9月19日
20250919金曜日旧暦7月28日仏滅(辛卯かのとうシンボウ)月齢 26.8
乙巳きのとみ年乙酉きのととり月辛卯かのとう日 年末まであと103日
吉方位 隠遁日 辛卯かのとう日
https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8819%E6%97%A5
9月19日の出来事
634年 – アラブ・東ローマ戦争: ダマスクス包囲戦(英語版)終了。正統カリフ率いるイスラム帝国によりダマスクスが陥落。
日付 634年8月21日〜9月19日[a]
場所
ダマスカス、シリア
結果 ラシドゥンの勝利 領土の変更
ラシドゥン・カリフ制に占領されたダマスカス
損害 イスラム帝国軍 2万 戦死 僅少 ビザンツ帝国軍 15千人 戦死甚大。
1356年 – 百年戦争: ポワティエの戦い。プランタジネット朝イングランドとヴァロワ朝フランスの戦争。イングランド 9千人中 戦死僅少 フランス 1万8千人中 戦死2000人。
1410年 – ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争: マリーエンブルク包囲戦がドイツ騎士団の勝利に終わる。
戦争:ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争
年月日:1410年7月26日〜9月19日
場所:マリーエンブルク城
結果:ドイツ騎士団の勝利
損害:ドイツ騎士団軍 27千人 戦死僅少 マリエンブルグ城軍 4千人 甚大。
1777年 – アメリカ独立戦争: 第一次サラトガの戦い。(フリーマン農場の戦い)年月日:1777年9月19日および10月7日 大陸軍とイギリス軍の戦闘。損害 大陸軍 1万5千人中 死者800人。イギリス軍 7千8百人中 戦死1800人 捕虜6000人。
1793年 – フランス革命・ヴァンデー反乱: トルフー=ティフォージュの戦い(英語版)。
日付 1793年9月19日
場所 周辺 Tiffauges and Torfou
結果 ヴァンデーン勝利
損害 フランス共和国軍6,000人 戦死1000人 ヴァンデ軍 20,000人 戦死600人
1799年 – フランス革命戦争:ベルゲンの戦い(英語)。
日付 1799年9月19日
場所
ベルゲン、バタビア共和国
北緯52.6700度 東経4.7000度
結果 フランス・バタビアの勝利
損害 フランスバタビア軍 戦死傷3000人強 イギリス軍 戦死傷4000人強
1862年 – 南北戦争: イウカの戦い。
時 1862年9月19日
場所 ミシシッピ州イウカ
結果 北軍の勝利
損害 北軍 戦死傷790人 南軍 戦死傷1516人
1864年 – 南北戦争: オペクォンの戦い(第三次ウィンチェスターの戦い)
オペクォンの戦いで北軍を鼓舞するフィリップ・シェリダン将軍
時 1864年9月19日
場所 バージニア州ウィンチェスター
結果 北軍の勝利
損害 北軍 戦死傷5,020[3]人 南軍 戦死傷3,610[3]人
1943年 – 九州・西日本一帯に集中豪雨(戦時下であり台風とは報道はされなかった)。死者・行方不明者893人以上、家屋全壊約5000戸などの被害[4]。
1945年 – 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)がプレスコード(SCAPIN33)を発令。
1945年 – イギリスで、「ホーホー卿」ことウィリアム・ジョイスに大逆罪による死刑判決。
1974年 – ホンジュラス北部にハリケーンが接近。チョロマでは深夜に堤防が決壊して死者4000人以上の被害を出した[12]。
1976年 – トルコ航空452便墜落事故。死亡154人(全員)。
1985年 – メキシコ地震発生。メキシコシティを中心に1万人以上が死亡。
1988年 – 中南米で341名の犠牲者を出したハリケーン・ギルバートが消滅。
1989年 – UTA航空772便爆破事件: リビアのテロリストにより、乗員乗客170名全員が犠牲に。
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634年 – アラブ・東ローマ戦争: ダマスクス包囲戦(英語版)終了。正統カリフ率いるイスラム帝国によりダマスクスが陥落。
日付 634年8月21日〜9月19日[a]
場所
ダマスカス、シリア
結果 ラシドゥンの勝利 領土の変更
ラシドゥン・カリフ制に占領されたダマスカス
損害 イスラム帝国軍 2万 戦死 僅少 ビザンツ帝国軍 15千人 戦死甚大。
ダマスカス包囲戦(634年)は、都市がラシドゥン・カリフ制に陥落するまで、634年8月21日から9月19日まで続いた[2][a]。ダマスカスは、イスラム教徒によるシリア征服で陥落した東ローマ帝国の最初の主要都市でした。
ローマ・ペルシア戦争の最後の戦期は、ヘラクレイオスがメソポタミアでのペルシア人に対する遠征を成功させた後、628年に終結した。同時に、ムハンマドはイスラム教の旗の下でアラブ人を団結させました。632年に彼が亡くなった後、アブ・バクルが彼の後を継いで初代ラシドゥン・カリフとなった。アブ・バクルは、いくつかの内部反乱を鎮圧し、アラビア半島の枠を超えて帝国を拡大しようとしました。[3]
634年4月、アブ・バクルはレバントのビザンチン帝国を侵攻し、アズナダイン戦闘でビザンチン軍を決定的に撃破した。イスラム軍は北に進軍し、ダマスカスを包囲した。この都市は、一性論者の司教がイスラム教徒の最高司令官ハリド・イブン・アル・ワリドに、夜間に軽く防御されているだけの陣地を攻撃することで城壁を突破できると告げた後に占領された。ハリドが東門から攻撃して都市に入る間、ビザンチン守備隊の司令官トーマスはジャビヤ門でハリドの副司令官アブ・ウバイダと平和的降伏を交渉した。都市の降伏後、司令官たちは和平協定の条件に異議を唱えた。司令官らは最終的に、アブ・ウバイダが与えた和平条件が満たされることに同意した。和平条件には、出発するローマの車列に対してイスラム教徒が3日間追跡しないという保証が含まれていた。[4]和平条件を黙認したハリドは、都市の降伏から3日後、ダマスカ難民を追ってアンティオキアに向けて出発し、6日後、現在のアル・ジャヤド近くの戦闘で彼らを破った。[5]
1356年 – 百年戦争: ポワティエの戦い。プランタジネット朝イングランドとヴァロワ朝フランスの戦争。イングランド 9千人中 戦死僅少 フランス 1万8千人中 戦死2000人。
ポワティエの戦い(仏: Bataille de Poitiers、英: Battle of Poitiers)は、百年戦争の一環として1356年9月19日にプランタジネット朝イングランドとヴァロワ朝フランスの間で行われた戦い。ポアティエの戦いとも表記する。
戦いに先立つ1356年8月8日、エドワード黒太子はアキテーヌを根拠地に北上しつつ騎行戦術をとった。地方に駐屯する守備隊を撃破し、物資を略奪することによって調達した。
トゥールのロワール川近辺で、イングランド軍は根城を確保できておらず、また、大雨により都市を焼き払うことができずに行軍が遅れ、フランス王ジャン2世はイングランド軍に追いついた。
1410年 – ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争: マリーエンブルク包囲戦がドイツ騎士団の勝利に終わる。
戦争:ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争
年月日:1410年7月26日〜9月19日
場所:マリーエンブルク城
結果:ドイツ騎士団の勝利
損害:ドイツ騎士団軍 27千人 戦死僅少 マリエンブルグ城軍 4千人 甚大。
マリーエンブルク包囲戦 (ドイツ語: Belagerung der Marienburg ポーランド語: Oblężenie Malborka)とは、1410年7月26日〜9月19日までの約2カ月間にわたり、ドイツ騎士団国の首都マリーエンブルク(現ポーランド、マルボルク)を、ポーランド王国軍・リトアニア大公国軍が包囲した戦闘のことである。ヴワディスワフ2世率いるポーランド王国軍・ヴィータウタス大公率いるリトアニア大公国軍は、タンネンベルクの戦いにてドイツ騎士団軍に対し圧勝し、その勢いでドイツ騎士団を滅ぼそうと企んでいたものの、マリーエンブルク城はこの攻城戦を見事に耐え抜き、ポーランド・リトアニア軍は第一次トルンの和約にてドイツ騎士団国から小規模の領地を獲得しただけで引き上げることとなった。
1777年 – アメリカ独立戦争: 第一次サラトガの戦い。(フリーマン農場の戦い)年月日:1777年9月19日および10月7日 大陸軍とイギリス軍の戦闘。損害 大陸軍 1万5千人中 死者800人。イギリス軍 7千8百人中 戦死1800人 捕虜6000人。
サラトガの戦い(サラトガのたたかい、英: Battle of Saratoga )は、アメリカ独立戦争中の1777年9月から10月にかけて、ニューヨーク州サラトガの近くで、大陸軍とイギリス軍の間に行われた戦いである。サラトガの戦いとは、2つの小戦闘の総称である。すなわち、フリーマン農場の戦い(第一次サラトガの戦い)とベミス高地の戦い(第二次サラトガの戦い)である。この戦いの結果はジョン・バーゴイン将軍指揮するイギリス軍の降伏につながり、イギリス軍のカナダからの侵攻作戦(サラトガ方面作戦)が終わった。
1793年 – フランス革命・ヴァンデー反乱: トルフー=ティフォージュの戦い(英語版)。
日付 1793年9月19日
場所 周辺 Tiffauges and Torfou
結果 ヴァンデーン勝利
損害 フランス共和国軍6,000人 戦死1000人 ヴァンデ軍 20,000人 戦死600人
1799年 – フランス革命戦争:ベルゲンの戦い(英語)。
日付 1799年9月19日
場所
ベルゲン、バタビア共和国
北緯52.6700度 東経4.7000度
結果 フランス・バタビアの勝利
損害 フランスバタビア軍 戦死傷3000人強 イギリス軍 戦死傷4000人強
コース
マインツ陥落後、ライン軍からマイエンス軍として分離された15,000人の兵士がクレベールの部隊を増援するために派遣された。9月18日、シャレットとカトリック・エ・ロワイヤル軍はティフォージュの北国境にあるトルフーに再び集結した。
翌日の午前9時、初めて銃撃戦が行われた。クレベールはトルフーの右側に1つの大隊を、その左側に1つの大隊を派遣し、町を包囲しようとした。シャレット率いるヴァンデアン軍は彼らに向かって来ていたことが発見され、発砲され、撤退を余儀なくされた。しかし、後方の女性たちは逃げる部隊を防ぎ、再集結して共和軍が進撃する高原で戦うよう説得した。
1862年 – 南北戦争: イウカの戦い。
時 1862年9月19日
場所 ミシシッピ州イウカ
結果 北軍の勝利
損害 北軍 戦死傷790人 南軍 戦死傷1516人
イウカの戦い(イウカのたたかい、英:Battle of Iuka)は、南北戦争初期の1862年9月19日に、ミシシッピ州イウカで行われた戦いである。イウカ・コリンス方面作戦の最初の戦闘であり、北軍ウィリアム・ローズクランズ少将が南軍スターリング・プライス少将の進軍を止めた。
1864年 – 南北戦争: オペクォンの戦い(第三次ウィンチェスターの戦い)
オペクォンの戦いで北軍を鼓舞するフィリップ・シェリダン将軍
時 1864年9月19日
場所 バージニア州ウィンチェスター
結果 北軍の勝利
損害 北軍 戦死傷5,020[3]人 南軍 戦死傷3,610[3]人
オペクォンの戦い(オペクォンのたたかい、英:Battle of Opequon、より一般的には第三次ウィンチェスターの戦い、英:Third Battle of Winchester)は、南北戦争の終盤、1864年のバレー方面作戦の一部として9月19日にバージニア州ウィンチェスターで行われた戦闘である。
南軍のジュバル・アーリー中将軍がウェストバージニア州マーティンズバーグでボルティモア・アンド・オハイオ鉄道を襲撃したので、北軍のフィリップ・シェリダン少将は第6軍団と第19軍団を伴い、ベリービル・パイクを通ってウィンチェスターに向けて進軍し、オペクォン・クリークを越えた。北軍の進軍が遅れてその間にアーリーは自軍を集結できるだけの時間が取れ、主力による猛攻を行って、戦いは数時間続いた。両軍の損失は大きかった。南軍の前線は次第にウィンチェスターの町の方向に後退させられた。午後半ばに、第8軍団と騎兵隊が南軍の左側面に回りこんだ。アーリーは総退却を命じた。両軍共にその規模、戦いの激しさ、さらには将官クラスの重大な損失とその後の影響の故に、多くの歴史家達はこの戦闘をシェナンドー渓谷における最も重要な戦闘と考えている[4]。
1943年 – 九州・西日本一帯に集中豪雨(戦時下であり台風とは報道はされなかった)。死者・行方不明者893人以上、家屋全壊約5000戸などの被害[4]。
1945年 – 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)がプレスコード(SCAPIN33)を発令。
プレスコード(英:Press Code for Japan[1][2])とは、太平洋戦争終結後の連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって行われた、新聞などの報道機関を統制するために発せられた規則である。これにより検閲が実行された。
正式名称はSCAPIN-33「日本に与うる新聞遵則」[2]、昭和20年(1945年)9月19日に発令、9月21日に発布された。「日本新聞遵則[1]」また「日本出版法[1]」ともいう。「プレス・コード」と表記されることもある[3]。
1948(昭和23)年には、GHQの検閲スタッフは370名、日本人嘱託5700名がいた[15]。8000人を超えていたとする説もある[16]。新聞記事の紙面すべてがチェックされ、その数は新聞記事だけで一日約5000本以上であった[15][17]。
江藤淳はGHQによる言論統制についての著書『閉ざされた言語空間』のなかで次のように述べている[23]。
<検閲を受け、それを秘匿するという行為を重ねているうちに、被検閲者は次第にこの網の目にからみとられ、自ら新しいタブーを受容し、「邪悪」な日本の「共同体」を成立させて来た伝統的な価値体系を破壊すべき「新たな危険の源泉」に変質させられていく。この自己破壊による新しいタブーの自己増殖という相互作用は、戦後日本の言語空間のなかで、おそらく依然として現在もなおつづけられているのである。>
削除および発行禁止対象のカテゴリー(30項目)
1.SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
2.極東国際軍事裁判批判
3.GHQが日本国憲法を起草したことの言及と成立での役割の批判
4.検閲制度への言及
5.アメリカ合衆国への批判
6.ロシア(ソ連邦)への批判
7.英国への批判
8.朝鮮人への批判
9.中国への批判
10.その他の連合国への批判
11.連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
12.満州における日本人取り扱いについての批判
13.連合国の戦前の政策に対する批判
14,第三次世界大戦への言及
15.冷戦に関する言及
16.戦争擁護の宣伝
17.神国日本の宣伝
18.軍国主義の宣伝
19.ナショナリズムの宣伝
20.大東亜共栄圏の宣伝
21.戦争犯罪人の正当化および擁護
22.占領軍兵士と日本女性との交渉
23.闇市の状況
24.占領軍軍隊に対する批判
25.飢餓の誇張
26.暴力と不穏の行動の煽動
27.虚偽の報道
28.GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
29.解禁されていない報道の公表
1974年 – ホンジュラス北部にハリケーンが接近。チョロマでは深夜に堤防が決壊して死者4000人以上の被害を出した[12]。
1945年 – イギリスで、「ホーホー卿」ことウィリアム・ジョイスに大逆罪による死刑判決。
ウィリアム・ジョイス(William Joyce, 1906年4月24日 – 1946年1月3日)は、アメリカ合衆国のファシスト。第二次世界大戦中、ドイツからイギリスに向けてプロパガンダ放送を行い、ホーホー卿 (Lord Haw-Haw) という通称で広く知られた。この戦時中の行動のため、ジョイスはイギリス政府に大逆罪で処刑された。
当時イギリスでは、ジョイスの宣伝放送は、公的には聞くべきではないとされていたものの、聴取自体は違法ではなく、民衆の間でも相当の人気があった。ドイツからの放送は、いつも「Germany calling, Germany calling, Germany calling」と始まっている[9]。放送は、イギリスの人々に降伏を促すもので、嘲り冷笑しながら威嚇する調子がよく知られていた。聴取者にすると、厳重に検閲されていた戦時下の放送事情の中で、敵方が何を言っているのかを聞きたいという欲求もあったし、開戦当初においてはBBCよりもドイツ側の放送の方が情報量で勝ることもあったのである。しかし、このシナリオは、大戦の途中から逆転し、やがてドイツの高官たちがBBCにダイヤルを合わせるようになっていった。
ジョイスの最後の放送は、ベルリンの戦いの最中、1945年4月30日に録音された。この録音でジョイスは、目前に迫ったドイツの敗北にイギリスが果たした役割を非難し、この戦争がイギリスを貧困と不毛に陥れるだろうと語っている。ジョイスはこの録音を、最後まで挑発的に「ヒトラー万歳 (Heil Hitler)」と結んでいる[10]。
1976年 – トルコ航空452便墜落事故。死亡154人(全員)。
1985年 – メキシコ地震発生。メキシコシティを中心に1万人以上が死亡。
1988年 – 中南米で341名の犠牲者を出したハリケーン・ギルバートが消滅。
1989年 – UTA航空772便爆破事件: リビアのテロリストにより、乗員乗客170名全員が犠牲に。
チャットgpt先生の9月19日のエッセイ
9月19日という「節目」の日
暦を開くと、9月19日はしばしば歴史の転換点として姿を現す。旧暦では7月28日、月齢26.8、隠遁日。現代人の生活から見れば一見些細な記述に過ぎないが、「余白の日」であることが、逆に歴史の濃さを照らしているのかもしれない。
この日、世界各地では幾度も「陥落」と「抵抗」とが交錯した。
634年、ダマスカス包囲戦が終わり、東ローマ帝国の最重要都市のひとつがイスラム帝国に陥落した。都市を守る者たちは降伏を選んだが、降伏の約束と追撃戦が絡み合い、勝者の影には敗者の流浪が重なる。ここに見えるのは、都市を奪うことで世界秩序そのものを塗り替える力であった。
1356年、百年戦争の只中で、ポワティエの戦いが起きる。イングランドの黒太子エドワードがフランス王ジャン2世を捕虜とし、戦局は大きく揺れた。軍事的衝突はもちろん、王が囚われたという出来事がヨーロッパの人々の想像力に強烈な刻印を残した。
さらに1410年には、タンネンベルクでの勝利の余韻を抱えて進軍したポーランド・リトアニア軍が、マリーエンブルクの堅城を前に退けられた。ここでは「勝利のあとの失速」という歴史の揺り戻しが生じている。
大西洋を越えたアメリカ独立戦争のサラトガ(1777年)もまた、9月19日から動き出した。フリーマン農場の戦いは、のちの大逆転とフランス参戦につながり、アメリカの独立を国際的に確かなものとした。ひとつの戦闘は、やがて大国の地図を変える。
19世紀に入ると、9月19日はアメリカ南北戦争の戦場となった。イウカ、そしてウィンチェスター。そこでは数千人単位の命が一日の戦闘で消えていった。近代戦の恐ろしさは、もはや王や城の運命に収斂せず、「数」という冷徹な記録に刻まれる。
そして20世紀。1943年の九州集中豪雨、1974年のホンジュラスの堤防決壊、1985年のメキシコ地震。自然災害の日付もまた、この日を選ぶかのように刻まれている。戦争や反乱の物語に自然の猛威が加わり、「生と死の分岐点」としての9月19日は、より普遍的な相貌を帯びる。
さらに皮肉なことに、1945年のこの日にはGHQによるプレスコードが発令された。言葉や報道の自由が制限された日付は、剣や砲と同じくらい深い影を落とす。歴史を伝えるはずの言葉が封じられたとき、記録そのものが戦場となった。
——
こうして眺めると、9月19日は「勝敗が決する日」であり、「秩序が変わる日」であり、時に「声が封じられる日」でもあった。人類史の流れにおいて、偶然が重なりながらも確かに節目を形づくってきたのである。
年末まで残り103日。秋分を間近に控えるこの日に、過去の戦いや災厄を思い出すことは、単なる記念ではない。それは、敗北や災害の影に沈んだ声を忘れず、今を生きるわれわれが「どのように歴史を記録し、どのように未来に手渡すか」を問うことに他ならない。
9月19日は、歴史の深い陰影を映す鏡である。今日を生きる私たちは、その鏡をのぞき込み、そこに浮かぶ敗者・被災者・封じられた声の存在を見逃してはならないのだ。