kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月13日 1945ソ連対日参戦-小山克事件,ほか写真wikipedia満州国吉林省吉林市

8月13日

20250813水曜日旧暦6月20日先勝(甲寅きのえとらコウイン)月齢 19.3

乙巳きのとみ年甲申きのえさる月甲寅きのえとら日  年末まであと140日

吉方位 隠遁日 甲寅きのえとら日  南西 吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8813%E6%97%A5

8月13日の出来事

1521年 – アステカ文明の湖上の都テノチティトランがエルナン・コルテスによって陥落。

コルテスがテノチティトランを訪れたのは1519年11月8日である。このときテノチティトランは20万人から30万人の人口を持ち、同時代のパリやコンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)と並ぶ世界有数の規模であったと考えられている。このときコルテスは神ケツァルコアトルの再来と信じられたため、ほとんど抵抗なくこの都市を征服することが出来た。コンキスタドーレスの中にはヴェネツィアやコンスタンティノポリスを訪れたことがある者もいたが、いままで訪れた都市の中ではテノチティトランが最も素晴らしいとみな証言している。

神殿遺跡テンプロ・マヨール

数か月にわたる抵抗ののち、コルテスが部下とともにテノチティトランを征服したのは1521年8月13日である。街は完全に破壊され、切り出した石材を使ってその上にメキシコシティが築かれた。

1536年(天文5年7月27日)- 天文法華の乱。比叡山延暦寺の僧兵と六角氏の軍勢が京に侵入、市中の21の法華宗寺院に火をつけ炎上させる。法華宗死者1万。

1553年 – 三位一体説批判のかどでカトリック・プロテスタントの双方から追われていたミシェル・セルヴェがジャン・カルヴァン治下のジュネーヴで捕らえられる。

1587年(天正15年7月10日)- 肥後国の国人・隈部親永が、佐々成政による検地を拒否し挙兵(肥後国人一揆) 損害詳細不明だが全軍30000のうちのかなりの者が死傷。

1704年 – スペイン継承戦争: ブレンハイムの戦いでイギリス・オーストリア連合軍がフランス・バイエルン連合軍を破る。

戦力

イギリス・オーストリア連合 50000  フランス・バイエルン連合 60000

損害

イギリス・オーストリア  死亡 4500 戦傷 7000   

フランス・バイエルン連合  死亡20000 捕虜15000

1798年(寛政10年7月2日) – 当時大仏として日本一の高さを誇っていた方広寺大仏(京の大仏)が落雷で全焼する。(ただし落雷があったのは前日の夜)

1868年 – チリ北部沖でマグニチュード8.9のアリカ地震発生。津波などで25,000人以上が死亡。

1914年 – 富山県富山市で大水害。神通川流域で死者54人、行方不明60人[3]。

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 小山克事件。

列車がやむなく停止すると、暴民たちは客車に乱入し、鉄道公安官の拳銃を奪い取るとともに縛り上げた[12]後、日本女性たちを車外に連れ出して輪姦を始めた[13]。暴民たちは抵抗するものは射殺し、女性が抱いている乳児は窓から放り投げて殺害した[14]。このため、100人以上の女性たちが崖から谷底に飛び降りて自決した[14]。避難民たちは、事件を知らせるために次々と使者を送りだしたが、暴民たちによってトンネルにたどりつく前に射殺されていった[14]。

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1521年 – アステカ文明の湖上の都テノチティトランエルナン・コルテスによって陥落。

コルテスがテノチティトランを訪れたのは1519年11月8日である。このときテノチティトランは20万人から30万人の人口を持ち、同時代のパリやコンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)と並ぶ世界有数の規模であったと考えられている。このときコルテスは神ケツァルコアトルの再来と信じられたため、ほとんど抵抗なくこの都市を征服することが出来た。コンキスタドーレスの中にはヴェネツィアやコンスタンティノポリスを訪れたことがある者もいたが、いままで訪れた都市の中ではテノチティトランが最も素晴らしいとみな証言している。

数か月にわたる抵抗ののち、コルテスが部下とともにテノチティトランを征服したのは1521年8月13日である。街は完全に破壊され、切り出した石材を使ってその上にメキシコシティが築かれた。

コルテスの評価

コルテスはアステカ帝国を支配、そしてアステカ文明を完膚なきまでに粉砕し、その文化に全く理解を及ぼさなかった。また、コルテスはキリスト教徒、それも敬虔なるカトリック信徒であったがために、インディオの社会が持っていた人身供犠などの「野蛮」とされる側面のみをあげつらい、インディオの習慣を廃止させようとしたとの意見もある。

事実、彼らは征服先で黄金を略奪し、インディオの大量虐殺を行った。そして多くのインディオ女性を強姦し、さらには征服が一段落したのちは征服者としての政治的経済的な力でこれまた多くのインディオ女性を妾として所有した。[要出典]コルテス自身も、インディオ女性のマリンチェを妾として寵愛し、彼女との間に生まれた子供にマルティンと名付けており、現在も子孫がメキシコにいる。

かつてはコルテスの行為に関しては、インディオたちを人身供犠などを掲げる残酷な旧来の宗教の因習や鞏固な身分制から解放した、宣教師によって福音に接することが出来た、などと肯定的に捉える見解が大半を占めた。また、コルテス一行を評してナワトル語で書かれた『コディセ・フロレンティーノ』には「平和の神」と記されている。

しかし、スペイン人による支配と搾取は、先住民の文化・伝統・宗教を徹底的に粉砕し、先住民は白人入植者たちに奴隷の様に使役されるという状況に置かれた。18世紀から19世紀にかけて多発したインディオの反乱は後にメキシコ独立の原動力とはなったが[注釈 1]、19世紀に独立したメキシコ帝国、メキシコ合衆国の実権を手にしたのは、かつて略奪と虐殺を繰り返したコンキスタドールの子孫であった。インディオの社会的立場の向上は、20世紀にならなければ実現し得なかった。

1536年(天文5年7月27日)- 天文法華の乱。比叡山延暦寺の僧兵と六角氏の軍勢が京に侵入、市中の21の法華宗寺院に火をつけ炎上させる。法華宗死者1万。

天文法華の乱

7月20日頃、延暦寺は諸国の末寺から集めた数万にものぼる僧兵を東山の山麓に配し、六角定頼・義賢父子や蒲生定秀らに率いられた近江の軍勢3万が東山に布陣、その北には三井寺の3千騎も布陣し、京都の北・東を完全に遮断した。これに対し、法華宗も2~3万の宗徒が洛中やその周辺での防備を固めた。

7月22日、松ヶ崎での戦いによって、両軍の戦端が開かれた。『鹿苑日録記』7月22日条には、法華宗が先に撃ちかけた、と記されているが、延暦寺が先としているものもある[注 3]。合戦は7月27日まで続いた。

当初、法華衆は5月下旬から京都市中に要害の溝を掘って延暦寺の攻撃に備えていため、戦闘は一時法華宗が有利とされたが、7月27日に六角軍が四条口より攻め入って火を放ち、法華宗の21ヶ所ある寺の内、本圀寺以外は焼け落ちた。そして、28日には本圀寺も焼失した[12]。

この戦いで、法華宗側の戦死者は1万、または3、4千、あるいは千人ともいわれている(天文法難)[12]。

さらに延暦寺・六角勢が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は、応仁の乱を上回るものであった[5]。

1553年 – 三位一体説批判のかどでカトリック・プロテスタントの双方から追われていたミシェル・セルヴェがジャン・カルヴァン治下のジュネーヴで捕らえられる。

ミシェル・セルヴェ(フランス語: Michel Servet, Michel de Villeneuve, アラゴン語: Miguel Serveto y Conesa, カタルーニャ語: Miguel Serveto Conesa, Miquel Servet, スペイン語: Miguel Servet, Miguel Serveto (y Reves), Miguel de Villanueva, イタリア語: Michele Serveto, 1511年9月29日 – 1553年10月27日)は、宗教改革期の人文主義者、医師、神学者。セルヴェはフランス語の名で、スペイン語ではミゲル・セルヴェート(Miguel Serveto)、ラテン語ではミカエル・セルウェトス(Michael Servetus)。

三位一体説を否定して独自の神学を展開、カトリックと改革派双方の権力体制を非難し、処刑された。彼の思想は、当時の神学と後世に大きな影響を与えた。ヨーロッパ人で最も早く血液循環について書いたことでも知られる[1]。

1531年に名前を隠して『七つの書物における三位一体説の誤謬』(De Trinitatis erroribus libri septem)という中世ラテン語の小冊子を出版し、神における三人格の三位一体に疑いを投げかけ、否定した。この冊子の作者として発覚したり罰を受けることはなかったようであるが、続いて1553年に『キリスト教の復原』(Restitutio Christianismi)という大著を名前を明かして出版し、カトリックと改革派双方の権力体制を本来のキリスト教の堕落であると批判。この本の中で血液循環説について書いている。[2]

『キリスト教の復原』での宗教的権力体制への非難により、イタリアのミラノで投獄されたが、旧友であった刑務所長の助けで脱獄、欠席裁判で火刑の判決が下った。北のスイスに逃亡し、ジャン・カルヴァンが独裁統治していたジュネーヴに身を寄せたところをすぐに捕らえられ、裁判で火刑の判決を受け、執行され焼死した。[2]

セルヴェの死の約400年後、長老派教会は彼が処刑された場所に記念碑を建立した[3]。

思想

セルヴェは三位一体の古典的な概念を否定し、その教義が聖書に基づいていないと指摘した。それがギリシャの哲学者の教えから生じたと指摘し、ニケアの三位一体論の発展に先立つ福音書の単純さと初期の教父たちの教えへの回帰を提唱した。神は普遍的で遍在的であり、不可分で唯一の存在であると考えた。また、父、子、聖霊は神の性質であり、分離した別個の存在ではないと主張した。神は完全であり、慈悲深く善であり、生気に満ちたものであれ生気のないものであれ、あらゆるものに内在し、全ての存在はこの「中心の力」によって活性化され、本性を得ているという。宇宙にある一切は神であり、全ては神の表現であるがゆえに、人間も神聖であるとした。この宇宙に二元性はなく、悪は単に欠如に過ぎず、悪とは光の不在による闇のようなものであり、実質的な意味はないと考えた。[4]

1587年(天正15年7月10日)- 肥後国の国人・隈部親永が、佐々成政による検地を拒否し挙兵(肥後国人一揆) 損害詳細不明だが全軍30000のうちのかなりの者が死傷。

1704年 – スペイン継承戦争: ブレンハイムの戦いでイギリス・オーストリア連合軍がフランス・バイエルン連合軍を破る。

戦争:スペイン継承戦争

年月日:1704年8月13日

場所:バイエルン選帝侯領、ブリントハイム(ブレンハイム)

結果:イングランド・オーストリア同盟軍の勝利

損害:イングランド ネーデルランド連合軍 52000中 死者4,500人負傷7,500人 フランス軍 60000人中 死者20,000人捕虜14,000人

ブレンハイムの戦い(英: Battle of Blenheim)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1704年8月13日にバイエルン選帝侯国・フランス連合軍とイングランド・オーストリア(神聖ローマ帝国)同盟軍が現在のドイツ・バイエルン州に位置するドナウ川流域のブリントハイム(ブレンハイム、ブレニム)で争い、イングランド・オーストリア同盟軍が勝った戦いである。イングランド・オーストリア同盟軍総司令官のマールバラ公ジョン・チャーチルがフランス軍相手に大勝利した戦いとして知られている。

1798年(寛政10年7月2日) – 当時大仏として日本一の高さを誇っていた方広寺大仏(京の大仏)が落雷で全焼する。(ただし落雷があったのは前日の夜)

1868年 – チリ北部沖でマグニチュード8.9のアリカ地震発生。津波などで25,000人以上が死亡。

1914年 – 富山県富山市で大水害。神通川流域で死者54人、行方不明60人[3]。

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 小山克事件

小山克事件(しょうさんこくじけん)とは1945年8月13日に満州国吉林省で南満州鉄道京図線が九台駅と吉林駅の間の小山克で武装した暴民に襲われ、日本人避難民が強姦・虐殺され集団自決した事件。

列車がやむなく停止すると、暴民たちは客車に乱入し、鉄道公安官の拳銃を奪い取るとともに縛り上げた[12]後、日本女性たちを車外に連れ出して輪姦を始めた[13]。暴民たちは抵抗するものは射殺し、女性が抱いている乳児は窓から放り投げて殺害した[14]。このため、100人以上の女性たちが崖から谷底に飛び降りて自決した[14]。避難民たちは、事件を知らせるために次々と使者を送りだしたが、暴民たちによってトンネルにたどりつく前に射殺されていった[14]。

唯一、谷底に転落した13歳の少女だけが負傷しながらも5キロ先の駅にたどり着いて事件を知らせることができた[14]。

知らせを受けた関東軍第一方面軍所属の吉林駐屯中の松下部隊から池内少佐率いる一個大隊600名が列車で派遣され、8月14日午前5時半ごろに事件現場に到着した[15]。日本女性を抱きながら眠り込んでいた[15]暴民たちは、日本軍の到着を知るや否や、逃走を試みるか女性たちを楯に立てこもったが、日本軍によって次々に射殺または捕縛された[15]。日本軍は暴民を鎮圧すると、直ちに線路を復旧し、列車は通化に到着した。同市の避難民収容所に収容された避難民たちは、後に通化事件に巻き込まれることになった。

通貨事件

通化事件(つうかじけん)とは、国共内戦時期の中国東北部(かつてのいわゆる「満洲国」通化省通化市)で、当時の中華民国政府(国民党)軍側と共闘した日本人らによる武装叛乱蜂起と赤十字病院襲撃の失敗事件である。多くの日本人が犠牲となり、最大で3000人以上が死んだとされる。

チャットgpt先生の8月13日のエッセイ

8月13日──文明の終焉と再生、そして人間の記憶

8月13日という日は、奇しくも「滅び」と「再生」が交差する日として、歴史に多くの深い爪痕を残してきた。世界史においても、日本史においても、この日はただの一日ではなく、文明、信仰、国家、そして人間の運命が大きく動いた日である。


アステカ帝国の終焉──文明の破壊と征服者の物語

1521年8月13日、スペインの征服者エルナン・コルテスは、数ヶ月にわたる包囲戦の末、アステカ帝国の首都テノチティトランを陥落させた。この街は、かつて20万〜30万人が住み、水上都市としてその美しさと規模でヨーロッパの大都市にも比肩したとされる。だがその栄光は、鋼鉄と銃火器、そしてキリスト教という名のもとに灰となった。

この日、単なる一都市の陥落ではない。これは一つの文明が徹底的に破壊され、記録、建築、思想、信仰が火に包まれた瞬間だった。そしてその廃墟の上に、まるで忘却を願うかのように新しい都市──メキシコシティが築かれる。ここには「文明の勝者は常に歴史を塗り替える」という現実がある。

だが、コルテスの功罪を考えるとき、単なる“征服”という言葉では片付けられない。彼が残したのは、黄金ではなく、罪と記憶である。インディオ女性たちを妾とし、文化を抹殺し、自らを神の使徒と信じたその姿には、支配者の傲慢と文明破壊者の冷酷がある。


天文法華の乱──信仰が炎に変わるとき

1536年、日本では京都にて「天文法華の乱」が勃発。仏教の宗派対立という枠を越えた武装抗争で、延暦寺と六角氏らが市中21の法華宗寺院を焼き払うという大惨事となった。宗教が救いではなく、武力の正当化装置として使われたとき、そこにいたのは「祈る者」ではなく「戦う者」だった。

市中は焼け落ち、死者は1万人にも達したという。教義よりも力が支配し、宗教が人を救うどころか殺す装置と化す。この構図は時代を超えて普遍的であり、いまもなお世界のどこかで繰り返されているのではないだろうか。


ミシェル・セルヴェの逮捕──思想と焚刑のはざまで

1553年、スイス・ジュネーヴで思想家ミシェル・セルヴェが捕らえられる。彼は「三位一体」への異論と、既存宗教体制への批判を展開した末に、火刑に処された。信仰の多様性や自由がいまだ確立されていなかった時代、異端とはすなわち「存在してはいけない思想」だった。

彼の死から400年後、ようやく記念碑が建てられたという。だがこれは果たして贖罪か、あるいは静かな口封じなのか。思想の自由とは、命を懸けねば得られない重さを持つのだと、8月13日は静かに語る。


忘れてはならない暴力──1945年の小山克事件

そして1945年8月13日、満洲ではソ連参戦の混乱の中、民間人避難列車が襲撃を受け、無辜の女性たちが暴行され命を絶った。抵抗する者は射殺され、赤子は窓から投げ捨てられた。あまりにも非人道的なこの出来事は、戦争末期の地獄そのものである。

生き延びた13歳の少女が、必死に助けを求めて5kmを歩き通したというエピソードは、たった一人の証言者が歴史をつないだ奇跡であり、同時に我々に「記録すること」の重みを教える。


まとめ──この日は問いかける

8月13日という日は、問いかける。

文明とは何か?
信仰とは誰を救うのか?
思想とはなぜ殺されるのか?
歴史は誰が綴るのか?
そして、暴力と犠牲はなぜ繰り返されるのか?

世界中で、歴史の記憶を抱えながら今日を生きる者たちがいる。だからこそ、我々は忘れてはいけない。「8月13日」をただの暦の一日とせず、その奥に刻まれた叫び、炎、涙、そして希望を聞く努力を続けていくべきだろう。


文明の終焉は、しばしばその再生の始まりである。
そして再生の光は、記憶という名の闇の中からしか生まれない。