kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月18日  1931満州事変勃発、ほか写真wikipedia柳条湖爆発現場

9月18日

20250918木曜日旧暦7月27日先負(庚寅かのえとらコウイン)月齢 25.8

乙巳きのとみ年乙酉きのととり月庚寅かのえとら日 年末まであと104日

吉方位 隠遁日 庚寅かのえとら日 南東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8818%E6%97%A5

9月18日の出来事

324年 – クリュソポリスの戦い(英語版)。ローマ帝国の西の正帝コンスタンティヌス1世が東の正帝リキニウスを破り、帝国全土の単独皇帝となる。

日付        324年9月18日[1]

場所       

カルケドン

(現在のトルコ)の近くのクリソポリス)

結果       

コンスタンティヌスの勝利 コンスタンティヌスが権力を固める

テトラルキー(二皇帝の分割統治)の最終的な崩壊

損害  コンスタンティヌス軍 10万5千人中 戦死不明だが僅少 リキニウス軍 12万人中 戦死 25,000〜30,000人が殺され、さらに数万人が捕虜。

1180年 – フィリップ2世(尊厳王アウグスッスフランス国王で最初の実験を持った王)がフランス国王に即位。

1828年(文政11年8月10日) – シーボルト事件:シーボルトが、幕府禁制品の日本地図などを持ち出そうとしたことが、船の座礁により発覚。出国停止、および1年の取調べの後追放処分。

1863年 – 南北戦争:チカマウガの戦い開始。西部戦線での北軍最大の敗北戦。    1863年9月18日-20日[1]。損害 北軍5万6千人中 戦死傷16170人 南軍7万人中 戦死傷18454人。

1931年 – 満洲事変:奉天付近の南満洲鉄道線路上で爆発事件。(柳条湖事件)年月日:1931年9月18日 – 1932年2月18日 損害 日本 6万6千人中 24人 中華民国 16万人中340人。

1944年 – 第二次世界大戦: 日本の貨物船順陽丸がインドネシアの沖合でイギリス海軍の潜水艦の雷撃を受け撃沈。5,620人が死亡。

1958年 – 昭和33年台風第21号が伊豆半島の南端に上陸。その後、房総半島を経て太平洋を北上し、北海道根室市に再上陸した。32都道府県で死者・行方不明者85人。流失家屋143戸、床上浸水1万2271戸、床下浸水3万9766戸[2]。

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324年 – クリュソポリスの戦い(英語版)。ローマ帝国の西の正帝コンスタンティヌス1世が東の正帝リキニウスを破り、帝国全土の単独皇帝となる。

日付        324年9月18日[1]

場所       

カルケドン

(現在のトルコ)の近くのクリソポリス)

結果       

コンスタンティヌスの勝利 コンスタンティヌスが権力を固める

テトラルキー(二皇帝の分割統治)の最終的な崩壊

損害  コンスタンティヌス軍 10万5千人中 戦死不明だが僅少 リキニウス軍 12万人中 戦死 25,000〜30,000人が殺され、さらに数万人が捕虜。

クリソポリスの戦いは、324年9月18日にカルケドン(現在のカドゥキョイ)近くのクリソポリス(現在のユスキュダル)で、2人のローマ皇帝コンスタンティヌス1世とリキニウスの間で戦われました。この戦いは、両皇帝の最後の出会いでした。ヘレスポント海戦で海軍が敗北した後、リキニウスはビザンチウム市からボスポラス海峡を渡ってビティニアのカルケドンまで軍隊を撤退させた。コンスタンティヌスもそれに続き、その後の戦いに勝利した。これによりコンスタンティヌスが唯一の皇帝となり、テトラルキー(分割統治)の時代は終わりました。

1180年 – フィリップ2世(尊厳王アウグスッスフランス国王で最初の実験を持った王)がフランス国王に即位。

フィリップ2世(Philippe II, 1165年8月21日 – 1223年7月14日)は、フランス・カペー朝第7代の王(在位:1180年 – 1223年)。ルイ7世と妃でシャンパーニュ伯兼ブロワ伯ティボー4世の娘アデルの子。フランス最初の偉大な王と評価され、尊厳王(オーギュスト、Auguste)と呼ばれた。

父王の崩御により15歳で即位し、当初は舅であるエノー伯ボードゥアン5世の摂政下にあったが、間もなく親政を始めた。エノー伯やシャンパーニュ伯などの強力な北部諸侯を抑え、婚姻政策によりヴァロワなどを得た。さらに、イングランド王家で欠地王ジョンのフランス南部に広大な領地を有するプランタジネット家との抗争に勝利し、その大陸領土の大部分をフランス王領に併合した他、アルビジョア十字軍を利用して、王権をトゥールーズ、オーヴェルニュ、プロヴァンスといったフランス南東部から神聖ローマ帝国領にまで及ぼした。この結果、フランス王権は大いに強まり、フランスはヨーロッパ一の強国となった。

1828年(文政11年8月10日) – シーボルト事件:シーボルトが、幕府禁制品の日本地図などを持ち出そうとしたことが、船の座礁により発覚。出国停止、および1年の取調べの後追放処分。

シーボルト事件(シーボルトじけん)は、江戸時代後期の1828年(文政11年)に、ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、国防上の理由から日本国外への持ち出しが禁止されていた「大日本沿海輿地全図」(「伊能図」)などを持ち出そうとして発覚し、国外追放処分を受けた事件である。シーボルトに地図を贈った幕府の書物奉行兼天文方筆頭高橋景保をはじめとする多数の関係者、蘭学者が幕府によって処罰されたことから、この事件は蛮社の獄に先立つ蘭学者弾圧事件となった。

日本側関係者の処分は多岐にわたった。シーボルトに地図を贈った書物奉行兼天文方筆頭の高橋景保は獄死したが、その死体は塩蔵され、のちに改めて死罪判決が下されたうえで斬首された。また、景保の子らも遠島となった[6]。ベラドンナ(実際にはその代用品であるハシリドコロ)を用いた開瞳術を教わる見返りとして将軍から拝領した三つ葉葵の紋服を贈った眼科奥医師土生玄碩は改易のうえ終身禁固となった(のち赦免)。そのほか、オランダ商館長が江戸に参府する際の定宿を提供していた長崎屋源右衛門、シーボルトの門人二宮敬作、高良斎、出島絵師川原登与助(川原慶賀)、通詞の馬場為八郎、吉雄忠次郎、稲部市五郎、堀儀左衛門、末永甚左衛門、岩瀬弥右衛門、同弥七郎、さらに召し使いにいたるまで五十数人が処罰された。

1863年 – 南北戦争:チカマウガの戦い開始。西部戦線での北軍最大の敗北戦。    1863年9月18日-20日[1]。損害 北軍5万6千人中 戦死傷16170人 南軍7万人中 戦死傷18454人。

チカマウガの戦い(チカマウガのたたかい、英:Battle of Chickamauga)は、南北戦争の西部戦線における、テネシー州中南部とジョージア州北西部で1863年9月18日から20日に行われた戦闘である。チカマウガ方面作戦と呼ばれる北軍攻勢の最後の戦闘だったが、北軍は西部戦線では最大の敗北を喫した。

対戦したのは北軍 ウィリアム・ローズクランズ 少将指揮するカンバーランド軍と南軍ブラクストン・ブラッグ将軍指揮するテネシー軍であり、戦闘名はチャタヌーガ中心部の北東約3.5マイル (5.6 km)でテネシー川に注ぐチカマウガ・クリークから採られた。

1931年 – 満洲事変:奉天付近の南満洲鉄道線路上で爆発事件。(柳条湖事件)年月日:1931年9月18日 – 1932年2月18日 損害 日本 6万6千人中 24人 中華民国 16万人中340人。

柳条湖事件

詳細は「柳条湖事件」を参照

事件直後の柳条湖の爆破現場

1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、瀋陽郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。現場は、3年前の張作霖爆殺事件の現場から、わずか数キロの地点である。爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過している[注釈 9]。関東軍はこれを張学良の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。これがいわゆる柳条湖(溝)事件[注釈 10]である。

戦後のGHQの調査などにより、本事件は河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った自作自演の陰謀であったことが判明している[注釈 11]。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、関東軍の虎石台独立守備隊の河本末守中尉指揮の一小隊が爆破を実行した。

1944年 – 第二次世界大戦: 日本の貨物船順陽丸がインドネシアの沖合でイギリス海軍の潜水艦の雷撃を受け撃沈。5,620人が死亡。

9月16日、「順陽丸」はペカンバル-ムアロ間のスマトラ横断鉄道の建設に投入される1,377名のオランダ人捕虜と64名のイギリス人(オーストラリア人含む)捕虜、8名のアメリカ人捕虜と4,200名あまりのジャワ人労務者を乗せて、ジャワ島バタヴィアのタンジョンプリオクを出港。18日、南緯02度53分 東経101度11分のパダン南南東225km地点にさしかかったところでイギリス潜水艦「トレードウィンド」(HMS Tradewind)の雷撃で沈没した。これは5,620名が死亡する当時世界最大規模の海難事故となった。680人ほどの生き残った捕虜はスマトラ横断鉄道の現場に送られたが、終戦まで生き延び、救出されたのはわずか100人たらずだった[6]。

1958年 – 昭和33年台風第21号が伊豆半島の南端に上陸。その後、房総半島を経て太平洋を北上し、北海道根室市に再上陸した。32都道府県で死者・行方不明者85人。流失家屋143戸、床上浸水1万2271戸、床下浸水3万9766戸[2]。

チャットgpt先生の9月18日のエッセイ


9月18日という日をめぐって

9月18日は、暦のうえでは旧暦7月27日、月齢25.8の下弦前。残り104日で年が暮れる。静かに季節が秋へ傾いていくこの日に、歴史のページを開くと、不思議なまでに「分岐」と「転換」の出来事が折り重なっている。

324年、クリュソポリスの戦い。西の正帝コンスタンティヌスが東のリキニウスを打ち破り、ローマ帝国は再び一人の皇帝のもとに統一された。二頭体制の終焉は、安定をもたらす一方で、新たな独裁の萌芽でもあった。統治の形が「分かれる」ことと「一つにまとまる」こと、その緊張関係は現代の国際社会にもなお響いている。

1180年、フランスでは15歳のフィリップ2世が王位に就く。若き王はやがて領土を拡大し、尊厳王の名を得る。彼の治世は、地域の分権から王権集中への流れを決定づけた。小さな即位の日が、数十年ののちヨーロッパの勢力地図を変えてゆく。

1828年、日本。シーボルト事件が明るみに出たのもこの日だ。知識や学問が海を越えて流れ込む中で、国家は「守るべき秘密」と「開くべき門戸」の間で揺れ動いた。閉ざすことで守れるものもあれば、閉ざすことで失うものもある。その問いは、情報化社会に生きる私たちにも突きつけられている。

さらに1863年のチカマウガの戦い、1931年の柳条湖事件、1944年の順陽丸沈没、1958年の台風21号。戦火と災禍の記録が続く。人が人と争うこと、自然の力に翻弄されること。9月18日という日は、幾度となく「不意打ち」のような苦難を人々にもたらしてきた。

それでも、この日にただ不吉な影だけを見るのは早計だろう。歴史の中で、敗北や悲劇はしばしば次の変革や教訓を準備していた。柳条湖事件は侵略の端緒として記憶されるが、それを二度と繰り返さない誓いを生んだ。台風災害は防災意識を高め、治水や気象観測の改善へとつながった。

今年の9月18日、南東が吉方位とされる暦の上の小さなしるしを胸に刻む。歴史の大きな流れに抗うことはできないかもしれない。しかし、過去の「分岐点」を知ることによって、私たちは未来の選択に少しだけ賢明になれる。

歴史が重ねたこの日の光と影を見渡しながら、私たちはまた今日という一日を生きている。