kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月9日  1948朝鮮民主主義人民共和国建国、ほか写真wikipedia公共掲示 金日成、金正日肖像

9月9日

20250909火曜日旧暦7月18日赤口(辛巳かのとみシンシ)月齢 16.8

乙巳きのとみ年乙酉きのととり月辛巳かのとみ日 年末まであと113日

吉方位 隠遁日 辛巳かのとみ日

https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%889%E6%97%A5

9月9日の出来事

701年(大宝元年8月3日) – 大宝律令が完成[1]。

999年(長保元年7月27日) – 長保元年令が発令される。十一条。

1513年 – カンブレー同盟戦争: フロドゥンの戦い(英語版)。スコットランド王ジェームズ4世がノーフォーク公に敗れ戦死。

日付        1513年9月9日

場所       

ブランクストン、ノーサンバーランド、イングランドの近く

結果        イングランドの決定的な勝利

損害  イングランド軍 3万人中1,500–1,700人が死亡[1]     スコットランド軍4万人中5,000–14,000人死亡[2][3]

1547年(天文16年7月24日) – 小田井原の戦いがはじまる。武田軍と関東管領軍の戦闘。3000人戦死。他に 武田晴信の敵兵への処置は厳しく、捕虜となった城兵は奴隷労働者とされ、女子供は売り払われた。

1615年(元和元年7月17日) – 江戸幕府が禁中並公家諸法度を発布する。

1720年(享保5年8月7日) – 江戸幕府が江戸町火消を「いろは47組」に再編成。

1871年 – 江戸城本丸跡に午砲台が設置。毎日正午に午砲が鳴らされることとなった(1929年4月30日まで)[2]。

1922年 – 希土戦争: トルコ軍がギリシャのイズミルを占領。詳細不明だが双方虐殺、略奪の応酬。

1939年 – ポーランド侵攻: 第2次ビドゴシチ住民殺害事件が起こる。市の14%2万人以上が虐殺死とされる。

1948年 – ソ連による朝鮮の占領が終了し、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立。

1945年 – 日中戦争: 中国大陸の支那派遣軍総司令官岡村寧次大将が南京で降伏文書に署名し無条件降伏。日中戦争が終結。

時             局地戦争:1931年—1937年[注 4]全面戦争:1937年-1945年[1][注 5]

場所        中国、英領ビルマなど[1]。

結果        中華民国の勝利、日本の降伏[1]。

損害  日本軍100万人動員 約43万人戦死/約100万人負傷[1]                 中国軍500万人以上動員300万人 – 3500万人戦死/不明(約1億人とも推測される)負傷[1]

1949年 – カナディアン航空機爆破事件が起こる。23人死亡。

1988年 – 篠崎ポンプ所女性バラバラ身元不明殺人事件が、被害者の遺体発見により発覚する。未解決。

1996年 – 柴又三丁目女子大生殺人発生[7]。未解決。

2004年 – 豊明母子4人殺害事件: 愛知県豊明市沓掛町の民家で母子4人が殺害され、家が放火される事件が発生。発生19年後の2023年9月時点でも未解決となっている。

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701年(大宝元年8月3日) – 大宝律令が完成[1]。

999年(長保元年7月27日) – 長保元年令が発令される。十一条。

現代語訳

神事を怠ったり、規定に背いた行為をしてはならない。

神社を壊したり、損傷させてはならない。

仏事を怠ったり、規定に背いた行為をしてはならない。

定められた修理費で修繕すべき寺院や堂舎を壊したり、損傷させてはならない。

僧侶や俗人が、理由もなく京に住んだり、牛車を使って京の邸宅に泊まったりしてはならない。

理由もなく穢れに触れるような行為をしてはならない。

男女の道俗(僧・俗人)が、規定に反した服を着てはならない。

金銀の薄板や泥絵で扇や火桶を飾ったり、六位以下の者が螺鈿の鞍を用いたりしてはならない。

六位以下の者は車に乗ってはならない。

諸司・諸衛の官人が饗宴を催したり、碁などの遊戯に耽ってはならない。

主計寮・主税寮の官人が、前任の分の勘定を口実にして、賄賂を強要したり、諸国からの公文を抑留したりしてはならない。

ざっくり言えば、

神仏を大切にすること

建物・器物を壊さないこと

僧俗や身分に応じた生活を守ること

ぜいたくや不正を禁じること

1513年 – カンブレー同盟戦争: フロドゥンの戦い(英語版)。スコットランド王ジェームズ4世がノーフォーク公に敗れ戦死。

日付        1513年9月9日

場所       

ブランクストン、ノーサンバーランド、イングランドの近く

結果        イングランドの決定的な勝利

損害  イングランド軍 3万人中1,500–1,700人が死亡[1]     スコットランド軍4万人中5,000–14,000人死亡[2][3]

1547年(天文16年7月24日) – 小田井原の戦いがはじまる。武田軍と関東管領軍の戦闘。3000人戦死。他に 武田晴信の敵兵への処置は厳しく、捕虜となった城兵は奴隷労働者とされ、女子供は売り払われた。

1615年(元和元年7月17日) – 江戸幕府が禁中並公家諸法度を発布する。

1720年(享保5年8月7日) – 江戸幕府が江戸町火消を「いろは47組」に再編成。

1871年 – 江戸城本丸跡に午砲台が設置。毎日正午に午砲が鳴らされることとなった(1929年4月30日まで)[2]。

1922年 – 希土戦争: トルコ軍がギリシャのイズミルを占領。詳細不明だが双方虐殺、略奪の応酬。

イズミル占領とは、1919年5月15日のギリシャ軍のイズミル上陸に始まり1922年9月9日のトルコ軍のイズミル入城(英語版)まで続いたギリシャ王国によるイズミル市の占領である[1]

1939年 – ポーランド侵攻: 第2次ビドゴシチ住民殺害事件が起こる。市の14%2万人以上が虐殺死とされる。

ポーランド人によるドイツ人への虐待

ポーランド陸軍は、ビドゴシチ経由で退却した際[5]、ドイツの不正規兵より攻撃を受けた。イギリス人の目撃者によると、退却中のポーランドの砲兵部隊がドイツ人によって屋内から狙撃されたとのことだった。ポーランド軍は応戦し、イエスズ会の教会からも狙撃を受けた[9]。その後、双方に死傷者が発生した。ドイツの不正規兵の捕虜は即座に処刑され、暴徒と化した群衆によってリンチされたことも目撃されている[5][10][11]。2004年のポーランドの調査によると、ポーランドの部隊は、少数民族であったドイツ人とドイツ軍情報部(アペヴェーア)によって撃たれたと結論付け、40人から50人のポーランド軍と100人から300人のドイツ人が死亡した[12]。

ドイツ軍の報復

ドイツの報復と虐殺行為

この事件の結果、ドイツによる報復とポーランドの民間人の大量処刑が行われた[17][10]。血の日曜日事件に対する報復として、多数のポーランド人がアインザッツグルッペンや、武装親衛隊やドイツ国防軍によって処刑された[18]。ドイツの歴史家クリスティアン・ライツ・フォン・フレンツによると、876人のポーランド人が1939年終わり頃までに、ドイツの法廷で裁かれた。87人の男性と13名の女性が控訴権無しの判決を受けた[17]。ポーランドの歴史家、チェスワフ・マダジッチは、血の日曜日事件に関連して、120人が処刑され、ドイツ兵がポーランドの狙撃兵に狙われたのち、20人の捕虜が処刑されたとしている[17][19]。

ドイツ側の報告によると、ポーランドの狙撃手が数日間にわたり、ビドゴシチにいるドイツ軍部隊を攻撃していた(ただし、ポーランド側は、これについては確認していない)[20]。ドイツ側の総督であるウォルター・ブレーマー将軍(後方軍地域司令官)は[21]、数日間にわたり80人のポーランド人の人質の処刑を命じた[17]。9月8日までには、200人から400人のポーランド人が殺害された[18]。リチャード・ローデスによると[22]、多数のボーイスカウトが市場にある壁に立たされ、射殺された。最後の晩餐を執り行うために、駆け付けた牧師も撃たれ、5か所に銃創を負った。虐殺は1週間続き、街にいた34人の主だった商人は撃たれ、その他多くの有力者も射殺された。

多くのポーランド人、とりわけ知識階級に属する人やユダヤ人は、強制移送か即座に殺されるかした[19]。ビドゴシチの20,000人以上のポーランド人(同市の14 %の人口に相当)は、射殺されるかドイツ軍が占領中に強制収容所で死んだ[23]。

1948年 – ソ連による朝鮮の占領が終了し、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立。

1949年 – カナディアン航空機爆破事件が起こる。23人死亡。

1988年 – 篠崎ポンプ所女性バラバラ身元不明殺人事件が、被害者の遺体発見により発覚する。未解決。

1996年 – 柴又三丁目女子大生殺人発生[7]。未解決。

2004年 – 豊明母子4人殺害事件: 愛知県豊明市沓掛町の民家で母子4人が殺害され、家が放火される事件が発生。発生19年後の2023年9月時点でも未解決となっている。

チャットgpt先生の9月9日のエッセイ


9月9日という日 ――歴史と記憶の交差点

 暦の上で9月9日は、旧暦の七月十八日にあたり、赤口という日である。干支では「辛巳」、年末まで残り113日。陰陽道的には隠遁日にあたるという。数値で見れば単なる「日付」にすぎないが、振り返ればこの日には古代から現代にいたるまで、人類の営みの縮図のような出来事が刻まれている。

 701年、大宝律令が完成した。律令国家の根幹をなすこの法は、後世の政治秩序の基盤となった。そして999年、長保元年令が発令され、「神仏を大切にせよ」「身分に応じた節度を守れ」という条文が示された。ざっくり言えば「信仰を怠るな、贅沢を慎め」という戒めである。千年前の規範が、現代にも通じる倫理を含んでいることは興味深い。

 一方、9月9日は戦争の記憶にも重なる。1513年のフロドゥンの戦いでは、スコットランド王ジェームズ4世が討たれ、数万人が命を落とした。1547年には小田井原の戦いが始まり、戦死者三千、捕虜や女子供は奴隷や商品として扱われたという。戦国の苛烈さがそこにある。さらに20世紀に入れば、1922年のイズミル占領や1939年のビドゴシチでの住民虐殺事件など、戦争の暴力が民間人を直撃する事例が続く。

 また1945年9月9日、岡村寧次大将が南京で降伏文書に署名し、日中戦争は終結した。長く続いた戦火の幕引きの日であったが、裏返せば数百万の命が奪われた果ての出来事である。その翌年には北朝鮮建国の記念日ともなり、この日付は東アジア近代史に深く刻まれている。

 さらに近年の日本社会に目を向けると、この日は未解決事件の記録にも重なる。1988年の篠崎ポンプ所女性バラバラ殺人事件、1996年の柴又三丁目女子大生殺人、2004年の豊明母子4人殺害事件――。いずれも真相は闇に包まれたままだ。戦国期の「敵兵の処遇」から、現代都市の「不可解な殺人」まで、人が人を裁き、傷つけ、時に理由もなく奪う姿は、時代を超えて繰り返されている。

 しかし9月9日には、律令や法度、町火消の再編といった「秩序を築こうとする試み」もまた存在してきた。壊す力と守る力、その両方がこの日に同居している。

 年の瀬まで残り113日という地点に立ち、この日を見つめると、単なる数字の並びの奥に「人類史の縮図」が見えてくる。制度が作られ、戦があり、都市が燃え、国が生まれ、そして事件が未解決のまま時を越えて語られる。

 9月9日は、勝利の記念日であり、降伏の記念日であり、悲劇の記念日でもある。過去の出来事をただの年表として流すのではなく、その裏にある「人の営み」を見つめるとき、この日は私たちに問いかけてくる。
 ――秩序をどう築き、暴力をどう抑え、記憶をどう継承するのか。

 今年の9月9日、空を見上げれば月齢16.8の名残の満月が浮かんでいる。人の営みは変わり、時に血で染まりながらも、月は変わらずそこに在り続ける。歴史の重みを胸に、残る113日をどう生きるかを、静かに思索する日にしたい。