8月12日
20250812火曜日旧暦6月19日赤口(癸丑みずのとうしキチュウ)月齢 18.3
乙巳きのとみ年甲申きのえさる月癸丑みずのとうし日 年末まであと141日
吉方位 隠遁日 癸丑みずのとうし日 南 南西 大吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8812%E6%97%A5
8月12日の出来事
紀元前30年 – 古代エジプト・プトレマイオス朝の実質的な最後のファラオ・クレオパトラが自殺[1]。
1099年 – 第1回十字軍: アスカロンの戦い。
損害 戦死 十字軍 微小 ファーティマ朝 12000程度虐殺される(全軍30000)
1335年(建武2年7月23日) – 中先代の乱: 鎌倉に幽閉中の護良親王が足利直義の命により暗殺される。
1676年 – インディアン戦争: ワンパノアグ族の酋長メタコメットが戦死し、フィリップ王戦争が白人側の勝利で終結。
損害 死傷 白人+モヒカン、モホーク 2000 インディアン連合 2800強
1759年 – 七年戦争: クネルスドルフの戦いが行なわれる。
戦力 ロシア+オーストリア連合 70000 対 プロイセン 50000
損害 死傷 ロシアオーストリア連合 16000強 プロイセン 18000強内6000戦死
1944年 – 第二次世界大戦・ノルマンディー上陸作戦: ファレーズ・ポケットがはじまる。
損害 ドイツ軍 死傷60000弱(全軍100000) 連合軍 僅少
1958年 – 全日空下田沖墜落事故。全日空の羽田発名古屋行きのダグラス DC-3型機が、静岡県の伊豆半島下田市沖に墜落、乗員乗客33名全員死亡[5]。
1985年 – グリコ・森永事件で犯行グループから「終息宣言」が送付され、以降動きが途絶える。
1985年 – 日本航空123便墜落事故。日本航空の羽田発伊丹行きのボーイング747型機が、群馬県の高天原山の山腹「御巣鷹の尾根」に墜落。乗客乗員520名が死亡。4人が生還(発見は翌13日早朝)単独機としては世界最悪の航空事故[10]。
2015年 – 2015年天津浜海新区倉庫爆発事故: 中国・天津市海新区の港湾地区の倉庫で、二度に渡り危険物倉庫が爆発する事故が発生[13]。死者165人、行方不明8人、負傷者798人の被害を出す[14]。
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紀元前30年 – 古代エジプト・プトレマイオス朝の実質的な最後のファラオ・クレオパトラが自殺[1]。
クレオパトラ7世フィロパトル(ギリシア語: Κλεοπάτρα Ζ’ Φιλοπάτωρ, ラテン語: Cleopatra VII Philopator, 紀元前69年 – 紀元前30年[注釈 1]、古代エジプトプトレマイオス朝ファラオ(女王)。
一般的に「クレオパトラ」と言えば彼女を指すことが多く、プトレマイオス朝の最後の女王で、ガイウス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスらとのロマンスで知られる[3]。王朝自体がアレクサンドロス3世の部下プトレマイオス1世による支配から始まったため、クレオパトラもギリシア系である[4]。39歳没。
1099年 – 第1回十字軍: アスカロンの戦い。
損害 戦死 十字軍 微小 ファーティマ朝 12000程度虐殺される(全軍30000)
アスカロンの戦い(Battle of Ascalon)は第1回十字軍の戦闘の一つ。1099年8月12日に地中海岸の町アスカロン(現在のイスラエル領アシュケロン、エルサレムの西でテルアビブとガザの中間)の周辺で戦われた。十字軍がエルサレムに迫るファーティマ朝軍を破ったが、これが第1回十字軍の最後の戦いとされている。
十字軍の勝利だが アスカロンは陥落せず。
十字軍はエルサレム支配を急速に固めていた。ゴドフロワ・ド・ブイヨンは7月22日にエルサレムの支配者となり、王と名乗らずに「聖墳墓守護者」を名乗ることとなった。聖職者のアルヌール(Arnulf of Chocques)は8月1日にエルサレム総司教となり、8月5日には東方教会が守っていた聖遺物「真(まこと)の十字架」を手に入れていた。そこへアスカロン付近まで到達していたファーティマ朝軍から使者が到着し、十字軍に対してエルサレムからの退去を要請するアル=アフダルの信書を渡したが、十字軍側は無視した。
しかし十字軍もファーティマ朝の大軍が迫ることを無視できなかった。8月10日、隠者ピエールがラテンとギリシャの東西両教会の聖職者を集めて聖墳墓教会で祈りと行進を行っていた日、ゴドフロワは十字軍の将兵を率いてエルサレムを出て、西へ1日のところにあるアスカロンへ向かった。フランドル伯ロベールと総司教アルヌールはゴドフロワに従ってアスカロンへ向かったが、ゴドフロワとは対立状態にあるトゥールーズ伯レーモンおよびその封臣となっていたノルマンディー公ロベールは従わなかった。彼らは自らの斥候からの報告が届くまでエルサレムから動こうとはしなかった。翌日、彼らもファーティマ朝の軍隊の接近を確認し、アスカロンへ向けて出発した。途中のラムラ付近で彼ら(十字軍国家の諸侯)は、8月初めにナブルス攻略のためにエルサレムを出ていたタンクレードおよびゴドフロワの兄弟であるブローニュ伯ウスタシュと十字軍の全軍が合流した。
アルヌールは「真の十字架」を掲げて軍を先導した。一方、レーモン・ダジール(Raymond of Aguilers)はアンティオキア攻囲戦の時に見つかった「聖槍」を掲げて行進した。
1335年(建武2年7月23日) – 中先代の乱: 鎌倉に幽閉中の護良親王が足利直義の命により暗殺される。
中先代の乱(なかせんだいのらん)は、建武2年(1335年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児北条時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。北条時行は僅か10歳(諸説あり)の少年であったが足利直義を破り、鎌倉奪還に成功した。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。また、鎌倉支配が20日余りしか続かなかったことから、廿日先代(はつかせんだい)の異名もある[1]。
護良親王
護良親王(もりよししんのう、もりながしんのう[注釈 3])は、鎌倉時代末期から建武の新政期の皇族・僧侶・武将・天台座主・征夷大将軍。還俗前の名は尊雲法親王(そんうんほっしんのう)、通称を大塔宮(正式には「おおとうのみや」/「だいとうのみや」[4])ともいう[3]。一般に後醍醐天皇の第三皇子とされるが、一宮(第一皇子)という説もある[注釈 1]。母は民部卿三位で、北畠師親の娘の資子という説と、勘解由小路経光(広橋経光)の娘の経子という説がある。尊珍法親王の異父弟。興良親王の父。
元弘の乱で鎌倉幕府を打倒することに主たる功績を挙げ、建武の新政では征夷大将軍に補任。しかし足利尊氏[注釈 4]を疎む護良は、武士を好み彼を寵愛した父とはすれ違いが多く、将軍を解任され、やがて政治的地位も失脚、鎌倉に幽閉される。のち、中先代の乱の混乱の中で、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害された。鎌倉宮の主祭神。
20歳で天台座主。
26歳没。
1676年 – インディアン戦争: ワンパノアグ族の酋長メタコメットが戦死し、フィリップ王戦争が白人側の勝利で終結。
損害 死傷 白人+モヒカン、モホーク 2000 インディアン連合 2800強
フィリップ王戦争(フィリップおうせんそう、英語: King Philip’s War)[4][注釈 1]とは、1675年6月から翌年8月にわたる先住民戦争(民族浄化)で、ニューイングランド入植者(英語版)とその味方をした先住民とアメリカ先住民諸部族(英語版)との間で起きた。フィリップ王とはワンパノアグ族の酋長メタコメット(メタコム)を白人入植者[疑問点 – ノート]が呼んだ名前を指す[注釈 2]。
その後
プリマスからロードアイランド植民地一帯では、兵役年齢の全男性の10分の1を失う人口激減のせいで、経済は根底から覆された[13][注釈 5]。ニューイングランド地方のタウンは、過半数がこの武力衝突に巻き込まれた[15]。ワンパノアグ族と同盟の部族は数千人が公開処刑にされたり、奴隷に身を落とした。ワンパノアグ族は土地を全て失った[16]。
戦死したメタコメット酋長の遺体は入植者達により八つ裂きにされ、槍の先に突き刺した首は、24年にわたり入植地の村に飾られた。そして捕虜となったメタコメット酋長の家族を始めとする先住民達は、奴隷として西インド諸島などに売り飛ばされた。「司令官」がいないという先住民の文化は、入植者には理解できなかった。侵略者はただメタコメットを「戦争を始めた首謀者」と一方的に見なし、理不尽な辱めをこれに与えて勝利を祝ったのである
1759年 – 七年戦争: クネルスドルフの戦いが行なわれる。
戦力 ロシア+オーストリア連合 70000 対 プロイセン 50000
損害 死傷 ロシアオーストリア連合 16000強 プロイセン 18000強内6000戦死
クネルスドルフの戦い(ドイツ語:Schlacht bei Kunersdorf)は、七年戦争中の戦いであり、1759年の8月12日、フランクフルト・アン・デア・オーダーの東に位置するクーネルスドルフにおいて、 4万9000のプロイセン軍と7万1000の露墺連合軍が戦闘。フリードリヒ大王にとって最大の敗北となった。
1944年 – 第二次世界大戦・ノルマンディー上陸作戦: ファレーズ・ポケットがはじまる。
損害 ドイツ軍 死傷60000弱(全軍100000) 連合軍 僅少
ファレーズ・ポケット(ファレーズ包囲戦、英: Falaise pocket、仏: Poche de Falaise、独: Kessel von Falaise)は、1944年8月12日から21日まで行われたノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)の主要な戦いのことである。
概要
進撃してきた西側連合軍に包囲されてしまったドイツ第7軍、第5装甲軍の両軍が、その包囲網から脱出する為の戦いであり、その西側連合軍防衛線の隙間を脱出したことから、別名ファレーズ・ギャップ(Falaise Gap)とも呼ばれる。連合軍はセーヌ川西岸にいたドイツ軍の大半を撃破し、パリからドイツへの進撃路を確保した[説明 5]。
8月21日の夕方までにはドイツ軍将兵約50,000が完全に包囲された。その内、かなりの将兵が脱出できたと考えられているが、ドイツ軍の兵力等、軍事的損失は膨大であり、連合軍は決定的な勝利を挙げた。4日後、パリは解放され、8月30日までにセーヌ川西岸にドイツ軍は存在しなくなり、連合軍によるオーバーロード作戦は終了した。
ファレーズ・ポケットの戦いはドイツ軍の決定的な敗北で終わった[9]。ヒトラーの絶望的なぐらい楽観的な見通しのために安易に反撃が行われたこと、司令官へ細部までの命令を下したこと、部隊が全滅の危機に瀕したときに撤退を拒否したことなどにより、最初からドイツ軍に勝機は存在しなかった[77]。ノルマンディーの戦いの間に、40個以上の師団が撃破され、450,000の将兵が失われたが、その内の240,000が戦死か負傷をしていた[77]。連合軍は36,976名の戦死者を含む209,672名の犠牲者を出した[7]。8月25日、オーバーロード作戦の最終目的であるパリ解放がなされ、8月30日までにセーヌ川全域でドイツ軍の退却が終了し、絶大な成果を持って終了した[78]。
1958年 – 全日空下田沖墜落事故。全日空の羽田発名古屋行きのダグラス DC-3型機が、静岡県の伊豆半島下田市沖に墜落、乗員乗客33名全員死亡[5]。
事故概要
1958年(昭和33年)8月12日午後8時30分頃、東京・羽田空港発名古屋飛行場(小牧空港)行として運航していた全日空25便レシプロ双発旅客機であるダグラスDC-3(機体記号JA5045。乗客30名、乗務員3名の合計33名。羽田発午後7時53分)が伊豆半島下田市沖上空を飛行中、近傍を大阪発東京行きして運航していた同僚機16便へ「左側エンジンが不調となり停止した」「これから羽田空港へ引返す」ことを伝えた後、午後8時55分の通信を最後に消息を絶ち、25便は行方不明となった。
消息を絶った翌13日早朝より、遭難機を発見するために海上保安庁巡視船や自衛隊飛行機も協力して大規模な捜索が始められた。しかし、この日の海上は強風が吹き荒れて波も高く、捜索は難航して中々発見することが出来なかった。
午後0時30分頃、伊豆下田沖にある利島島・17 km付近の海上で25便墜落が確認され、乗員・乗客合わせて33名全員が犠牲となった。強風と高波により荒れた状況下で捜索が続けられた結果、乗客の荷物を始め海面に墜落した衝撃により大破した座席・トイレの扉・機体の一部・残骸なども発見し、犠牲者18名の遺体を確認して収容された。最終的に残り15名の犠牲者と機体の大部分は発見・収容出来ずに捜索は打切りとなる。
海上へ墜落した25便機体は、後に水深600 mの海底へ沈んでいることが確認される。1958年当時では機体を地上へ引上げるための技術や、それに従う装備などもなかったために、墜落した機体を引上げることは出来なかった。
1985年 – グリコ・森永事件で犯行グループから「終息宣言」が送付され、以降動きが途絶える。
グリコ・森永事件(グリコ・もりながじけん)とは、1984年(昭和59年)と1985年(昭和60年)に日本の阪神間(大阪府・兵庫県)を舞台に食品会社を標的とした一連の企業脅迫事件。
警察庁広域重要指定114号事件。また、略して「グリ森事件」「グリ森」とも言われる。犯人が「かい人21面相」と名乗ったことから、かい人21面相事件などとも呼ばれる。
2000年(平成12年)2月13日に愛知青酸入り菓子ばら撒き事件の殺人未遂罪が時効を迎え、すべての事件の公訴時効が成立してこの事件は完全犯罪となり、警察庁広域重要指定事件では初の未解決事件となった。
概要
1984年3月、江崎グリコ社長江崎勝久を拉致して身代金を要求した事件を皮切りに、江崎グリコに対して脅迫や放火を起こす。その後、丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋など食品企業を次々と脅迫。現金の引き渡しにおいては次々と指定場所を変えたが、犯人は一度も現金の引き渡し場所に現れなかった。犯人と思しき人物が何度か目撃されたが逃げられてしまったため、結局正体は分からなかった。
その他、1984年5月と9月、1985年2月に小売店で青酸入り菓子を置き、日本全国を不安に陥れた。
1984年4月12日に警察庁広域重要指定事件に指定された。
2000年(平成12年)2月13日に東京・愛知青酸入り菓子ばら撒き事件の殺人未遂罪が時効を迎え、すべての事件の公訴時効が成立。警察庁広域重要指定事件としては初めて犯人を検挙出来なかった未解決事件となった。
2005年(平成17年)3月に除斥期間(民法第724条)が経過し、民法上の損害賠償請求権が消滅した。
企業への脅迫状とは別に報道機関や週刊誌などに挑戦状を送りつけ、毒入り菓子をばらまいて社会一般を騒ぎに巻き込んだことで、評論家の赤塚行雄から劇場型犯罪と名付けられた[1]。同時期にこの事件と並行して話題となっていた三浦和義のロス疑惑とともに当時の世相として振り返られることも多い[2]。
1985年 – 日本航空123便墜落事故。日本航空の羽田発伊丹行きのボーイング747型機が、群馬県の高天原山の山腹「御巣鷹の尾根」に墜落。乗客乗員520名が死亡。4人が生還(発見は翌13日早朝)単独機としては世界最悪の航空事故[10]。
概要
123便は東京国際空港(羽田空港)発大阪国際空港(伊丹空港)行定期旅客便で、事故当日の18時12分に羽田を離陸した。伊豆半島南部の東岸上空に差し掛かる頃の18時24分35.70秒において、約11 tの前向き外力が作用して[5]機体後部の圧力隔壁が破損、垂直尾翼と補助動力装置が脱落し油圧操縦システムを全喪失して操縦不能に陥り、迷走飛行の末に18時56分28秒ごろ群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(標高1,565メートル、通称御巣鷹の尾根)に墜落した[報告書 1]。
乗客乗員524名のうち死亡者数520名、生存者4名で、2023年時点で単独機の航空事故としては世界最多の死亡者数を出した事故である[6](2機以上が絡んだ事故では、1977年3月のテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故が死者数583名で最多である)。
夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。特にこの事故を指して『日航機墜落事故[7][8]』『日航ジャンボ機墜落事故[9][10]』と呼ばれる場合もある。
1987年(昭和62年)6月19日、運輸省航空事故調査委員会(以下、事故調)は事故調査報告書を公表した。この事故から7年前の1978年(昭和53年)6月2日に伊丹空港で起こした「しりもち事故」後の、ボーイングによる圧力隔壁の不適切な修理による破損が事故原因と推定されている[報告書 2]。
事故原因を巡っては様々な疑問点や異説が提起されていたため、事故調の後身に当たる運輸安全委員会(JTSB)は報告書公表より24年後の2011年(平成23年)7月29日、事故調査報告書解説書を公表した[11]。
2015年 – 2015年天津浜海新区倉庫爆発事故: 中国・天津市海新区の港湾地区の倉庫で、二度に渡り危険物倉庫が爆発する事故が発生[13]。死者165人、行方不明8人、負傷者798人の被害を出す[14]。
チャットgpt先生の8月12日のエッセイ
8月12日という日――歴史の静寂と轟音のあいだで
8月12日。この一日は、数千年の時を越えて人類の歓喜と悲劇、希望と絶望が折り重なっている。暦の上では旧暦6月19日、赤口の癸丑(みずのとうし)日。日々の営みにとっては何の変哲もない一日かもしれないが、歴史を振り返ると、この日は決して静かな時の流れではなかったことがわかる。
紀元前30年、エジプトの女王クレオパトラ7世が命を絶った。彼女の死は、アレクサンドロス大王の血筋を引き継ぐプトレマイオス朝の終焉であり、古代エジプト文明がローマ帝国の影に沈んだ瞬間でもある。恋と権力に生き、国とともに散った女王の姿は、単なる歴史の一節以上の意味を持つ。彼女の死は、時に個の運命が文明の節目に立つことを我々に教える。
中世に目を転じれば、1099年、十字軍がアスカロンでファーティマ朝と戦い、1万2千人が虐殺された。キリスト教世界とイスラム世界の境界で繰り広げられた宗教戦争は、勝利の叫びの裏に無数の断末魔を響かせた。数百年後、1676年にはフィリップ王戦争が終結。ワンパノアグ族の酋長メタコメットが戦死し、彼の首は白人たちの村に晒された。征服者の目に、先住民の尊厳など映らなかった。
そして時代は近代、近現代へと進む。1759年のクネルスドルフの戦いでは、フリードリヒ大王が致命的な敗北を喫し、7年戦争の流れが変わった。ロシア・オーストリア連合の猛攻により、プロイセンは1万8千を超える死傷者を出した。栄光と敗北が、将軍の指先ひとつで分かれる冷酷な現実がそこにある。
そして8月12日は、20世紀に入り、空においても地においても、大きな悲劇を記録していく。1944年、ノルマンディー戦線では「ファレーズ・ポケット」と呼ばれる包囲戦が始まり、ドイツ軍に壊滅的な打撃を与えた。敗走と死、瓦礫の上に立つ勝利――それは「正義」の名を冠してもなお、人間の命が数として記録される虚しさを突きつける。
1958年、下田沖で墜落した全日空機は、強風と波の中、海の底に沈んだ。33人の命が海に消え、遺体のすべてすら見つけられなかった。1960年代から急速に拡大した航空産業の中で、犠牲となった一便であり、名もなき人々の旅の終点だった。
そして、日本人にとって8月12日は1985年、日本航空123便墜落事故を思い出さずにはいられない日だ。御巣鷹の尾根に墜落したジャンボ機。520人の命が失われた。夕刻、帰省ラッシュの中、家族のもとへ帰るはずだった人々は、空の上で絶望と恐怖に包まれた。圧力隔壁の不適切な修理――たった一つの綻びが、多くの人生を裂いた。飛行機の残骸、遺族の涙、生存者の証言は、今もこの国の記憶の深層に突き刺さっている。
さらに、2015年、中国・天津での大規模爆発。港湾に眠っていた危険物が、人々の日常を一瞬で破壊し、165人が命を落とした。あの爆音の先に、整備不良や管理責任という静かな罪が横たわっていた。
こうして振り返れば、8月12日は、世界のどこかで、命の終わりと歴史の転回点が重なる不思議な一日であることに気づく。そこには戦争があり、革命があり、事故があり、無名の人々の苦しみがある。
しかし、それらすべてを記録し、思い起こし、語り継ぐ私たちがいる限り、この日が単なる「過ぎ去った一日」では終わらない。日付は数字だが、記憶は重い。私たちが未来を築くために、歴史の「今日」に目を向けるべき理由が、ここにある。
8月12日――それは、歴史の鼓動が静かに、しかし確かに聞こえてくる日である。