kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日10月3日   前52アレシアの戦い終結、ほか写真wikipediaカエサルに屈するウェルキンゲトリクス

10月3日

20251003金曜日旧暦8月12日先勝(乙巳きのとみイッシ)月齢 11.2

乙巳きのとみ年乙酉きのととり月乙巳きのとみ日 年末まであと89日

吉方位 隠遁日 乙巳きのとみ日 北東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%883%E6%97%A5

10月3日の出来事

紀元前52年 – アレシアの戦いが終結。ガリア戦争が実質的に終結し、ガリアがローマ帝国の版図に組み込まれる。年月日:紀元前52年8月 – 10月場所:アレシア  損害 ガリア側 200000人戦死傷 ローマ側 7800人戦死傷。

1569年 – ユグノー戦争: モンコントゥールの戦い(Bataille de Moncontour)。損害 ユグノー軍 2万人中 6000人戦死傷 カトリック軍 2万7千人中 600人戦死傷。カトリック軍の勝利。

1574年 – 八十年戦争: ライデン包囲戦(Siege of Leiden)が終了。日付                 1573年10月 – 1574年10月3日場所 ライデン(現在のオランダ)) オランダのユグノー反乱軍を スペインが鎮圧しようとして1年包囲。しかし、オランダユグノー側の勝利で終わる。

損害 オランダユグノー軍 戦死傷500人 スペイン軍 戦死傷2000人。

1914年 – 北海道夕張炭鉱でガス爆発。死者16人[1]。

1932年 – 満州開拓武装移民団第一陣416人が日本を出発。

1936年 – 北海道で暴風雨。渡島半島では死者17人以上、家屋の流失・破損、港湾施設の大破、漁船の流失など被害甚大[2]。

1978年 – フィンランド空軍機墜落事故(1978 Finnish Air Force DC-3 crash)死亡15人。

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紀元前52年 – アレシアの戦いが終結。ガリア戦争が実質的に終結し、ガリアがローマ帝国の版図に組み込まれる。年月日:紀元前52年8月 – 10月場所:アレシア  損害 ガリア側 200000人戦死傷 ローマ側 7800人戦死傷。

アレシアの戦い(アレシアのたたかい、ラテン語: Alesiae pugna)あるいはアレシア包囲戦(アレシアほういせん、仏: Siège d’Alésia)は、紀元前52年の8月から10月にかけてガリア総督ガイウス・ユリウス・カエサル率いるローマ軍と、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクス率いるガリア人連合軍との間で行われた戦闘である。古代ローマにおける包囲戦の中では最も大規模なものの1つであった。

この戦いの結果、紀元前58年から続いたガリア戦争は実質的に終結し、ガリアはローマの属州となってその版図に組み込まれることとなった。

1569年 – ユグノー戦争モンコントゥールの戦い(Bataille de Moncontour)。損害 ユグノー軍 2万人中 6000人戦死傷 カトリック軍 2万7千人中 600人戦死傷。カトリック軍の勝利。

ユグノー戦争

ユグノー戦争(ユグノーせんそう、フランス語:Guerres de religion, 1562年 – 1598年)は、フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8回40年近くにわたり戦った内戦である。

モンコンター(モンコントゥール)の戦い

1569年10月3日、アンジュー公爵の指揮下にあるチャールズ1世のカトリック軍は、ポワトゥーのモンコントゥールでガスパール・ド・コリニー提督が指揮するユグノー軍を破った。この戦いは第三次宗教戦争中に起こりました。

1574年 – 八十年戦争: ライデン包囲戦(Siege of Leiden)が終了。日付                 1573年10月 – 1574年10月3日場所 ライデン(現在のオランダ)) オランダのユグノー反乱軍を スペインが鎮圧しようとして1年包囲。しかし、オランダユグノー側の勝利で終わる。

損害 オランダユグノー軍 戦死傷500人 スペイン軍 戦死傷2000人。

八十年戦争

八十年戦争(はちじゅうねんせんそう、蘭: Tachtigjarige Oorlog)は、1566年/1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州がスペインに対して起こした反乱である。これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもある[注釈 1]。この反乱の結果として、ネーデルラント17州の北部7州はネーデルラント連邦共和国として独立することになった。北部7州は、1581年にスペイン国王フェリペ2世の統治権を否認し、1648年のヴェストファーレン条約によって独立を承認された。

ライデン包囲戦

ライデン包囲戦は、80年戦争と1573年と1574年の英西戦争中に発生し、フランシスコ・デ・バルディーズ率いるスペイン人がオランダの南ホラント州ライデンの反乱都市を占領しようと試みました。包囲戦は失敗に終わり、1574年10月に都市は首尾よく救出された。[1]

1914年 – 北海道夕張炭鉱でガス爆発。死者16人[1]。

1932年 – 満州開拓武装移民団第一陣416人が日本を出発。

満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)は、1931年(昭和6年)の満洲事変以降、1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦までの期間に日本政府の国策によって推進された、満洲、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称である。1932年(昭和7年)から大陸政策の要として、また昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行され、満洲国建国直後から1945年の敗戦までの14年間に日本各地から満洲・内蒙に開拓民として、27万人が移住した。満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)とも言われる[1][2]。

ソ連参戦と終焉

太平洋戦争末期の戦局の悪化により、開拓団からの召集も増えるようになり、特に1945年7月の「根こそぎ動員」では、約4万7000人が召集された[3][9]。同年8月9日にソ連軍が満洲に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡した[3]。ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開拓団員の実数は22万3000人、その大半が老人、女性、子供であった[10]。男手を欠いた開拓移民は逃避行に向かい、その過程と難民生活で約8万人が死亡した[3]。主に収容所における伝染病感染を含む病死、戦闘、さらには移民用地を強制的に取り上げられ生活の基盤を喪っていた地元民からの襲撃、前途を悲観しての集団自決などが理由である[3]。敗戦時に旧満洲にいた日本人は約155万人といわれるが、その死者20万人の4割を開拓団員が占める[6]。

自決や殺害の危機を免れ辛うじて開拓地から都市に辿りついた人々は、麻袋の底をくりぬいて身に纏う避難民の姿もあった[10]。運よく貨車を乗り継いで、長春や瀋陽にまで辿り着いた人々もいたが、収容所の床は剥ぎ取られ、窓ガラスは欠け落ち、吹雪の舞い込む中で飢えと発疹チフスの猛威で死者が続出した[10]。孤児や婦人がわずかな食料と金銭で中国人に買われていった[10]。満洲に取り残された日本人の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち上述のように8万人を開拓団員が占める[11]。満洲での民間人犠牲者の数は、東京大空襲や広島への原爆投下、沖縄戦を凌ぐ[11]。これほど犠牲者を出した敗戦時の日本軍の満蒙政策とその放棄であったが、大江志乃夫によれば、関東軍上級将校の自決者の中で満蒙居留民に詫びる遺書をしたためたのは上村幹男ただ一人であったという[12]。

内地に生還した元開拓移民も、引き揚げ後も生活苦にあえぎ、多くが国内開拓地に入植したが、南アメリカへの海外移民になった者もいた[13]。

前記の通り、中国人に買われた孤児や婦人が約1万人いたため、中国残留日本人問題となった[13]。この帰還は、1972年(昭和47年)の日中国交正常化から21世紀まで続く現代的な問題である[13]。

開拓団員と義勇隊員併せて3万7000人の移民を送り出した長野県[14]内に満蒙開拓平和記念館(同県下伊那郡阿智村)がある[6]。同記念館は、2014年に、開拓団の生活やソ連軍侵攻後の逃避行についての聞き取り調査する活動を、中国人目撃者から聞き取る活動を行った[6]。黒竜江省方正県大羅密村の最年長男性によると、ソ連国境近くにいた開拓団民が同村まで徒歩で逃れてきたが「開拓団民はみなぼろを着て、女性は丸刈りだった。生活は苦しく、中国人に嫁いで子供を産み、何年もしてやっと帰国できた」などの体験談などを得ている[6]。

1936年 – 北海道で暴風雨。渡島半島では死者17人以上、家屋の流失・破損、港湾施設の大破、漁船の流失など被害甚大[2]。

1978年 – フィンランド空軍機墜落事故(1978 Finnish Air Force DC-3 crash)死亡15人。

チャットgpt先生の10月3日のエッセイ


10月3日という日をめぐって

10月3日という一日は、ただの暦の一日でありながら、歴史の層を幾重にも重ねている。
2025年の今日、旧暦では8月12日、先勝、乙巳の日。暦注によれば吉方は北東、大吉とある。しかし「吉凶」を示す暦の言葉の背後には、私たち人間が生き、戦い、苦しみ、そして希望を繋いできた歴史が広がっている。

紀元前52年のこの日、アレシアの戦いが終結した。カエサル率いるローマ軍がガリアを制し、ガリア戦争は幕を閉じる。20万もの戦死傷者を出したガリア軍に比して、ローマ軍の損害は7800。数字の大きさは、人間の命の軽重がいかに時代や立場によって異なっていたかを物語る。敗北した側の悲嘆と怒り、そして未来を奪われた人々の声は、史書には残りにくい。けれども、その「沈黙」が今日の私たちに問いを投げかける。

さらに1569年、モンコントゥールの戦い。宗教という絶対的な価値観をめぐり、同じ国の人々が互いに剣を交えた。ユグノー戦争に象徴されるように、信じるものの違いが人を殺し合わせる悲劇は、16世紀フランスにとどまらず現代にも通じる。

そして1574年のライデン包囲戦。1年に及ぶ包囲を耐え抜き、オランダの反乱軍はついに勝利を収めた。この勝利はやがてネーデルラントの独立へとつながり、歴史の流れを変える。極限の飢餓と死を経験しながらも人々が守ろうとしたのは、土地と誇りと自由だった。

近代に目を移せば、1914年の夕張炭鉱爆発、1932年の満蒙開拓団の出発、1936年の北海道の暴風雨、1978年のフィンランド空軍機墜落。戦争や国家政策によって動かされた人々の運命、自然災害がもたらした不可避の悲劇、そして偶発的な事故。歴史的大事件だけでなく、名もなき人々の苦しみや喪失もまた、この日に刻まれている。

年末まであと89日という今日。世界のあちこちで、人々は新しい日常を生きている。過去の戦いや悲劇を知ることは、単に「昔こんなことがあった」と記憶するだけではなく、「いま私たちは何を選び、どう生きるか」という指針を見つめ直すことにつながる。

10月3日。その重なり合う歴史の声を聴きながら、今日をどう刻むか。日常の一歩をどのように歩むか。それは未来の誰かにとっての「歴史」となるのだろう。