8月27日
20250827水曜日旧暦7月5日大安(戊辰つちのえたつボシン)月齢 3.8
乙巳きのとみ年甲申きのえさる月戊辰つちのえたつ日 年末まであと126日
吉方位 隠遁日 戊辰つちのえたつ日
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8月27日の出来事
紀元前479年 – ペルシャ戦争: プラタイアの戦い。ギリシア連合軍とアケメネス朝ペルシアの戦い 損害 11万のギリシア連合軍の死者は143人 30万人のペルシアの死者は200000人。
1597年(慶長2年7月15日) – 慶長の役・漆川梁海戦: 日本水軍が朝鮮水軍を撃滅する。
損害 日本僅少 朝鮮水軍 鹵獲軍艦160隻以上 死数千人
1776年 – アメリカ独立戦争: ロングアイランドの戦いの本格的な戦闘が始まる。
アメリカ軍1万とイギリス軍2万の戦闘
損害 アメリカ軍 戦死300人捕虜1000人 イギリス軍 死傷350人
1883年 – オランダ領東インド(現インドネシア)のクラカタウ島が大噴火。島の2/3がこの時に消失したばかりか火砕流や津波が周辺海域にまで及び、36,417名の死者を出す。
1896年 – イギリス・ザンジバル戦争。大英帝国がザンジバル・スルタン国を破る。40分間で終結した世界最短の戦争。東アフリカ 英国1000人対 ザンジバル3000人
損害 英国負傷1名 ザンジバル死傷500名
1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 敦化事件。ソ連兵に連日強姦され続けた日本女性たちの集団自決。日満パルプ工場の関係者の事件のため日満パルプ事件ともいう。青酸カリにて23人が死亡、5人が死に切れずに生き残った。
2006年 – コムエアー5191便離陸失敗事故。ケンタッキー州で、レキシントン発アトランタ行き米コムエアー旅客機が離陸に失敗。49人死亡。生存1人。
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紀元前479年 – ペルシャ戦争: プラタイアの戦い。ギリシア連合軍とアケメネス朝ペルシアの戦い 損害 11万のギリシア連合軍の死者は143人 30万人のペルシアの死者は200000人。
プラタイアの戦い(プラタイアのたたかい、プラタイアイの戦いとも、英:Battle of Plataea)は、クセルクセス1世の遠征後の紀元前479年8月、ペルシア残存勢力とペルシア側についたギリシアの諸ポリスに対して、スパルタ、コリントス、アテナイなどのギリシア連合軍が出撃し、これを撃退した戦いである。右翼についたスパルタ軍だけで大半のペルシア兵を討ち取り、それが直接的な勝因に繋がった。
1597年(慶長2年7月15日) – 慶長の役・漆川梁海戦: 日本水軍が朝鮮水軍を撃滅する。
損害 日本僅少 朝鮮水軍 鹵獲軍艦160隻以上 死数千人
漆川梁海戦(しっせんりょうかいせん。巨済島海戦とも)は、慶長の役の緒戦において、日本水軍と朝鮮水軍の間で戦われた海戦。敗北した朝鮮水軍は殆ど壊滅し、陸海で日本軍が西進する端緒となった。
1776年 – アメリカ独立戦争: ロングアイランドの戦いの本格的な戦闘が始まる。
アメリカ軍1万とイギリス軍2万の戦闘
損害 アメリカ軍 戦死300人捕虜1000人 イギリス軍 死傷350人
ロングアイランドの戦い(英: Battle of Long Island、別名ブルックリンの戦い英: Battle of Brooklynまたはブルックリンハイツの戦い英: Battle of Brooklyn Heights)は1776年8月22日から同年8月30日にかけて(会戦は8月27日)、現在のニューヨーク市ブルックリンを主戦場にして戦われた、アメリカ独立戦争の主要な戦闘のひとつであり、この戦争の中では最大の会戦である。アメリカ独立宣言から1ヶ月余り後のことであり、独立国アメリカ合衆国の軍隊が戦った初めての戦闘となった。
戦闘の終結
損失
当時、この戦闘は北アメリカで戦われた最大の戦闘になった[63]。イギリス海軍を加えれば、総勢4万名以上の兵士が戦闘に参加した。ハウの報告では戦死59名、負傷267名、不明31名だった。ドイツ人傭兵部隊は戦死5名、負傷26名だった[4]。大陸軍はさらに多くの損失を出した。約300名が戦死し、1,000名以上が捕虜になった[3]。
1883年 – オランダ領東インド(現インドネシア)のクラカタウ島が大噴火。島の2/3がこの時に消失したばかりか火砕流や津波が周辺海域にまで及び、36,417名の死者を出す。
1883年の5月10日、微々たる揺れ(空気の振動や風の響きがかろうじて感じる程度)が始まった[10]。 5月15日、振動は前回よりも強く長く続き、広範囲で感じられた[11]。 5月20日、ラカタ島で水蒸気爆発を伴う噴火が始まり、同時に発生した地震は数年にわたって観測された。 8月11日、同島の3つの火山が噴火した。 そして8月26日日曜日の午後1時6分に地震の雷鳴が聞こえた。次の8月27日月曜日バタヴィア時間午前10時02分(現地時間9時58分)に大噴火が起こった。 噴火で発生した火砕流は海上40kmを越え、スマトラ島ランプン湾東部の Ketimbang(インドネシア語)で人間を殺傷した(The Burning Ashes of Ketimbang)。また、噴火により発生した津波が周辺の島を洗い流し、航海中の船を激しく揺さ振った。死者は36,417人に及び、2004年にスマトラ島沖地震が起こるまではインド洋における最大の津波災害であった。地質学史上、第5番目の爆発規模と考えられている[12]。
この噴火は海底ケーブルによって全世界に報道された、史上初の大規模災害である[要出典]。
1896年 – イギリス・ザンジバル戦争。大英帝国がザンジバル・スルタン国を破る。40分間で終結した世界最短の戦争。東アフリカ 英国1000人対 ザンジバル3000人
損害 英国負傷1名 ザンジバル死傷500名
イギリス・ザンジバル戦争(イギリス・ザンジバルせんそう、英: Anglo-Zanzibar War)は、1896年8月27日にイギリスとザンジバル保護国の間で発生した軍事衝突である。この衝突は45分で終了し、ギネス世界記録に史上最短の戦争として記録されている[3]。
1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 敦化事件。ソ連兵に連日強姦され続けた日本女性たちの集団自決。日満パルプ工場の関係者の事件のため日満パルプ事件ともいう。青酸カリにて23人が死亡、5人が死に切れずに生き残った。
背景
ソ連軍による満洲国侵攻
事件の現場となった日満パルプ製造敦化工場は、1934年に王子製紙が敦化県城南門外牡丹江左岸(敦化郊外5キロ)に設立した工場である[3][4]。
工場に隣接して設置された社宅地は、高さ4.5mの煉瓦壁でおおわれた2万坪の敷地内に壮麗な造りの社宅と福利厚生のためのクラブなどが設けられており、日本人職員とその家族260人が暮らしていた[3]。また、敦化市内には2,000人の関東軍守備隊の駐屯地があり、終戦当時には敦化北部の山地に築城しソ連軍の侵攻を食い止めようと備えていた[5]。
1945年8月9日未明に突如としてソビエト連邦が満洲国に侵攻し、敦化に近い東部国境付近では関東軍・満洲国軍がソ連軍と交戦していたが、工場や敦化市内では満人や朝鮮人の態度も変わることなく治安が保たれたままであった[6]。8月15日に敗戦を迎えた後も工場の満人や朝鮮人従業員は変わることはなかったが、敦化市内では満人や朝鮮人の一部による略奪・放火・日本人女性への暴行が行われるようになった[7]。8月17日、敦化郊外で陣地を築いていた敦化守備隊は工場に資材を取りに来て初めて終戦を知った[7]。8月19日、ソ連軍が敦化市内に進駐してきたため、敦化守備隊は降伏し武装解除された[8]。
ソ連軍進駐
8月22日、ソ連軍は日満パルプ製造敦化工場に進駐し、社宅に侵入すると1時間以内に社宅の一角を引き渡すよう要求した[9]。ソ連兵はすぐにホテル・レストランを兼ねた豪華な装飾のクラブに気付き、その豪奢さを高級性接待所のようなものではないかと疑い、質問してきた。会社側は否定したものの、それにしては部屋の数と女性の数が多すぎるとソ連兵はなおも追及し、会社側は全員が(通常の)社員だと説明したという。しかし結局、ソ連兵はクラブ従業員の女性2人を引きずり出すとジープで社宅から連れ去った。拉致された女性は強姦され、数時間後に一人は社宅に帰ってきたが、もう一人の若い女性は帰途に牡丹江にはまって流され行方不明となった。この事件を伝えた者は、一人は以前にその種の店(原文:飲食店)で働いていた女性だったが、行方不明となったもう一人は未婚の全くの素人女性だったとして、投身自殺した可能性を示唆している。[10]
8月25日、ソ連軍は男性全員を集合させると10キロほど離れたところにある飛行場の近くの湿地に連行し、婦女子は独身寮に集められた[11][12]。170人ほどの婦女子は15,6人ずつに分けられ監禁されることとなった[13]。夜になると、ソ連兵300人あまりが独身寮に移ってくるとともに、短機関銃を乱射する頻度が夜が更けるにつれて増えていった[14]。女性たちは夜が明けることを祈りながら一晩中恐怖と戦っていた[14]。
集団自決
8月26日夜明け、酒に酔ったソ連兵たちは短機関銃を空に乱射しながら女性たちが監禁されている各部屋に乱入すると、女性たちの顎をつかみ顔を確認しながら、気に入った女性たちを連れて行こうとした[15][11]。女性たちは金品を渡したり、許しを懇願したが聞き入れられず、次々に引きずり出されていった[15]。各部屋からは女性たちの悲痛な叫びがあふれたが、ソ連兵は構うことなく短機関銃を乱射し続けていた[15]。このため、女性たちは頭を丸坊主にしたり、顔に墨を塗るなどしたが、ソ連兵による強姦は朝になっても収まることはなく、部屋に乱入すると女性たちの胸部をまさぐるなどして気に入った女性たちを何度も連行していった[15]。社宅と塀を隔てた工場に残されていた男性社員たちは、社宅の異変を察知するとソ連兵の監視をかいくぐり塀を乗り越え社宅に潜入したが、厳重な警戒が敷かれている独身寮には近づくことができなかった[16]。ソ連兵たちは狼藉を続けるうちに女性たちの部屋の廊下に監視兵を置くようになったため、御不浄や食事もままならないようになった[16]。女性たちは自身のおかれている状況や絶え間ない銃声から、すでに男性社員たちは皆殺しにあったのではないかと考えるようになった[17]。ソ連兵による女性たちへの昼夜に渡る暴行は8月27日の深夜になっても収まることはなかった[17]。このため、28人の婦女子が集められていた部屋では自決をするべきか議論がなされるようになった[18][19]。議論中にもソ連兵の乱入があり、隣室からも女性たちの悲鳴や「殺して下さい」などの叫び声が聞こえてきたため、自決することに議論が決した[19]。隠し持っていた青酸カリが配られ全員が自決を図り、23人が死亡、5人が死に切れずに生き残った[18]。他の部屋ではソ連兵に引きずり出されるときに剃刀で自殺を図った女性もいた[20]。
8月27日早朝、ソ連兵が集団自決を発見し、将校に報告されると各部屋にはソ連兵の見張りが付けられ、女性たちは外を見ることを禁じられ、遺体はどこかへ運び去られた[11]。責任を問われることを恐れたソ連軍将校によって、これ以上の暴行は中止されることとなった[21]。
事件後
その日のうちに女性たちは男性社員が野宿させられている飛行場のそばの湿地に連行された[12]。その後、8月末までは湿地や飛行場で待機させられ、シベリアに連行される日本軍部隊から密かに食料や毛布などを分けてもらうなどしていたが、牡丹江対岸の熊本県開拓団の小学校に遷されると、毎日のようにソ連軍による略奪が行われ、女性を裸にしてまであらゆるものを奪い去っていった[22]。一切のものを奪われたため、男性社員たちは街に出て材木運びなどの労働に出て僅かな賃金を稼ぐことで命をつなぐこととなった[23]。また、ソ連へ戦利品として工場設備から列車の線路にいたる全てのものを持ち去るための解体作業を昼夜に渡って行わされた[24]。その後、敦化市内の旧軍人会館に移転させられたが、冬が訪れると飢えと寒さと発疹チフスのために87人が死亡した[24]。
2006年 – コムエアー5191便離陸失敗事故。ケンタッキー州で、レキシントン発アトランタ行き米コムエアー旅客機が離陸に失敗。49人死亡。生存1人。
8月27日 ― 勝利と惨禍のはざまで
暦の上で8月27日は、ただの夏の一日ではない。
過去をひもとけば、この日は古代から現代に至るまで、勝利の歓声と絶望の叫びが入り混じる、鮮烈な記憶の集積所である。
紀元前479年、プラタイアの戦い。ギリシア連合軍は数十倍の大軍を率いるペルシアを打ち破った。記録によれば、ギリシア側の死者はわずか143人、ペルシア側は20万人に及んだという。歴史の記述には誇張も混じるだろうが、この戦いがギリシア文明の存続を決定づけたのは疑いない。勝利の報せは、古代の人々に「数の差がすべてではない」という教訓を刻みつけたはずだ。
しかし勝利の物語の陰に、別の8月27日がある。
1597年、漆川梁海戦。日本水軍は朝鮮水軍をほぼ壊滅させた。鹵獲艦は160隻以上、死者は数千にのぼる。戦果として記録される数字は、同時に失われた命の数でもある。数字の冷たさは、死者の温もりを覆い隠す。
1776年のロングアイランドの戦いでは、アメリカ独立戦争初期の大規模会戦が繰り広げられた。独立宣言からわずか一ヶ月余り、若い国は大敗を喫し、捕虜千人を失った。それでもアメリカは戦い続け、後に勝利をつかむ。この日は「敗北を抱えて前に進む」試練の日でもあった。
そして自然は、人の歴史よりも容赦がない。
1883年、この日クラカタウ島が大噴火し、島の2/3が消えた。火砕流は海を越え、津波は周囲の村々を呑み込み、3万6千人以上が命を落とした。地球の鼓動は時に、人間の文明など一瞬で消し去る。
極めて短い戦争も、この日に起こった。1896年のイギリス・ザンジバル戦争は、わずか40分で終結。勝者は大英帝国、敗者はザンジバル・スルタン国。銃火の時間は短くとも、敗北の痛みは長く残っただろう。
しかし8月27日の記憶で最も胸を締め付けるのは、1945年の敦化事件だ。終戦からわずか12日、満洲の一角でソ連兵による暴行の嵐が吹き荒れ、女性たちは絶望の末に集団自決を選んだ。青酸カリを分け合い、23人が息絶え、5人が生き残った。ここには戦争の勝敗も、戦果の数字もない。ただ「人が人であることを奪われた瞬間」の記録があるのみだ。
そして2006年、ケンタッキー州でコムエアー5191便が離陸に失敗し、49人が命を落とした。生き残ったのは一人だけ。高度も戦況も関係ない、日常の中で命が失われる日もまた、8月27日だ。
こうして並べると、8月27日は、人間の歴史の縮図のように思える。
勝利、敗北、天災、暴力、事故。
そこには「誰かにとっての歓喜」が、別の誰かにとっての悲劇と表裏一体で存在している。
歴史は日付のカレンダーに静かに並んでいるが、その一つひとつの背後には、熱と痛みと希望がある。
今日という日をただの一日として過ごすか、それとも「この日に何があったか」を胸に刻むか。それは、私たち次第だ。