8月16日
20250816土曜日旧暦6月23日仏滅(丁巳ひのとみテイシ)月齢 22.3
乙巳きのとみ年甲申きのえさる月丁巳ひのとみ日 年末まであと137日
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8月16日の出来事
1777年 – アメリカ独立戦争: ベニントンの戦い。[要出典]
戦争:アメリカ独立戦争
年月日:1777年8月16日
場所:バーモント共和国ベニントンに近いニューヨーク植民地
結果:大陸軍の決定的勝利
戦力 独立軍 2000 対 英国軍 1250
損害 独立軍 戦死 40 戦傷30 対 英国軍 戦死207 捕虜700
戦死合計247人
1780年 – アメリカ独立戦争: キャムデンの戦い。
戦争:アメリカ独立戦争
年月日:1780年8月16日
場所:サウスカロライナ、キャムデン
結果:グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国の完勝
戦力 アメリカ合衆国 3000強 対 英国軍 2200
損害 合衆国軍 戦死傷 行方不明 1132 英国軍 死者68 負傷245 行方不明64
1819年 – ピータールーの虐殺。イギリス・マンチェスター郊外で集会に参加した群衆を警官隊が弾圧し、11人が死亡、600人以上が負傷。
1868年 – エクアドル地震。前日の地震に続いて二度目の地震。エクアドル・コロンビアで死傷者7万人。
1902年 – 鳥島を訪れた定期船が、噴火の跡と島民の姿が見えないことを確認。同日までに島民125人全員が死亡したものと判断した[1]。
1945年 – 高知県の夜須町(2006年に近隣市町村と合併し以後は香南市)住吉海岸にて第128震洋隊の出撃準備中に爆発事故が発生し乗組員他111名が死亡する。
1965年 – ユナイテッド航空389便墜落事故。アメリカ合衆国ミシガン湖 死亡30名(全員)
1980年 – 静岡駅前地下街爆発事故。静岡駅前地下街でガス爆発が起き、死者15名、重軽傷233名を出す惨事。
2005年 – ウエスト・カリビアン航空708便墜落事故。死亡160人(全員)
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1777年 – アメリカ独立戦争: ベニントンの戦い。[要出典]
戦争:アメリカ独立戦争
年月日:1777年8月16日
場所:バーモント共和国ベニントンに近いニューヨーク植民地
結果:大陸軍の決定的勝利
戦力 独立軍 2000 対 英国軍 1250
損害 独立軍 戦死 40 戦傷30 対 英国軍 戦死207 捕虜700
戦死合計247人
ベニントンの戦い(英: Battle of Bennington)は、アメリカ独立戦争中の1777年8月16日に起こった戦いである。バーモント共和国ベニントンの近くで起こったので、名前はベニントンの戦いとなっているが、実際の戦場は境界を越えて数マイルニューヨーク植民地に入ったワルームザックであった。ジョン・スターク将軍とセス・ワーナー大佐に率いられたニューハンプシャーとバーモントの愛国者軍民兵約2,000名が、フリードリッヒ・バウム中佐率いるドイツ人傭兵部隊とカナダ兵、王党派兵およびインディアンの連合軍約1,250名を破った。
1780年 – アメリカ独立戦争: キャムデンの戦い。
戦争:アメリカ独立戦争
年月日:1780年8月16日
場所:サウスカロライナ、キャムデン
結果:グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国の完勝
戦力 アメリカ合衆国 3000強 対 英国軍 2200
損害 合衆国軍 戦死傷 行方不明 1132 英国軍 死者68 負傷245 行方不明64
キャムデンの戦い(キャムデンのたたかい、英: Battle of Camden)は、アメリカ独立戦争中の1780年8月16日に南部戦線のサウスカロライナ、キャムデンで、ホレイショ・ゲイツ将軍指揮の大陸軍とチャールズ・コーンウォリス将軍指揮のイギリス軍の間で戦われた重要な戦闘である。イギリス軍が大陸軍を一掃し、カロライナでのイギリス軍支配を確固たるものにした。
1819年 – ピータールーの虐殺。イギリス・マンチェスター郊外で集会に参加した群衆を警官隊が弾圧し、11人が死亡、600人以上が負傷。
ピータールーの虐殺(ピータールーのぎゃくさつ、英語: The Peterloo Massacre)は1819年8月16日にイングランド・マンチェスターのセント・ピーターズ・フィールド(St. Peter’s Field)で発生した民衆弾圧事件である。広場で選挙法改正を求めて集会を開いていた群衆に騎兵隊が突入して鎮圧を図り、多数の死傷者が出る惨事となった。ピータールー虐殺事件、マンチェスター虐殺事件とも[1]。
1868年 – エクアドル地震。前日の地震に続いて二度目の地震。エクアドル・コロンビアで死傷者7万人。
1902年 – 鳥島を訪れた定期船が、噴火の跡と島民の姿が見えないことを確認。同日までに島民125人全員が死亡したものと判断した[1]。
鳥島と玉置半衛門
玉置半右衛門(たまおき はんえもん、天保9年10月1日(1838年11月17日) – 明治43年(1910年)11月1日)は、明治時代の八丈島出身の実業家。南方諸島の開発を夢見ていた。鳥島を開拓して定期航路を開けば漂流民が助かるという建前で東京府から鳥島の借地権を得、富を得た。
鳥島でのアホウドリ捕獲事業
鳥島でアホウドリ捕獲事業を展開した[2]。その数は1887年(明治20年)の鳥島上陸から半年で10万羽、鳥島大噴火まで15年間で600万羽に及ぶ[2]。アホウドリは羽毛や肉、卵や糞まで余すことなく利益となる資源であった[2]。
1887年(明治20年)、津田仙が鳥島のアホウドリの糞の重要性に気づき、鳥島への下船許可を申し出たのに対して、玉置は牧畜開拓の名目で借地の許可を申し出る[2]。津田の申し出は却下され、玉置の申し出が受理されたため鳥島に上陸する[2]。1888年(明治21年)3月、内務省は鳥島の借地権を認めた[2]。
東京府へ提出した開拓許可の請願書には鳥島を開拓して定期航路が開かれれば漂流民の悲劇を防げるとしていたが、実際にはアホウドリの乱獲が目的であり、上陸から1週間と経たないうちに1000羽以上乱獲している。1羽のアホウドリから約375g(100匁)の羽毛が取れたといい、その後も年平均40万羽のアホウドリを捕獲し、横浜のウインクレル商会などと取引契約を結び、1年間に10万斤を超える羽毛(アホウドリ30万羽分)を売りさばいた。この事業により巨万の財を得て、わずか数年のうちに全国の長者番付に名を連ねるようになり、「南洋事業の模範家」と賞賛され[2]、1896年に帝国ホテルの向かいに築造した邸宅はアホウドリ御殿と呼ばれていた[3][注釈 1]しかし、その裏で港や道路、家屋などの建設を公共事業と称して労働者には給料を支払わず、現地では住民の一揆騒動も発生した。また、開拓と称しながら実際には道路も港湾も建設されず、虚偽の報告を当局へ行っていたことが視察に訪れた小笠原島司の阿利孝太郎によって判明している[4]。
その後、1902年(明治35年)に鳥島が大噴火し、アホウドリの捕獲に関わっていた玉置の人足ら島民125人全員が死亡した[5]。そのため、当時はこの噴火を「アホウドリの祟り」などと噂する声もあった[5]。しかしその頃は既に鳥島に見切りをつけて家族と共に1893年に東京に移住していたが、新聞で鳥島大噴火の惨状が伝えられると義捐金の広告を掲載して自分の事務所を受け取り窓口とし、皇室をはじめ全国から多額の義捐金を受け取った[5][6]。その上、大噴火から1年と経たないうちに新たな開拓民29人を送り込み、アホウドリの乱獲を再開した[5]。これらの開発によって鳥島のアホウドリは急速に減少、大正時代に入ってアホウドリの乱獲は終わり、鳥島は再び無人島となった[5]。
1906年(明治39年)、アホウドリが絶滅危機にあることを認めた国は、アホウドリを保護鳥に指定し、1933年(昭和8年)に捕獲を禁止したものの、減少に歯止めはかからず、1949年(昭和24年)には絶滅したと報告された(その後再発見)。捕獲が禁止されるまでに推定約1,000万羽が乱獲されたとされる[7]。
アホウドリ乱獲の罪は玉置個人にあるのではなく、その羽毛を求めた人、さらに事業を見て見ぬふりをし野生生物の保護意識が欠如していた戦前の日本人自身にあるといえる。
南大東島
1900年(明治33年)当時無人島であった大東諸島・南大東島へ入植者を送って開拓を行い、サトウキビの栽培により精糖事業を軌道に乗せた。入植費用と生活費は玉置が出し、30年後、入植者には現地の土地が与えられる約束であった。島には病院や学校、トロッコ鉄道や防風林も整備された。また、大東島紙幣(玉置紙幣とも)と呼ばれる紙幣に類似した商品引換券を流通させた。現地の指揮にあたった玉置の息子の鍋太郎と鎌三郎は放蕩に明け暮れ、入植者から「鍋大将」「鎌大将」と揶揄された。鎌大将はたばこの不始末で山火事を起こし、一週間にわたって炎上させた。また玉置の死後、後述のように事業は売却されたため、土地譲渡の約束は事実上反故にされてしまった。この問題は1964年、当時の琉球列島高等弁務官であるポール・W・キャラウェイが土地所有権を住民に帰属させる裁定を下すことで一応の解決をみた。
1945年 – 高知県の夜須町(2006年に近隣市町村と合併し以後は香南市)住吉海岸にて第128震洋隊の出撃準備中に爆発事故が発生し乗組員他111名が死亡する。
1965年 – ユナイテッド航空389便墜落事故。アメリカ合衆国ミシガン湖 死亡30名(全員)
1980年 – 静岡駅前地下街爆発事故。静岡駅前地下街でガス爆発が起き、死者15名、重軽傷233名を出す惨事。
2005年 – ウエスト・カリビアン航空708便墜落事故。死亡160人(全員)
8月16日という日:勝利と悲劇の交差点
8月16日――この一日は、歴史の中で幾度となくその名を刻んできた。時に「勝利の日」として、時に「悲劇の日」として。それは単なる暦の一日ではなく、人間の営みの光と影が交差する節目でもある。
まず目を引くのは、アメリカ独立戦争の2つの戦いがこの日に重なったことだ。1777年、ニューヨーク植民地のベニントン近郊で行われた「ベニントンの戦い」では、独立を志すアメリカ大陸軍が圧倒的な勝利を収めた。戦力では劣っていた英国側は700人が捕虜となり、207人が戦死する大損害を被った。これはアメリカ独立への流れを後押しする象徴的な勝利だった。一方、3年後の1780年に起こった「キャムデンの戦い」では、形勢は逆転する。今度は英国軍がアメリカ軍を圧倒し、南部戦線の主導権を握った。勝利と敗北、歓喜と屈辱が、同じ8月16日に並び立つのは、戦争の無情さを物語っている。
また、**1819年のイギリス・マンチェスターで起こった「ピータールーの虐殺」**も忘れてはならない。選挙改革を求める市民たちが集った平和的な集会は、国家の力によって暴力的に封じ込められた。この日、馬に乗った警官隊が群衆に突入し、11人が命を落とし、600人以上が負傷する惨事となった。「自由」や「表現の権利」といった現代では当たり前とされる価値が、いかに長く、血を流しながら勝ち取られてきたのかを教えてくれる出来事だ。
災害や事故も、この日を悲しみで染めている。1902年の鳥島の噴火では、アホウドリの羽毛を求めた乱獲の果てに、島民125人が命を落とした。自然の恵みを過剰に搾取する人間の姿勢に、自然は時に容赦ない代償を突きつける。かつて“アホウドリ御殿”を築き、巨万の富を得た玉置半衛門の物語は、利益の裏にある犠牲を私たちに思い起こさせる。
1945年の高知・夜須町の震洋隊爆発事故や、1980年の静岡駅前地下街爆発事故、さらには2005年のカリブ航空機墜落といった事故も、毎年8月16日が誰かの命日であり続けていることを教えてくれる。
このように8月16日は、時代や場所を越えて、人間の希望・欲望・無謀・祈りが凝縮された日である。戦争、災害、事故、そして自由の叫び。どの出来事も、私たちに「忘れてはならないものがある」ことを語りかけている。
年末まであと137日。折り返しを過ぎたこの年の中盤に、8月16日は静かに私たちに問いかける――
「あなたは何を記憶し、未来にどう生かすのか」と。