kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月30日  1995ボスニアヘルツェゴビナ空爆開始、ほか写真wikipedia廃墟のサラエボ国立図書館

8月30日

20250830土曜日旧暦7月8日友引(辛未かのとひつじシンビ)月齢 6.8

乙巳きのとみ年甲申きのえさる月辛未かのとひつじ日 

吉方位 隠遁日 辛未かのとひつじ日 北西 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8830%E6%97%A5

8月30日の出来事

1363年(至正23年7月21日) – 鄱陽湖の戦いが始まる。明建国の朱元璋とライバル陳友諒チンユウリョウとの実質決戦。朱元璋はこれを下し、明建国に近づく。

損害 朱元璋軍 20万のうち戦死7000人 陳友諒軍60万のうち斬首2000人その他死亡数えきれずという壊滅的敗北。

1590年(天正18年8月1日) – 徳川家康が江戸城に入城[1]。入城日は、後に八朔御祝儀の日になる。

1615年(元和元年7月7日) – 江戸幕府が武家諸法度を発布。

1721年 – ユリウス暦のこの日(グレゴリオ暦においては9月10日)、ニスタット条約の締結により大北方戦争が終結。

戦争:大北方戦争

年月日:1700年2月22日 – 1721年9月10日

場所:北東ヨーロッパ

結果:スウェーデン側の敗北、帝政ロシアの成立

損害:20年で

双方で 各20万人程度合計三十数万人の戦死 病死 

1757年 – 七年戦争: グロース=イェーゲルスドルフの戦い。プロイセン王国対ロシア帝国

損害 プロイセン25000中死傷5000人 ロシア75000中死傷5400人。

1813年 – クリーク戦争ミムズ砦虐殺: クリーク族インディアンの一派「レッド・スティックス」がアラバマ・モービルのミムズ砦を襲撃し住民を虐殺。クリーク族インディアンレッドスティクスがミムス砦を襲撃し、白人と白人の仲間のインディアン住人を虐殺。

損害 レッドスティクス750人中戦死100人 白人他兵士500人程度中戦死捕虜517人

1862年 – 南北戦争: リッチモンドの戦いが始まる。8月29日から30日の戦闘 南軍の完勝。損害 北軍戦傷5353人 南軍戦傷451人。

1974年 – 三菱重工爆破事件。8人死亡、376人負傷[4]。

1995年 – ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争: NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆が行われる。NATO史上最大規模の航空作戦で、第二次世界大戦以降ではヨーロッパ最大規模の空爆となった[7]。

1992から1995で 死傷20万人 難民200万人の発生。今日の欧州混沌の原因の一つ。この空爆はその戦闘上最大の規模のものである。

2021年 – アフガニスタンから米軍が完全撤退。アメリカ史上最長となる2001~2021の20年間の戦争が終結した[12]。アフガニスタン タリバーンの勝利。米国の威信失墜。損害 多国籍軍50万人(政府軍40万人)中 死傷政府軍66000人+多国籍軍2500人+民間人47000人タリバーン 10万人中 戦死51191人。

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1363年(至正23年7月21日) – 鄱陽湖の戦いが始まる。明建国の朱元璋とライバル陳友諒チンユウリョウとの実質決戦。朱元璋はこれを下し、明建国に近づく。

損害 朱元璋軍 20万のうち戦死7000人 陳友諒軍60万のうち斬首2000人その他死亡数えきれずという壊滅的敗北。

鄱陽湖の戦い(はようこのたたかい)は、1363年の中国で起こった朱元璋と陳友諒の間の湖上戦。この戦いで陳友諒は戦死し、朱元璋は西方の憂いを無くした。

1363年(至正23年7月21日) – 鄱陽湖の戦いが始まる。明建国の朱元璋とライバル陳友諒チンユウリョウとの実質決戦。朱元璋はこれを下し、明建国に近づく。

損害 朱元璋軍 20万のうち戦死7000人 陳友諒軍60万のうち斬首2000人その他死亡数えきれずという壊滅的敗北。

1590年(天正18年8月1日) – 徳川家康が江戸城に入城[1]。入城日は、後に八朔御祝儀の日になる。

1615年(元和元年7月7日) – 江戸幕府が武家諸法度を発布。

1721年 – ユリウス暦のこの日(グレゴリオ暦においては9月10日)、ニスタット条約の締結により大北方戦争が終結。

戦争:大北方戦争

年月日:1700年2月22日 – 1721年9月10日

場所:北東ヨーロッパ

結果:スウェーデン側の敗北、帝政ロシアの成立

損害:20年で

双方で 各20万人程度合計三十数万人の戦死 病死 

概要

当初、北方同盟はピョートル1世のロシア、フレデリク4世のデンマーク=ノルウェー、アウグスト2世(強健王)のザクセン=ポーランド=リトアニアから構成されていた。フレデリク4世とアウグスト2世はスウェーデンに敗れて1700年と1706年に脱落したが、1709年に再加入している。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公(ハノーファー選帝侯)兼イギリス王ジョージ1世(ゲオルク1世ルートヴィヒ)は1714年にハノーファーとして同盟に加入し、1717年にはイギリスとして参戦した。また1715年にはブランデンブルク=プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が参加した。スウェーデン側ではカール12世のスウェーデンを始め、ホルシュタイン=ゴットルプ公領が、1704年から1710年の間にスタニスワフ・レシチニスキの下にポーランドとリトアニアの諸侯が、1708年から1710年にはコサックのイヴァン・マゼーパがそれぞれ参戦した。オスマン帝国は一時期スウェーデン王カール12世を庇護してピョートル1世に対して介入した。

戦争は、デンマーク=ノルウェーによるホルシュタイン=ゴットルプ、ザクセン=ポーランド=リトアニアによるスウェーデン領リヴォニア (en) そしてロシアによるスウェーデン領イングリアに対する三方面からの攻勢で始まった。スウェーデンはトラヴェンタールとナルヴァでデンマークとロシアの攻撃を撃退し、アウグスト2世への反攻ではリトアニア、ポーランドからザクセンへと追撃し、アルトランシュテット条約で敗北を認めさせ、彼を退位させた。 一方、ピョートル1世はスウェーデンのバルト地方を奪取し、この地にサンクトペテルブルクを建設してバルト海への出口を固めた。 カール12世はピョートル1世と対するべく、ザクセンからロシアへ戻ったが、ロシア遠征はポルタヴァでのスウェーデン主力軍の壊滅とカール12世のオスマン帝国領ベンデルへの逃亡で終わった。 ロシア軍の追撃はオスマン帝国軍の介入によってプルト川(プルト条約)で頓挫した。

ポルタヴァの戦い後、当初の北方同盟が再建され、その後ハノーファーとプロイセンが加盟した。バルト海の南と東のスウェーデン軍残余は追い払われ、スウェーデン領土は連合国によって分割された。スウェーデン本国は西からデンマーク=ノルウェー、東方からはロシアに侵入された。デンマークの攻撃はヘルシングボリの戦い (en) で撃退されたが、ロシアはフィンランドを占領し (大いなる怒り) 、スウェーデン海軍と沿岸要塞に深刻な打撃を与えた。カール12世はノルウェーに戦線を開いたが、1718年にフレデリックスハルド (en) で戦死した。

戦争はスウェーデンの敗北で終わり、ロシアがバルト海における新たな列強国となり、ヨーロッパ政治における新しい重要なプレーヤーとなった。正式な講和はスウェーデンとハノーファー、プロイセンとは1719年のストックホルム条約、デンマークとは1720年にフレデリクスボー条約、ロシアとは1721年にニスタット条約がそれぞれ結ばれている。 これによって、スウェーデンはフィンランド、ズンド海峡、スウェーデン領ポメラニア (en) の北部を除くすべての領土を割譲させられ、 ホルシュタイン=ゴットルプ公領との関係は断たされた。ハノーファーはブレーメン=フェルデン (en) を獲得し、ブランデンブルク=プロイセンはオーデル川河口域を併合し、ロシアはバルト海地方をデンマークはシュレースヴィヒ=ホルシュタインを確保している。スウェーデン絶対君主制はカール12世の死によって終焉し、自由の時代(Frihetstiden)が始まった。一方、ロシアはスウェーデンのバルト海における覇権を奪い取り、ヨーロッパにおける列強の一員となり、また、この戦争で獲得した地に新都サンクトペテルブルクを建設し、1721年、元老院と宗務院がピョートル1世に皇帝(インペラトル)の称号を贈りロシア帝国となった[3]。

1757年 – 七年戦争: グロース=イェーゲルスドルフの戦い。プロイセン王国対ロシア帝国

損害 プロイセン25000中死傷5000人 ロシア75000中死傷5400人。

グロース=イェーゲルスドルフの戦い(グロース=イェーゲルスドルフのたたかい、英語: Battle of Gross-Jägersdorf)は七年戦争中の1757年8月30日、ステパン・フョードロヴィチ・アプラクシン(英語版)陸軍元帥率いる多数のロシア軍がハンス・フォン・レーヴァルト(英語版)陸軍元帥率いる少数のプロイセン軍に勝利した戦闘。戦術的勝利にもかかわらず、アプラクシンはケーニヒスベルクに進軍せず、戦闘が終わるとすぐに撤退した[2]。

1813年 – クリーク戦争ミムズ砦虐殺: クリーク族インディアンの一派「レッド・スティックス」がアラバマ・モービルのミムズ砦を襲撃し住民を虐殺。クリーク族インディアンレッドスティクスがミムス砦を襲撃し、白人と白人の仲間のインディアン住人を虐殺。

損害 レッドスティクス750人中戦死100人 白人他兵士500人程度中戦死捕虜517人

戦いの後と近代の歴史

ミムズ砦史跡

アメリカ合衆国国家歴史登録財

ミムズ砦でのレッド・スティックスの勝利が、アメリカ合衆国南東部のフロンティア全体に恐慌を広げ、開拓者たちは政府の行動を要求し、逃亡した。戦闘後の数週間で、テンソーとトンビッグビー地区人口の約半分にあたる数千人がその開拓地を遁れてモービルに向かい、500人しかいなかったモービルは彼らを迎えるのに苦闘した[26]。レッド・スティックスの勝利はインディアンによる最大級の成果であり[27]、この虐殺は、クリーク族内の内戦から、アメリカ合衆国とアッパー・クリーク族のレッド・スティックス戦士の間の戦争に変わったことを意味した[28]。

1862年 – 南北戦争: リッチモンドの戦いが始まる。8月29日から30日の戦闘 南軍の完勝。損害 北軍戦傷5353人 南軍戦傷451人。

リッチモンドの戦い(リッチモンドのたたかい、英:Battle of Richmond)は、南北戦争中盤の1862年8月29日から8月30日に、南軍のハートランド攻勢(ケンタッキー方面作戦)の一部として、ケンタッキー州リッチモンド郊外、現在ではブルーグラス陸軍補給庫となっている場所周辺で行われた戦闘である。この戦闘は、南北戦争の中で南軍による最も完璧な勝利と言われることがある。

南北戦争の歴史家シェルビー・フットはスミスが「この戦争全体でも北軍と南軍のどの将軍が成し遂げたよりもカルタゴ軍が、ローマの大軍を包囲殲滅したカンナエの戦いに匹敵するものをケンタッキー州で成し遂げた」と記した[2]。

1974年 – 三菱重工爆破事件。8人死亡、376人負傷[4]。

1995年 – ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争: NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆が行われる。NATO史上最大規模の航空作戦で、第二次世界大戦以降ではヨーロッパ最大規模の空爆となった[7]。1992から1995で 死傷20万人 難民200万人の発生。今日の欧州混沌の原因の一つ。この空爆はその戦闘上最大の規模のものである。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア ヘルツェゴビナふんそう、セルビア・クロアチア語:Рат у Босни и Херцеговини/Rat u Bosni i Hercegovini)は、ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで続いた内戦で、ボスニア紛争[1]、ボスニア戦争(英: Bosnian War)ともいう。

およそ3年半以上にわたり全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。

民族浄化

詳細は「民族浄化」を参照

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、各交戦勢力が各々の民族の勢力圏を拡大することを目的としており、「陣取り合戦」の様相を呈していた。このような中で、支配地域から不安要因を取り除く目的で、自勢力の支配下に住む異民族を排除し、勢力圏を民族的に単一にするための民族浄化が行われた。

手段としては各種の嫌がらせや差別的な待遇、武器の没収、家屋への侵入・略奪・破壊、資産の強制接収、暴行・拷問・強姦・殺人によって、その地域から退去せざるを得ない状況に追いやる方法や、強制追放、強制収容、あるいは大量虐殺によって物理的に異民族を地域から取り除く方法がとられた。

従軍可能年齢にある男性は各地で虐殺や強制収容の対象とされた。

2021年 – アフガニスタンから米軍が完全撤退。アメリカ史上最長となる2001~2021の20年間の戦争が終結した[12]。アフガニスタン タリバーンの勝利。米国の威信失墜。損害 多国籍軍50万人(政府軍40万人)中 死傷政府軍66000人+多国籍軍2500人+民間人47000人タリバーン 10万人中 戦死51191人。

アフガニスタン紛争

アフガニスタン紛争(パシュトー語: د افغانستان کورنۍ جګړه‎)とは、2001年から2021年にかけてアフガニスタンで勃発した紛争である。 この紛争、または戦争ではアメリカ軍やそれに支援されたアフガニスタン・イスラム共和国新政府と、ターリバーンやアルカーイダなどの武装勢力が争った。

結果として、一時的には米英軍と北部同盟が勝利し、アフガニスタンのターリバーン政権は崩壊して降伏し[21]、また、アメリカ同時多発テロ事件を起こした被疑者で行方不明となっていたアルカーイダのウサーマ・ビン・ラーディンはその後米軍により発見され、殺害された[22]。

また、ターリバーン政権崩壊後の同国では、ボン合意に基づき国連主導での国づくりや復興、民主化が行われ、暫定政権から新政府が成立した[23]。

しかしその後、同国の治安は極端に悪化し[24]、ターリバーンによる攻撃が続いたため、アメリカとターリバーンの和平合意であるドーハ合意が締結され[25]、米軍は撤退[26]。その後ターリバーンは大攻勢をかけ、首都カーブルを陥落させ、ガニー政権は崩壊。ターリバーンが政権を掌握した[27]事で終結した。

この紛争は、ベトナム戦争(1955年 – 1975年)を約5か月上回り、米国軍事史上最長の戦争となった[28]。

チャットgpt先生の8月30日のエッセイ


8月30日の記憶 ― 歴史に刻まれた戦争と転換の日

暦の上では、2025年8月30日は旧暦7月8日。友引、月齢6.8、吉方は北西と記される。静かに空を見上げればただの夏の一日である。しかし、この日付を歴史の頁でたどれば、そこには驚くほど多くの「戦いの記憶」が折り重なっている。

1363年の中国、朱元璋と陳友諒が鄱陽湖で激突した。数十万の兵が湖上で火を交え、陳友諒の大軍は壊滅、朱元璋は明建国へと歩を進めた。人の生死は数万単位で記録されるのみで、湖面には数えきれぬ屍が漂ったことだろう。勝者の歴史は「明の創始」と呼ばれるが、その背後には膨大な人命がある。

やがて時は流れ、17~18世紀のヨーロッパ。1721年、ニスタット条約が結ばれ、大北方戦争が終結した。20年にわたる戦いの末、スウェーデンは大国の座を失い、ロシアが帝国として歴史の表舞台に立つ。国の興亡は血と病の上に築かれる。両陣営合わせて30万人を超える死が、ひとつの「条約」という一枚の紙に収束していった。

同じ8月30日、1757年には七年戦争の一環としてグロース=イェーゲルスドルフの戦いが起きた。ロシア軍とプロイセン軍が衝突し、また数千の命が散る。戦術的勝利を得ても戦略を活かせぬまま撤退するロシア。戦場に横たわる兵士の死は、勝利の有無に関わらず同じ重さを持つ。

19世紀のアメリカ大陸では、1813年のミムズ砦虐殺がある。クリーク族「レッド・スティックス」の襲撃は、白人入植者と同盟インディアンを巻き込み、虐殺と報復の連鎖を呼び起こした。文明の境界線での衝突は、のちにアメリカ南東部全体を戦火に巻き込むことになる。

また1862年、南北戦争のリッチモンドの戦いでは、南軍が北軍を完膚なきまでに打ち破った。歴史家シェルビー・フットはこれを「カンナエに匹敵する」と評したが、その美辞麗句の陰には、5千人を超える北軍兵士の呻き声があった。

20世紀、戦の姿はさらに変貌する。1974年の三菱重工爆破事件では、兵士ではなく市民が狙われ、8人が即死、数百人が重軽傷を負った。戦場は都市の真ん中へと入り込む。

1990年代のボスニア紛争では「民族浄化」という言葉が現実のものとなった。死者20万人、難民200万人。8月30日のNATO空爆は、ヨーロッパ戦後史で最大の航空作戦であり、しかし同時に「介入の限界」をも示す。

そして記憶に新しい2021年。アメリカはアフガニスタンから完全撤退し、20年続いた戦争は終結した。死傷者の数字は冷徹に積み上げられるが、その背後には村ごと消えた生活、失われた未来がある。米軍の撤退は「帝国の威信の失墜」と呼ばれたが、もっとも深く傷ついたのはアフガンの民であった。


こうして振り返ると、8月30日はしばしば「戦いの転換点」となっていることに気づかされる。湖上での決戦、条約による戦争終結、都市へのテロ、民族浄化、そして長大な戦争の幕引き。歴史の偶然は、この日を戦争の縮図のように染め上げている。

一方で、私たちの日常において8月30日はただの夏の終わりの一日だ。蝉の声が弱まり、夕暮れが早くなり、涼風がそっと吹く。その静けさの背後に、数百年分の叫び声と沈黙が折り重なっていることを知るとき、今ここにある平穏がどれほどかけがえのないものかを思い知らされる。

だからこそ8月30日は、記念日ではなく「記憶の日」として意識したい。歴史の中で消えた人々の声なき声に耳を傾けることで、私たちはようやく今日を生きる責任を学ぶのだろう。