏の完全消滅[要出典]

損害 唐・新羅連合軍 唐軍1万3千人新羅7千人合計2万程度 戦死傷不明 百済・日本連合軍 日本2万7千人+百済数千人合計3万人中 戦死船舶400 兵士10000人。

中央集権体制への移行と国号の変更

671年に天智天皇が急死[35]すると、その後、天智天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立し、翌672年に古代最大の内戦である壬申の乱が起こる。これに勝利した大海人皇子は、天武天皇(生年不詳〜686年)として即位した。

皇位に就いた天武天皇は専制的な統治体制を備えた新たな国家の建設に努めた。遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝するようになった。また倭国から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。これは強力な武力を持つ唐に対して、共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。しかし、天武天皇没(686年)後は両国の関係が次第に悪化した。

天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、大陸に倣った中央集権国家の建設はひとまず完了した。「日本」の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によって遣唐使が再開され、粟田真人を派遣して唐との国交を回復している。

百済遺民の四散

天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功により、その縁者である鬼室集斯は小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)。

百済王の一族、豊璋王の弟の善光(または禅広)は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられている。

史料によれば、朝鮮半島に残った百済人は新羅及び渤海や靺鞨へ四散し、百済の氏族は消滅したとされる[36]。

1363年(至正23年/大定3年8月26日) – 鄱陽湖の戦いが終結。朱元璋が陳友諒を破る。

戦争:鄱陽湖の戦い

年月日:1363年7月

場所:鄱陽湖

結果:朱元璋軍の勝利、陳友諒の戦死

損害:朱元璋 二十万人中 7千人余りの兵を失う     陳友諒軍 六十万人中 斬首された者2000余、溺死・焼死した者は数え切れずという壊滅的敗北軍 

鄱陽湖の戦い(はようこのたたかい)は、1363年の中国で起こった朱元璋と陳友諒の間の湖上戦。この戦いで陳友諒は戦死し、朱元璋は西方の憂いを無くした。

『三国演義』の著者・羅貫中は朱元璋・陳友諒と元末の覇を争った張士誠に仕えたとされ、朱元璋が陳友諒を打ち破った鄱陽湖の戦いを元に赤壁の戦いを書いたという説がある。

1777年 – アメリカ独立戦争: ジャーマンタウンの戦い

年月日:1777年10月4日

場所:ペンシルベニア、ジャーマンタウン

結果:イギリス軍の勝利

損害 大陸軍 1万1千7百人中 戦死傷1000人程度 イギリス軍 8千人中 戦死傷 600人。

ジャーマンタウンの戦い(ジャーマンタウンのたたかい、英:The Battle of Germantown)は、アメリカ独立戦争中の1777年10月4日にペンシルベニアのジャーマンタウンで、大陸軍とイギリス軍の間で戦われた戦闘である。

1777年9月26日にイギリス軍のチャールズ・コーンウォリスにフィラデルフィアを占領された大陸軍は、ジョージ・ワシントン将軍の指揮でフィラデルフィアの北5マイル (8 km) にあるジャーマンタウンに駐屯していたウィリアム・ハウ将軍の9,000名のイギリス軍本隊に攻撃を仕掛けた。攻撃のタイミングを合わせ損ね、また装備も不十分であった大陸軍は攻撃に失敗し、イギリス軍の追及を逃れてホワイトマーシュに撤退した。

この戦いの3日後、10月7日に北方のサラトガでは大陸軍が勝利し、その後10月17日のイギリス北方方面軍の降伏となった(サラトガ方面作戦)。ワシントンがハウ軍をペンシルベニアに釘付けにしたために、イギリス軍の連携を妨害できたことは大陸軍の戦略的な勝利という考え方もできる。

1853年 – クリミア戦争: オスマン帝国がロシアに宣戦布告。

戦争:クリミア戦争[1]

年月日:1853年10月 - 1856年3月[1]

場所:主にクリミア半島[1]

結果:連合軍の勝利、ロシアの敗北[1]。

損害 ロシア軍 侵攻軍8万人+陽5万人=13万人中 130000人全滅 オスマントルコ他連合軍 5万6千人中 70000人戦死(民間人含む)

クリミア戦争(くりみあせんそう、英語: Crimean War)は、1853年から1856年にかけ、当時南下政策を進めていたロシア帝国と、オスマン帝国・フランス・イギリス・サルデーニャの連合軍との間で行われた戦争である。その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまでおよんだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。結果として連合軍がロシア帝国に勝利し、パリ条約が締結された[1]。

この戦争の敗北により後進性が露呈したロシアは抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失う一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンがヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。また北欧の政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至った。この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まり、その影響は中国や日本にまで波及した。

2001年 – シベリア航空機撃墜事件。シベリア航空機がウクライナ防空軍のミサイルの誤射により墜落。78人全員死亡。

2003年 – イスラエル・ハイファのレストランで自爆テロ、21人が死亡。(en:Maxim restaurant suicide bombing)

2005年 – ハリケーン・スタンがメキシコ南部ベラクルス州に上陸。グアテマラを中心に死者千人以上。

チャットgpt先生の10月4日のエッセイ


10月4日という日をめぐって

10月4日という日付を辿ると、人類史に刻まれた大きな戦いと災厄の記録に出会う。白村江の戦い、鄱陽湖の戦い、ジャーマンタウンの戦い、そしてクリミア戦争の勃発。時代も地域も異なるが、この日は繰り返し「武力衝突」と「流血」を映し出してきた日でもある。

663年、朝鮮半島の白村江では倭国と百済の連合軍が唐・新羅の大軍に敗北し、倭国は大陸への拠点を完全に失った。敗北ののち、国内では中央集権体制の確立が急がれ、国号は「倭」から「日本」へと改められる。敗戦は衰退の象徴であると同時に、新しい国家の誕生の契機ともなった。戦いが国の形を変えた一例である。

14世紀の中国では、鄱陽湖において朱元璋と陳友諒が雌雄を決した。数十万の兵が湖上で激突し、陳友諒は戦死する。ここから明の礎が築かれ、やがて中国の歴史は大きな転換を迎えた。この戦いはまた『三国演義』の赤壁の戦いの着想源となったとも言われ、歴史と文学のあわいに影を落としている。

1777年のジャーマンタウンでは、独立を求める大陸軍がイギリス軍に挑む。結果は敗北であったが、サラトガの勝利へとつながる布石となり、アメリカ独立の道程を支える。失敗の中に未来を拓く種が潜んでいたのだ。

そして近代、1853年のクリミア戦争は、列強の均衡を揺さぶり、ロシアを改革へ追い込み、イギリスとフランスの国際的影響力を強めた。戦場はクリミア半島だけでなく、ヨーロッパ全体の政治地図を塗り替えていった。

近現代に至っても、2001年のシベリア航空機撃墜事件や、2003年イスラエルの自爆テロ、2005年のハリケーン・スタンによる大災害など、10月4日は人の命が奪われる悲劇の記録を残している。

暦を眺めれば、2025年10月4日は旧暦の8月13日、月齢は12.2。友引の日であり、丙午の日でもある。人々は方角や日柄を気にかけ、日常の指針を暦に見いだしてきた。けれど、歴史の10月4日を振り返ると、暦の吉凶を越えて、人間の営みが生み出す「戦い」と「変化」の連鎖を痛感せざるを得ない。

10月4日は、敗北から立ち上がる力、失敗の中に潜む可能性、そして歴史が繰り返し問いかけてくる「人はなぜ戦うのか」という普遍の問題を私たちに思い起こさせる日である。