9月30日
20250930火曜日旧暦8月9日仏滅(壬寅みずのえとらジンイン)月齢 8.2
乙巳きのとみ年乙酉きのととり月壬寅みずのえとら日 年末まであと92日
吉方位 隠遁日 壬寅みずのえとら日
https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8830%E6%97%A5
9月30日の出来事
489年 – ローマ・ゲルマン戦争(英語版): ヴェローナの戦い。
ヴェローナの戦い
戦争:ローマ・ゲルマン戦争(英語版)
年月日:489年9月30日
場所:ヴェローナ(現イタリア領)
結果:東ゴートの勝利
損害:西ゴート軍 2万 東ゴート軍 2万 の激突 詳細不明
1551年(天文20年9月1日) – 大寧寺の変: 大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により自害させられる。六年後に大内氏は滅亡。
1571年(元亀2年9月12日) – 織田信長が延暦寺を焼き討ち[1]。詳細不明だが1500人から4000人の関係者が殺されたとされる。
1744年 – オーストリア継承戦争: マドンナ・デル・オルモの戦い。オーストリア継承をめぐって スペイン+フランス軍と サルディニャ軍が争う。スペイン+フランスの勝利だが大勢に影響薄い。損害 スペインフランス連合 2万6千人中 死者27000人。 サルディニャ軍 2万5千人中 死者4000人。
1888年 – 切り裂きジャックが第3・第4の殺人。
1917年 – 大正6年の高潮災害。台風通過と満潮の時刻が重なり、東京湾一帯の住宅街が水没。東京府の溺死者500人以上。
1999年 – 東海村JCO臨界事故発生。
死者 2名 負傷者 1名 667名(被曝者)
2009年 – スマトラ島沖地震が発生。少なくとも1100人が死亡。
2015年 – シリア内戦にロシアが軍事介入(Russian military intervention in the Syrian civil war)。シリア内戦本体2011以後45万人死傷 ロシア介入後は1万人以上死傷。
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489年 – ローマ・ゲルマン戦争(英語版): ヴェローナの戦い。
ヴェローナの戦い
戦争:ローマ・ゲルマン戦争(英語版)
年月日:489年9月30日
場所:ヴェローナ(現イタリア領)
結果:東ゴートの勝利
損害:西ゴート軍 2万 東ゴート軍 2万 の激突 詳細不明
ヴェローナの戦い(ヴェローナのたたかい、英語: Battle of Verona)は489年9月30日、ヴェローナで行われた戦闘。
東ゴート族の王テオドリックが自ら軍を率い、イタリア領主オドアケルに勝利した。オドアケルはラヴェンナへの逃亡を余儀なくされ、テオドリックはそのまま進軍してパヴィーアとミラノを占領した[1]後、ラヴェンナ包囲戦にとりかかった。
1551年(天文20年9月1日) – 大寧寺の変: 大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により自害させられる。六年後に大内氏は滅亡。
大寧寺の変(たいねいじのへん)は、天文20年8月28日 – 9月1日(1551年9月28日 – 9月30日)にかけて起こった、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により自害させられた政変である。この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。
陶晴賢は4年後毛利に敗れ 35歳没。
1571年(元亀2年9月12日) – 織田信長が延暦寺を焼き討ち[1]。詳細不明だが1500人から4000人の関係者が殺されたとされる。
比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)は、元亀2年9月12日(1571年9月30日)に近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の比叡山延暦寺を、織田信長の軍が攻めた戦い。この戦いで信長軍は延暦寺の伽藍を焼き払い、僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われている。一方、近年の発掘調査から、施設の多くはこれ以前に廃絶していた可能性が指摘されている
肯定的評価
1570年(元亀元年)の『多聞院日記』に「(比叡山の僧は)修学を怠り、一山相果てるような有様であった」と記されているように、焼き討ち当時の比叡山は堕落していたことがしばしば指摘されている[5]。『信長公記』では「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」としている[注釈 1]。これを受けて、後世の比叡山側への同情も薄く、小瀬甫庵も『太閤記』で「山門を亡ぼす者は山門なり」と批判している。儒学者である新井白石が『読史余論』で「その事は残忍なりといえども、永く叡僧(比叡山の僧)の兇悪を除けり、是亦天下に功有事の一つ成べし」として以降、比叡山焼き討ちは肯定的に評価されてきた。現代の歴史家でも信長による古代的権威の克服・宗教的束縛からの解放を目的とした合理的な行動として肯定的に評価する説や[注釈 2]、天下に君臨し、時には天皇もしのぐ権力を振りかざし傍若無人の振る舞い、仏法を説く事を忘れた、うつつを抜かす教団に織田信長が天に代わって鉄鎚を下す[11]、という側面もあったのではないかという説がある。
1744年 – オーストリア継承戦争: マドンナ・デル・オルモの戦い。オーストリア継承をめぐって スペイン+フランス軍と サルディニャ軍が争う。スペイン+フランスの勝利だが大勢に影響薄い。損害 スペインフランス連合 2万6千人中 死者27000人。 サルディニャ軍 2万5千人中 死者4000人。
1888年 – 切り裂きジャックが第3・第4の殺人。
1917年 – 大正6年の高潮災害。台風通過と満潮の時刻が重なり、東京湾一帯の住宅街が水没。東京府の溺死者500人以上。
1999年 – 東海村JCO臨界事故発生。
死者 2名 負傷者 1名 667名(被曝者)
東海村JCO臨界事故(とうかいむらジェー・シー・オーりんかいじこ)は、1999年9月30日、茨城県那珂郡東海村にある株式会社ジェー・シー・オー(住友金属鉱山の子会社。以下「JCO」)の核燃料加工施設で発生した原子力事故(臨界事故)である。日本国内で初めて、事故被曝による死亡者を出した。
2009年 – スマトラ島沖地震が発生。少なくとも1100人が死亡。
2015年 – シリア内戦にロシアが軍事介入(Russian military intervention in the Syrian civil war)。シリア内戦本体2011以後45万人死傷 ロシア介入後は1万人以上死傷。
シリア内戦(シリアないせん、アラビア語: ٱلْحَرْبُ ٱلْأَهْلِيَّةُ ٱلسُّورِيَّةُ)は、シリアで起きたアラブの春から続く、シリア政府軍とシリアの反体制派及び外国勢力を含むそれらの同盟組織などによる多面的な内戦である。この内戦は2011年から現在まで続いており、1960年以降の世界史において最も難民が発生した戦争と言われている[15]。
ロシアのシリア内戦介入
2015年9月30日、バッシャール・アル・アサド政権がシリア内戦におけるシリアの反政府勢力と「イスラム国」(IS)との戦いにおける軍事支援の要請を受けて、ロシアはシリアへの軍事介入を開始した。[155][156]この介入は、自由シリア軍の反政府勢力の拠点、革命司令部評議会の反政府連合、征服軍連合のスンニ派過激派グループへの攻撃に焦点を当てた、シリア全土での大規模な空爆によって開始された。
作戦開始から数週間後、ロシア当局は、ウラジーミル・プーチンの主要な目的が、ダマスカスの同盟国バース党政権を維持し、アメリカが支援する自由シリア民兵から領土を奪取すること、そしてアメリカの影響力を後退させるというより広範な地政学的目標を明らかにした。【167】2015年10月のテレビインタビューで、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、軍事作戦は事前に徹底的に準備されていたと述べた。彼は、シリアにおけるロシアの目標を「シリアの正当な権力を安定させ、政治的妥協のための条件を作り出す」と定義した。(168)2016年だけでも、ロシアの空爆の80%以上が「イスラム国」と戦う反政府民兵を標的にしていた。
シリア人権ネットワーク(SNHR)と人権侵害記録センター(VDC)は、2015年9月の発足から2016年2月末までの間に、ロシアの空爆で少なくとも2,000人の民間人が死亡したと述べた。SNHRの報告によると、ロシアの攻勢による民間人の死者数は、ロシアの作戦が始まって以来、「イスラム国」とシリア軍による死者数を上回っている。[173][174]イギリスに本拠を置く親反政府派[175][176]、シリア人権監視団(SOHR)は、わずかに低い推定値を発表した:少なくとも1,700人の民間人、そのうち200人以上の子供。(173)使用された兵器には、無誘導爆弾、クラスター爆弾、白リン弾に似た焼夷弾、サーモバリック兵器が含まれていた。[177][178][179]2018年4月末までに、SOHRは、ロシアの爆撃により、4,749人の反政府戦闘員と4,893人のIS戦闘員を除いて、7,700人以上の民間人(約4分の1が子供)を直接殺害したことを記録した。【180】ロシアの作戦は、学校や民間インフラを標的としたシリア全土での無差別空爆や、アレッポのような都市への絨毯爆撃で、多数の国際機関から批判されている。
チャットgpt先生の9月30日のエッセイ
9月30日という日をめぐって
暦の上で9月30日は、1年の終わりに向けて残りわずか92日となる折り返し地点に近い日である。秋分を過ぎ、日ごとに夜が長くなるこの時期は、自然の流れに従って人の心も少し内省的になる。そんな9月30日は、歴史を振り返ると戦乱と変動、そして人間の生きざまが濃く刻まれている。
489年、ヴェローナの戦い。東ゴート王テオドリックがオドアケルに勝利し、のちにイタリア全土を支配するきっかけとなった戦いである。古代の戦場はしばしば転換点となるが、この戦いもまた「覇者の交代」を象徴する場であった。歴史の車輪は、時に剣戟の響きとともに大きく方向を変える。
日本に目を向けると、1551年の大寧寺の変、1571年の延暦寺焼き討ちがこの日に重なる。大内義隆の滅亡は西国の勢力地図を塗り替え、織田信長の比叡山攻撃は宗教と武力の対立を象徴する事件として記憶されている。信長の行為は残虐と映る一方で、堕落した宗門に鉄槌を下す「合理主義の先駆」と捉える見方もある。歴史はしばしば、光と影の評価を併せ持つ。
時代が下ると、1744年にはヨーロッパの戦乱、1888年には切り裂きジャックの犯行、1917年には東京湾の高潮災害、1999年には東海村JCO臨界事故が起きた。とりわけJCO事故は、日本にとって「科学技術と安全の境界線」を突きつけた悲劇であった。原子力という現代の「火」を扱うことの危うさを痛烈に示している。
さらに2015年、この日ロシアがシリア内戦に軍事介入した。遠い中東の出来事のように見えるが、グローバル化の時代には戦火の影響が難民の流入や国際秩序の変動を通じて私たちの生活にも及ぶ。9月30日は、戦いがまだ人類にとって終わっていないことを思い知らせる日でもある。
こうしてみると、9月30日は歴史の「臨界点」にあたるかのように、数々の分岐や破局が重なっている。だが暦をめくる我々にとっては、ただの一日でもある。稲が実り、秋風が吹き、夕暮れに虫の声が響く日常の9月30日。壮大な歴史の陰に、変わらぬ季節の営みがある。
過去を刻むのは戦争や事件ばかりではない。むしろその背後に、無名の人々の暮らしが連綿と続いている。9月30日を振り返ることは、歴史の劇的な瞬間に思いを馳せると同時に、「今日という日をどう生きるか」を改めて問いかけてくるのである。