8月22日
20250822金曜日旧暦6月29日仏滅(癸亥みずのといキガイ)月齢 28.3
乙巳きのとみ年甲申きのえさる月癸亥みずのとい日 年末まであと131日
吉方位 隠遁日 癸亥みずのとい日
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8月22日の出来事
1639年 – 東インド会社により、インドにマドラス(現チェンナイ)が創設される。
1777年 – アメリカ独立戦争: スタテン島の戦い行われる。
戦争:アメリカ独立戦争
年月日:1777年8月22日
場所:ニューヨーク、スタテン島
結果:戦術的にはイギリス軍の勝利、戦略的には影響なし
損害 アメリカ独立軍 戦死行方不明300人 イギリス軍 戦死行方不明100人
1944年 – 第二次世界大戦: 対馬丸事件。学童疎開船「対馬丸」がアメリカ海軍の潜水艦に撃沈され、乗員乗客1418名が死亡。
1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 三船殉難事件。樺太からの引揚船3隻がソ連軍の潜水艦に攻撃され2隻が沈没、1700名以上死亡。
1945年 – 肥薩線列車退行事故、53名が死亡。
1945年 – 愛宕山事件: 8月15日から愛宕山に篭城していた右翼団体・尊攘同志会会員ら12人が手榴弾で自決。
1981年 – 台湾で遠東航空103便墜落事故。作家の向田邦子ら110人全員死亡。
1985年 – イギリスでブリティッシュ・エアツアーズ28M便火災事故。ボーイング737がマンチェスター空港を離陸する際左側のエンジンが爆発、機体が二つに折れて炎上し、54人死亡。
1999年 – 中華航空642便着陸失敗事故。バンコク発香港行きの中華航空機が香港国際空港上空で台風の突風に遭遇し着陸に失敗、3名が死亡。
2006年 – プルコボ航空612便墜落事故。170名死亡(全員)。
2022年 – 名古屋高速バス横転炎上事故が発生。2名死亡7人負傷。
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1639年 – 東インド会社により、インドにマドラス(現チェンナイ)が創設される。
概要
インド有数の世界都市であり、人口は700万人。2018年の都市圏人口は約1330万人であり、同国第4位である。
1996年にマドラス(Madras)から正式に改名された。和名の麻打拉薩、孟打拉沙、馬搭喇はいずれもマドラスから来ている[1]。
「南インドの玄関口」「南アジアのデトロイト」「インドの健康首都」「インド銀行業の首都」の異名を持つ。
自動車産業、情報技術産業、ビジネス・プロセス・アウトソーシング業が盛んである。
1777年 – アメリカ独立戦争: スタテン島の戦い行われる。
戦争:アメリカ独立戦争
年月日:1777年8月22日
場所:ニューヨーク、スタテン島
結果:戦術的にはイギリス軍の勝利、戦略的には影響なし
損害 アメリカ独立軍 戦死行方不明300人 イギリス軍 戦死行方不明100人
スタテン島の戦い(英: Battle of Staten Island)は、アメリカ独立戦争中の1777年8月22日に、ジョン・サリバン少将の指揮する大陸軍が、ニューヨークのスタテン島を守るイギリス軍を襲ったときの戦闘である。サリバンは予測していたように多くの捕虜を捕まえることができず、むしろ船が足りなかったために自軍の兵士約200名を捕虜に取られた。サリバンはこの襲撃に失敗したことで告発されたが、1777年の後半に開かれた軍法会議では全てが無罪になった。
1944年 – 第二次世界大戦: 対馬丸事件。学童疎開船「対馬丸」がアメリカ海軍の潜水艦に撃沈され、乗員乗客1418名が死亡。
対馬丸(つしままる)は、日本郵船のT型貨物船の一隻で、総トン数6,754トンの貨物船[4]。旧字体の表記は對馬丸[4]。
太平洋戦争中の1944年8月、疎開船として民間人や児童ら計約1,700名を乗せて那覇から長崎へ向かう途中、8月22日にアメリカ海軍の潜水艦「ボーフィン」からの魚雷攻撃を受け沈没し、大きな犠牲を出した[5]。
事件前後から終戦まで
対馬丸が撃沈された事件については緘口令が布かれたが、疎開先から来るはずの手紙がない事などから、たちまち皆の知るところとなった。このため一時は疎開に対する反発などがあったが、1944年(昭和19年)10月10日の那覇市への空襲(十・十空襲)があってからは疎開者が相次いだ。対馬丸沈没の前後には潜水母艦迅鯨および長鯨、軽巡洋艦長良、練習巡洋艦鹿島などの艦艇も沖縄へ兵力を輸送する任務の帰途に疎開輸送を行った。沖縄からの疎開輸送には、1944年(昭和19年)7月から1945年(昭和20年)3月まで艦船延べ187隻が繰り出され、8万名以上が日本本土と台湾へ疎開した[72]。ただし、この数字にそれ以外の時期や客船や漁船などによる自主的疎開は含まれていない。
対馬丸の他に、事故やアメリカ軍の攻撃によって27隻もの各種船舶が沖縄・奄美近海に沈んだ。その多くは、嘉義丸、湖南丸、宮古丸のような定期船や、富山丸のような軍隊輸送船であった。厚生省の調査では、3月上旬までの沖縄からの187隻の疎開船のうち犠牲者を出したのは対馬丸が唯一の事例である[72]。調査外の時期の疎開船で犠牲者を出した事例としては、約70人が死亡したとみられる尖閣諸島戦時遭難事件が存在する。また、鹿児島県の徳之島からの疎開船武洲丸(日之出汽船、1,222トン)も同年9月25日に潜水艦により撃沈されており[73]、対馬丸以外で唯一潜水艦に撃沈された南西諸島からの疎開船と見られる[74]。
モ05船団、609船団、ナモ103船団で対馬丸と行動をともにした暁空丸は約1ヵ月後の9月18日[75]、節船団で門司から上海に向かう途中にアメリカ潜水艦スレッシャー (USS Thresher, SS-200) の雷撃で沈没し[76]、和浦丸は途中病院船に転じて再び輸送船に戻ったあと、1945年(昭和20年)7月20日に釜山港外で機雷に触れ座礁し放棄され後に浮揚されて韓国船コリアとなった[77]。疎開した民間人の多くは疎開先の本土(主に九州、鹿児島県や熊本県、宮崎県)や台湾で終戦を迎えている。
1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 三船殉難事件。樺太からの引揚船3隻がソ連軍の潜水艦に攻撃され2隻が沈没、1700名以上死亡。
三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)は、第二次世界大戦終戦後の1945年(昭和20年)8月22日、北海道留萌沖の海上で樺太からの疎開者を主体とする日本の緊急疎開船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦(L-12号・L-19号)からの攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となった事件を指す[1]。死者1,558人、行方不明150人とされる[2]。三船遭難事件とも呼ばれる[3][4]。
備考
事件の犠牲者は1,708名とされているが、疎開の混乱時であり、きちんとした形での乗船者名簿等は作られず、正確な乗船人員は不明である。遺体が確認されていない行方不明者も相当数いるため、実際の犠牲者は更に多かった可能性がある。第二号新興丸は乗客・乗員合わせて3,219人が生きて下船したが、その数は乗員が乗船者名簿の代わりに船名を書いて乗船者に渡していた紙の数とあまり変わらなかった。しかし、魚雷による二番船倉の死者や海に流された者がかなりの数で目撃されていて、したがって事前に捕捉していた数をはるかに超えた乗船者がいたことになる[8]。
8月22日には樺太最南端の西能登呂岬南方海上においても、疎開者輸送のため樺太西岸の本斗から大泊に向けて回航中の大阪商船の貨物船能登呂丸(1,100トン)がソ連の航空機の雷撃により沈没した。
1945年 – 肥薩線列車退行事故、53名が死亡。
1945年 – 愛宕山事件: 8月15日から愛宕山に篭城していた右翼団体・尊攘同志会会員ら12人が手榴弾で自決。
愛宕山事件(あたごやまじけん)は、1945年8月15日東京都芝区(現在の港区)の愛宕山で右翼団体構成員が第二次世界大戦の日本の降伏終戦に反対して篭城した事件である。尊攘義軍事件とも。
概要
1945年(昭和20年)8月15日の昼に、日本がポツダム宣言を受諾し連合国に降伏することが昭和天皇による玉音放送によって発表されると、降伏に反対する右翼団体「尊攘同志会」の首領・飯島与志雄ら12名が愛宕山に篭城した。飯島らは抗戦派軍人の決起を期待し、これに呼応するため日本刀や拳銃、手榴弾等で武装していた[1]。
これを知った警視庁では約70名の警官隊を動員し、愛宕山を包囲、投降を呼びかけた。飯島らは説得を拒否し立て篭り続けたため、22日午後6時頃、警官隊が発砲し突入、追いつめられた飯島らは手榴弾で自決を図り、10名が死亡、2名が捕えられた。
その他
港区の愛宕神社境内に同事件の慰霊碑がある。
1981年 – 台湾で遠東航空103便墜落事故。作家の向田邦子ら110人全員死亡。
1985年 – イギリスでブリティッシュ・エアツアーズ28M便火災事故。ボーイング737がマンチェスター空港を離陸する際左側のエンジンが爆発、機体が二つに折れて炎上し、54人死亡。
1999年 – 中華航空642便着陸失敗事故。バンコク発香港行きの中華航空機が香港国際空港上空で台風の突風に遭遇し着陸に失敗、3名が死亡。
2006年 – プルコボ航空612便墜落事故。170名死亡(全員)。
2022年 – 名古屋高速バス横転炎上事故が発生。2名死亡7人負傷。
チャットgpt先生の8月22日のエッセイ
8月22日という日 — 記憶と航跡の交差点
暦の上で8月22日は、夏の盛りを過ぎながらもまだ暑さが名残り、蝉の声がしぶとく耳に残る日だ。月齢28.3、まもなく闇夜に溶ける月が細く空にかかるこの日は、歴史の中で不思議なほど多くの「航路」が交差してきた。
17世紀、東インド会社がインド南岸にマドラスを創設したのもこの日だった。貿易と植民の波は、文化や経済を運びながら、同時に支配と摩擦ももたらす。マドラスはのちにチェンナイと名を変え、インドの玄関口として成長したが、その誕生の背景には、海を渡る人々と国々の思惑があった。
一方で、8月22日はしばしば「海の悲劇の日」とも呼べる。
1944年、学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦の魚雷で沈み、1,418人の命が海に呑まれた。翌年の同日、今度はソ連潜水艦による「三船殉難事件」が起き、1,700名以上が帰らぬ人となった。樺太や沖縄からの疎開船が目指していたのは、戦火から遠ざかった安全な地。しかし、終戦という言葉が届く前に、あるいは届いた後でさえ、戦争は冷たく無慈悲に人の命を奪い続けた。
同じ1945年、愛宕山に篭城した12人の右翼団体員が終戦を拒み、手榴弾で自決した事件もまた、この日の出来事だ。海で命を失った人々も、山で信念を貫いた人々も、それぞれに「終わらせることのできなかった戦争」を抱えていた。
時を進めても、8月22日は空や海の事故が繰り返し刻まれている。向田邦子を含む110人が亡くなった台湾での墜落事故、香港国際空港での着陸失敗、ロシアでの航空機全員死亡事故、そして2022年の名古屋高速バス炎上——。不思議なことに、この日は「移動」の途上で命が失われる出来事が多い。
それらをただ偶然と呼ぶのは簡単だ。しかし、8月22日という日が私たちに語りかけるのは、移動がもたらす希望と危うさの表裏かもしれない。人は遠くへ行こうとするとき、必ず海や空や道を選び、そのたびに未知と隣り合わせになる。マドラス創設の船も、疎開船も、旅客機も、その出発には「よりよい明日」があったはずだ。
だからこそ、8月22日は単なる日付以上のものとして記憶されるべきだろう。そこには、人間が夢を抱く限り続く航跡と、その夢が時に行き着く悲劇の両方が刻まれている。月が闇に消える前夜のように、この日は光と影を同時に映し出す。