kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月28日 1994エストニアのフェリー、バルト海で沈没、ほか写真wikipedia転覆の救命ボート

9月28日

20250928日曜日旧暦8月7日友引(庚子かのえねコウシ)月齢 6.2

乙巳きのとみ年乙酉きのととり月庚子かのえね日  年末まであと94日

吉方位 隠遁日 庚子かのえね日 東 南東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8828%E6%97%A5

9月28日ですね

9月28日の出来事

紀元前48年 – ローマの執政官ポンペイウスがエジプト軍の刺客により暗殺される。

351年 – ローマ内戦 (350年-353年): ムルサ・マジョールの戦い(Battle of Mursa Major)。蛮族侵攻に悩むコンスタンティヌス2世の東ローマ軍団と簒奪者マグナティウス西ローマ軍の戦い。コンスタンティヌスにとってピュロス的(犠牲の多い)な戦いであった。損害 コンスタンティヌス軍 全軍規模不明だが40%とされる24000人の戦死 マグナティウス 6万人中 30000人の戦死損失60%とされる。

1066年 – ノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム1世)がイングランドに侵入。ノルマン・コンクエストが始まる。ウィリアム(後の「征服王」)がイングランドを征服し国王に就任した。損害犠牲総数は不明だが 数千から数万人規模とされる。

1538年 – プレヴェザの海戦が行われる。ヨーロッパ連合艦隊とオスマン帝国艦隊の艦隊決戦。オスマン帝国が勝利し、オスマン帝国が一層の覇権を確立する。損害総犠牲数は不明だが、数千人が戦死である。

1708年 – 大北方戦争: レスナーヤの戦い。スウェーデンとロシアの戦い。ロシアが初めて勝利する。損害 スウェーデン軍 1万6千人中 6000人戦死。 ロシア軍 1万2千人中 3000人強の戦死傷。

1781年 – アメリカ独立戦争: アメリカ・フランス軍がヨークタウンのイギリス軍を包囲。ヨークタウンの戦いが始まる。アメリカ独立戦争を実質的に終結させた決戦である。損害 フランス、アメリカ連合軍 2万人中 300人の戦死傷 グレートブリテイン軍 7千5百人中 戦死傷500人+7000人の捕虜。

1902年 – 足尾台風が関東・東北南部を通過。小田原で小田原大海嘯が発生するなどし、全国で死者300人以上。

1918年 – 第一次世界大戦: 第五次イーペル会戦(Fifth Battle of Ypres)が始まる。ネルギーフランドル地方の西部戦線の戦い。損害 連合軍 10000人弱 ドイツ軍 10000人。戦線膠着。

1992年 – パキスタン国際航空268便墜落事故。死亡167人(全員)。

1994年 – エストニアのフェリー「エストニア号」がバルト海で沈没。死者852名。

2012年 – シーター・エア601便墜落事故。ネパールの首都カトマンズ郊外でドルニエ 228型双発旅客機が墜落、乗客・乗員19人全員が死亡[7]。

2018年 – インドネシアでマグニチュード7.5のスラウェシ島地震が発生する。4,340人が死亡、10,679人が負傷。

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紀元前48年 – ローマの執政官ポンペイウスがエジプト軍の刺客により暗殺される。

グナエウス・ポンペイウス・マグヌス(ラテン語: Gnaeus Pompeius Magnus, 紀元前106年9月29日 – 紀元前48年9月28日[1])は、共和政ローマ後期の政務官。ルキウス・コルネリウス・スッラからマグヌス(「偉大な」の意)と称され、ガイウス・ユリウス・カエサルおよびマルクス・リキニウス・クラッススと第一回三頭政治を行ったが、ローマ内戦でカエサルに敗北、最終的に暗殺された。

351年 – ローマ内戦 (350年-353年): ムルサ・マジョールの戦い(Battle of Mursa Major)。蛮族侵攻に悩むコンスタンティヌス2世の東ローマ軍団と簒奪者マグナティウス西ローマ軍の戦い。コンスタンティヌスにとってピュロス的(犠牲の多い)な戦いであった。損害 コンスタンティヌス軍 全軍規模不明だが40%とされる24000人の戦死 マグナティウス 6万人中 30000人の戦死損失60%とされる。

1066年 – ノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム1世)がイングランドに侵入。ノルマン・コンクエストが始まる。ウィリアム(後の「征服王」)がイングランドを征服し国王に就任した。損害犠牲総数は不明だが 数千から数万人規模とされる。

1538年 – プレヴェザの海戦が行われる。ヨーロッパ連合艦隊とオスマン帝国艦隊の艦隊決戦。オスマン帝国が勝利し、オスマン帝国が一層の覇権を確立する。損害総犠牲数は不明だが、数千人が戦死である。

プレヴェザの海戦(プレヴェザのかいせん)は、1538年9月28日、バルバロス・ハイレッディンの指揮するオスマン帝国艦隊と、アンドレア・ドーリアが指揮するスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊とによって戦われた海戦[3]。イオニア海、レフカダ島沖が戦場となった。連合艦隊側は統制が取れずに敗走し、結果、オスマン帝国はクレタ、マルタを除く全地中海域の制海権を握ることとなった。この優位は1571年のレパントの海戦で揺らぐものの、以後もオスマン帝国は地中海での一大勢力であり続けることになった。しかしこの勝利には、オスマン帝国側に帰属したバルバリア海賊の影響力無しには為し得なかった。

1708年 – 大北方戦争: レスナーヤの戦い。スウェーデンとロシアの戦い。ロシアが初めて勝利する。損害 スウェーデン軍 1万6千人中 6000人戦死。 ロシア軍 1万2千人中 3000人強の戦死傷。

1781年 – アメリカ独立戦争: アメリカ・フランス軍がヨークタウンのイギリス軍を包囲。ヨークタウンの戦いが始まる。アメリカ独立戦争を実質的に終結させた決戦である。損害 フランス、アメリカ連合軍 2万人中 300人の戦死傷 グレートブリテイン軍 7千5百人中 戦死傷500人+7000人の捕虜。

年月日:1781年9月28日 – 10月17日

場所:バージニア州 ヨークタウン

結果:フランス・アメリカ連合軍の決定的な勝利

アメリカ独立戦争の大規模戦闘の終結

1902年 – 足尾台風が関東・東北南部を通過。小田原で小田原大海嘯が発生するなどし、全国で死者300人以上。

1918年 – 第一次世界大戦: 第五次イーペル会戦(Fifth Battle of Ypres)が始まる。ネルギーフランドル地方の西部戦線の戦い。損害 連合軍 10000人弱 ドイツ軍 10000人。戦線膠着。

余波

損害

イギリス軍は4685人、ベルギー軍は2000人の死者と約10000人の傷病者を出し[14]、ドイツ軍は約10000人の捕虜を出し、300丁の銃、900丁の機関銃を鹵獲された[15]。

1992年 – パキスタン国際航空268便墜落事故。死亡167人(全員)。

パキスタン国際航空268便墜落事故(パキスタンこくさいこうくう268びんついらくじこ)とは、1992年9月28日にパキスタン国際航空268便(使用機材:エアバスA300B4-203、機体記号:AP-BCP)[1]がネパールのカトマンズにあるトリブバン国際空港へ着陸進入中に墜落し、搭乗していた167人全員が死亡した事故である[2]。2011年現在、この事故はネパール史上最悪の航空事故である[3][4]。

1994年 – エストニアのフェリー「エストニア号」がバルト海で沈没。死者852名。

エストニア(Estonia)は、ヴァイキング・サリー(Viking Sally)として建造され、シリヤ・スター(Silja Star)、ヴァーサ・キング(Wasa King)と名称を変えたクルーズフェリー。1994年9月28日にバルト海で沈没したが、この事故は平時において852人の犠牲者を出した20世紀最悪の海難事故の一つとして知られている[1][2]。

2012年 – シーター・エア601便墜落事故。ネパールの首都カトマンズ郊外でドルニエ 228型双発旅客機が墜落、乗客・乗員19人全員が死亡[7]。

2018年 – インドネシアでマグニチュード7.5のスラウェシ島地震が発生する。4,340人が死亡、10,679人が負傷。

被害

地震、津波、液状化現象による大規模な泥流により4,340人が死亡し、667人が行方不明となった[16]が、政府は同年10月12日に大規模な捜索活動を打ち切った[17][18]。

パルで発生した大規模な液状化現象により、住宅は流されながら倒壊したり押しつぶされたりした[4]。

中部スラウェシ州のパルやドンガラでは地震発生直後に停電が発生した。また、通信基地局500か所以上が被害を受けた[19]。

パルでは病院やモスクのほとんどが崩壊した。また、5階建のショッピングセンターMALL TATURAが崩壊。その他のショッピングセンターも崩壊し、数十人が閉じ込められた。8階建のホテルRoa Roa Hotelも地震によって崩壊した[20]。パルを象徴する建造物のパル橋IV(インドネシア語版)も地震と津波によって崩壊した[21]。ムティアラ・SIS・アル・ジュフリー空港(英語版)では、滑走路に約500mの亀裂が入ったほか、管制塔が崩壊したことから、空港を一時閉鎖した[22]。

スラウェシ島にある3か所の刑務所から、受刑者およそ1,200人が脱獄したことを明らかにした[23]。

チャットgpt先生の9月28日のエッセイ


9月28日という日をめぐって

暦をめくれば、9月28日は秋分を過ぎた季節。旧暦ではまだ葉月、月齢6.2、若い月が夜空に浮かぶ頃である。今年は「庚子の日」、干支では子がめぐり、友引の相にある。暦の言葉を借りれば「隠遁日」であり、動よりも静を尊ぶ日ともされる。だが、歴史を振り返れば、この日はむしろ激動の場面が幾度も刻まれてきた。

紀元前48年、地中海の東岸でポンペイウスが刺客に倒れた。ローマの英雄と謳われた彼の最期は、あまりに無残であったが、歴史はしばしばそのように、強者の栄光を一瞬で裏返す。わずか数十年後にはカエサルの名さえも過去となり、ローマは新たな皇帝制へと姿を変えてゆく。

351年、バルカン半島で繰り広げられたムルサ・マジョールの戦いでは、両軍合わせて数万人の兵が命を落とした。犠牲の多さゆえに「ピュロス的勝利」と語られるその戦闘は、勝者すらも疲弊させる戦争の本質を映している。
同じ9月28日、千年後の1066年には、ノルマンディー公ウィリアムが海を越え、イングランドの大地に足を踏み入れた。ここから始まる「ノルマン・コンクエスト」は、島国の歴史を大きく塗り替え、後世のイギリス王権の原点となった。

また1538年のプレヴェザの海戦では、オスマン帝国が地中海の覇権を確立し、海の勢力図は長く塗り替えられる。1708年にはレスナーヤの戦いでロシアが初めてスウェーデンに勝利し、北方の勢力均衡はロシアの台頭へと傾きはじめた。
1781年、アメリカ大陸のヨークタウンではフランスとアメリカの連合軍がイギリス軍を包囲し、独立戦争の帰趨を決定づける。この戦いにより「新しい国」の誕生は不可逆となり、近代世界の道筋がそこから開けていった。

近代に目を移すと、自然と技術の脆さを示す災禍がこの日に集中する。1902年の足尾台風では大海嘯が小田原を襲い、多くの命が奪われた。1992年のパキスタン国際航空268便の墜落、1994年のエストニア号沈没事故、2012年のシーター・エア墜落――それぞれの悲劇は、空や海を舞台にした人間の挑戦が、同時に危うさを抱えることを忘れさせない。さらに2018年のスラウェシ島地震では、津波や液状化が都市を呑み込み、数千人が犠牲となった。文明が進んでもなお、大地の力は人間を小さくしてしまう。

こうして並べてみると、9月28日は人類史のなかで「境界の日」であるように思えてくる。
王国の栄枯盛衰の境目、海や大地の脅威に抗えぬ境目、そして独立や革命へと踏み出す境目。静かに過ごすには相応しいとされる暦の言葉と裏腹に、この日はしばしば歴史を動かす転換点を孕んできた。

年の残り94日。季節は冬へと傾き、私たちは日々の営みのなかで歴史を刻み続ける。9月28日の記憶は、過去の悲劇や勝利を超えて、「人はいつの時代も境界を生きる存在である」ということを思い起こさせるのである。