kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月10日 1944グアム守備隊玉砕、ほか写真wikipedia投降する日本兵

8月10日

20250810日曜日旧暦6月17日仏滅(辛亥かのといシンガイ)月齢 16.3

乙巳きのとみ年甲申きのえさる月辛亥かのとい日 年末まであと143日

吉方位 隠遁日 辛亥かのとい日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8810%E6%97%A5

8月10日の出来事

955年 – レヒフェルトの戦い :神聖ローマ皇帝オットー1世率いるドイツ軍がハンガリー軍を撃退し、50年に及ぶハンガリーの西方侵略が終結する。

損害 死者 東フランク 3000 ハンガリー 5000

991年 – モルドンの戦い :イングランドはモルドン(英語版)の太守ビュルフトヌス(英語版)、侵入してきたヴァイキングを迎え撃つも敗北。

損害 詳細不明

1584年(天正12年7月5日) – 天正遣欧少年使節がリスボンに到着。

1861年 – ウィルソンズ・クリークの戦い :南北戦争の一局面。

損害  戦死 北軍 258+不明186=444、 南軍 279+10=289

1901年 – 青森県東方沖を震源とするM 7.4の地震で18人が死亡した。前日にもM 7.2の地震があった。

1902年 – 伊豆諸島の鳥島近海を航行中の船舶より、島から噴煙が上がり、集落が噴出物で覆われているのが確認される。噴火は8月7日から9日にかけて発生したとみられ、アホウドリの羽毛採集に従事していた全島民125人が死亡した[3]。

1903年 – パリメトロ火災発生、84名が犠牲となる。

1904年 – 黄海海戦: 旅順の西南黄海海域で、大日本帝国海軍連合艦隊とロシア帝国海軍第一太平洋艦隊が交戦し、大日本帝国海軍が勝利する。

損害 日本 沈没なし 中国 駆逐艦他 9隻沈没

1944年 – マリアナ・パラオ諸島の戦い :第二次世界大戦の一局面。日本軍守備隊が玉砕し、グアムの戦いが終結。

損害 日本 20000(全軍ほぼ玉砕) 米軍 戦死2000島民700 戦傷6000(55000投入死傷率16%)

1945年 – 花巻空襲:アメリカ海軍空母ハンコックの艦載機15機が花巻駅、花巻小学校周辺を空襲。673戸が焼失し、42名が死亡[6][7]。

1945年 – 東安駅爆破事件 :第二次世界大戦最末期におけるソ連対日参戦の局面。満洲国の東安駅(現 中華人民共和国黒竜江省密山市)で撤退する日本軍が駅施設を爆破するが、まだ発車していなかった避難列車があり、開拓民数百人が死傷。死亡130人以上。

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955年 – レヒフェルトの戦い :神聖ローマ皇帝オットー1世率いるドイツ軍がハンガリー軍を撃退し、50年に及ぶハンガリーの西方侵略が終結する。

損害 死者 東フランク 3000 ハンガリー 5000

レヒフェルトの戦い(レヒフェルトのたたかい、ドイツ語: Schlacht auf dem Lechfeld)は、955年8月10日、東フランク王オットー1世指揮下の東フランク軍が、侵入してきたハンガリー大公国(英語版)(ハンガリー)の騎馬民族ウゴル系マジャル人(ハンガリー人)を撃退した戦い。

991年 – モルドンの戦い :イングランドはモルドン(英語版)の太守ビュルフトヌス(英語版)、侵入してきたヴァイキングを迎え撃つも敗北。

損害 詳細不明

損害 詳細不明

モルドンの戦い(モルドンのたたかい, 英語:Battle of Maldon)は、エゼルレッド2世の代の西暦991年8月10日、イングランドのエセックスにあるモルドンの近郊で起きた戦闘である。モルドンの太守ビュルフトヌス(英語版)が侵入してきたヴァイキングを迎え撃ち、敗北に終わった。アングロサクソン年代記にはこのときのヴァイキング側の首領はオーラフ・トリュグヴァッソンであったという記述があるが改竄の可能性が高い。

1584年(天正12年7月5日) – 天正遣欧少年使節がリスボンに到着。

1861年 – ウィルソンズ・クリークの戦い :南北戦争の一局面。

損害  戦死 北軍 258+不明186=444、 南軍 279+10=289

ウィルソンズ・クリークの戦い(ウィルソンズ・クリークのたたかい、英:Battle of Wilson’s Creek、またはオークヒルズの戦い、英:Battle of Oak Hills)は、南北戦争の初期1861年8月10日に、ミズーリ州スプリングフィールド近くで北軍とミズーリ州兵との間で行われた戦闘である。これはミシシッピ川より西で行われた最初の主要会戦であり、「西のブルラン」と呼ばれることもある。

1901年 – 青森県東方沖を震源とするM 7.4の地震で18人が死亡した。前日にもM 7.2の地震があった。

1902年 – 伊豆諸島の鳥島近海を航行中の船舶より、島から噴煙が上がり、集落が噴出物で覆われているのが確認される。噴火は8月7日から9日にかけて発生したとみられ、アホウドリの羽毛採集に従事していた全島民125人が死亡した[3]。

1903年 – パリメトロ火災発生、84名が犠牲となる。

1904年 – 黄海海戦: 旅順の西南黄海海域で、大日本帝国海軍連合艦隊とロシア帝国海軍第一太平洋艦隊が交戦し、大日本帝国海軍が勝利する。

損害 日本 沈没なし 中国 駆逐艦他 9隻沈没

黄海海戦(こうかいかいせん、ホワンハイかいせん)は、1904年(明治37年)8月10日に大日本帝国海軍連合艦隊とロシア帝国海軍第一太平洋艦隊(旅順艦隊)との間で戦われた海戦[1]。この海戦でロシア太平洋艦隊の艦船は激しく損傷し、以後大規模な海戦を行うことはなかった。

1944年 – マリアナ・パラオ諸島の戦い :第二次世界大戦の一局面。日本軍守備隊が玉砕し、グアムの戦いが終結。

損害 日本 20000(全軍ほぼ玉砕) 米軍 戦死2000島民700 戦傷6000(55000投入死傷率16%)

1944年のグアムの戦い(グアムのたたかい、Battle of Guam)は、第二次世界大戦におけるマリアナ-パラオ戦役の戦いの一つ。サイパンの戦いに次ぐ死傷者を出した。

グアム島はマリアナ諸島中の島で、大戦開始前にはアメリカの統治下にあったが1941年12月10日に日本軍が占領した。

1943年2月にガダルカナルの戦いで日本軍を打ち破り、中部太平洋の日本勢力圏に圧力を強めるアメリカ軍を食い止める為、日本は1943年9月30日の最高戦争指導会議で裁可された「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」に「確保スヘキ要域」として絶対国防圏を定めたが、アメリカ軍は、ギルバート・マーシャル諸島の戦いで中部太平洋の日本勢力下の各島を飛び石作戦で攻略し、じりじりと日本本土に迫ってきていた。その為、サイパン・グアム・テニアンのマリアナ諸島が絶対国防圏の最前線として注目されることとなり、日本軍は戦力増強を急いだ。

最重要拠点は戦前から日本の委任統治領で、多くの日本人が暮らし、中部太平洋を管轄していた第31軍司令部が置かれたサイパン島であったが、グアム島もそれに次ぐ重要拠点として戦力強化が図られた(詳細は#日本軍の戦略を参照)。

アメリカ軍にとってもマリアナ諸島は開発が進んでいた戦略爆撃機B-29の理想的な基地になり得ること、また将来的に台湾・沖縄を攻略し、中国大陸や日本本土に侵攻する為の前進基地にもなることなどで戦略的な価値が極めて高く重点目標とされていた。 太平洋方面のアメリカ軍総司令官の太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツは、マリアナ諸島攻略の為に、高速空母艦隊を中心とした大艦隊と、海兵隊を主力とした水陸両用軍団の大部隊を空前の規模で遠征させてきた。

日本軍も再建した機動部隊第一機動艦隊や基地航空隊等の戦力で迎撃したが、マリアナ沖海戦の敗北により、アメリカ軍のマリアナ諸島への上陸を阻止することができずに、サイパンに続き、グアムとテニアンにもアメリカ軍が上陸し守備隊との間で激しい戦闘が繰り広げられる事となった。

1945年 – 花巻空襲:アメリカ海軍空母ハンコックの艦載機15機が花巻駅、花巻小学校周辺を空襲。673戸が焼失し、42名が死亡[6][7]。

概要

空襲を実行したアメリカ海軍部隊の艦載機戦闘報告書(原本は米国国立公文書館、コピーが日本の国立国会図書館に保存)によれば、アメリカ海軍の航空母艦ハンコックの艦載機22機(SB2C爆撃機12機とF6F戦闘機10機)により、500ポンド爆弾等が20発以上投下された[1]。花巻駅や、その周辺の旅館、住宅などの建物は破壊された。焼失家屋673戸、倒壊家屋61戸、死者42名、負者約150名[2]。県内では2番目に大きな戦争被害となった[3]。町内豊沢町にあった宮沢賢治の生家も焼失し、同所に疎開していた高村光太郎も被災した[4][5]。

2015年7月に花巻市はアメリカ国立公文書館の太平洋戦争資料から、本空襲に関する資料(攻撃を実施した空母ハンコックの攻撃隊が作成した戦闘報告書のマイクロフィルム)を入手したと発表し、写真を公表した[6]。また、空襲被害の痕跡を含む戦争遺構を同年よりデータベース化する事業を進めている[7]。

1945年 – 東安駅爆破事件 :第二次世界大戦最末期におけるソ連対日参戦の局面。満洲国の東安駅(現 中華人民共和国黒竜江省密山市)で撤退する日本軍が駅施設を爆破するが、まだ発車していなかった避難列車があり、開拓民数百人が死傷。死亡130人以上。

東安駅爆破事件(とうあんえきばくはじけん)は、1945年8月10日に満州国東満省東安市(現在の中華人民共和国黒竜江省密山市)の南満洲鉄道東安駅で、野積みされていた日本陸軍の弾薬が爆発した事件である。駅構内にはソ連対日参戦による避難民多数が乗った列車が停車中で、100人以上の死者が出た。日本軍が備蓄弾薬の鹵獲を防ぐために爆破処分した際に起きた事故と見られるが、詳細は不明である。現在の地名から、密山駅爆破事件とも呼ばれる。

事件経過

ソ連対日参戦翌日の1945年(昭和20年)8月10日朝、東安駅(現在の密山駅)では最後の避難列車が出発準備中だった。停車中の避難列車3本のうち2本までは無事に発車した。最終列車は、満鉄駅員の回想によれば前後に機関車を連結した30両近い長大な編成で[2][注 1]、駅中央の6番線に停車していた。最終列車には黒咀子開拓団の避難民880人などが乗車していた。

駅員は最終列車発車前に1番線脇の駅舎や倉庫に火を放った。最終列車以外が発車した後に着火したという証言があるが[4]、1番線で待機中の列車に乗っていたが駅舎や倉庫の火災が熱いため6番線の列車に移ったとする証言もある[5]。

給水塔や鉄橋の破壊作業をしていた兵士の乗車に時間がかかったが、ようやく駅員も含め全員が6番線の最終列車に乗車して発車サインが出された。しかし、編成が長過ぎて列車はなかなか動きださず、5-6分も構内に停滞するうち、13番線脇に雨除けシートをかけて野積みされていた日本軍の弾薬が爆発した。爆発前、数人の日本兵が弾薬の山に放火したのが目撃されている(詳細は#爆発の原因参照)。取材した駅員の回想によるとして、激しい爆風を受けて、爆発地点に最も近い中間部分の無蓋貨車3両が横転したとされる[4][注 1]。これに対し、機関車と前から何両かが吹き飛んだとする乗客当事者の証言もある[6]。いずれにせよ、多数の乗客が吹き飛ばされて死傷した(死者数は#犠牲者参照)。

横転車両の部分から列車は切断され、うち前方部分はそのまま発車した。後方部分も横転車両を除いて再編され、約2時間後に生存乗客や残留駅員を乗せて発車した。しかし、前方部分は東海駅、後方部分も西東安駅でソ連軍機の空襲を受けていずれも放棄され、すぐに徒歩での避難に切り替わった[4]。前方部分に乗車していたグループは、牡丹江市へ歩く途中、8月11日にソ連戦車の攻撃を受けて四散し、死者・行方不明者など40人を出した[7]。これに対して、機関車が吹き飛んだとする証言では、昼ごろ、あらためて来た別の機関車に、残りの避難列車がつながれ、動き出したとする[6]。

チャットgpt先生の8月10日のエッセイ

8月10日──災禍と決断が交錯する日

暦のうえでは夏も盛りを越えつつある8月10日。日付としては一見、何の変哲もない一日であるが、歴史を遡ると、この日は幾度も人々の命運を大きく揺るがす戦いや災害、変革の記憶に彩られている。血と煙と、時には希望の息吹さえ交錯するこの日は、偶然なのか、それとも運命の節目なのか。私たちに問いかけてくるものがある。

955年、ドイツの地ではレヒフェルトの戦いが勃発し、神聖ローマ皇帝オットー1世がハンガリーの西進を打ち砕いた。マジャル人の猛攻はここに終焉を迎え、ヨーロッパ中世の秩序形成において大きな一歩となった。5000の命が奪われたその戦場は、ただの戦術的勝利ではなく、「外敵から守る」ことを意識し始めた西欧世界の精神的な始まりでもあった。

一方、遠く離れたイングランドでは991年、モルドンの戦いが起きた。ヴァイキングに挑んだ地元の太守ビュルフトヌスは敗れ去る。詳細な損害は今や失われたが、この戦いはイングランド文学に長く影響を与え、「忠義」と「死を恐れぬ美徳」を詠う詩として記憶に残った。勝敗以上に、ここでは「死の受容」が美徳として語られる。

時を下ると、8月10日はまた、自然の猛威が人間の営みを無慈悲に断ち切る日ともなる。1901年の青森沖地震、1902年の鳥島噴火では、百数十名の命が一瞬にして奪われた。さらに1903年のパリメトロ火災では84名が命を落とし、文明の進歩と危険の背中合わせの現実が突きつけられた。近代の中で人々は「安全」という幻想の上に都市を築きながら、その脆さをこの日何度も思い知らされている。

そして近代戦争の記憶。1904年の黄海海戦では日本海軍がロシア艦隊に勝利し、帝国主義の波に乗る国の「自信」が生まれた。1944年のグアム戦では日本守備隊の玉砕と、米軍の総力戦が交錯し、6万人を超える兵士たちが血を流した。1945年には、花巻空襲と東安駅爆破事件が民間人を巻き込んで起こる。前線の兵士だけではなく、老若男女を問わぬ無差別の死が、戦争の本質を物語っている。

そして忘れてはならないのは、1584年にヨーロッパへと旅立った天正遣欧少年使節たちである。彼らがリスボンに到着したこの日、日本とヨーロッパが初めて深く接続された歴史の一瞬が刻まれた。異文化との対話、希望の種、それもまた8月10日の顔だ。

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8月10日は、勝利も敗北も、創造も破壊も飲み込むような一日だ。それは決して「呪われた日」ではない。むしろ人間が繰り返す歴史の縮図を映し出す鏡のような日である。栄光の影にいつも犠牲があり、平和の礎に誰かの血が流れている。だからこそこの日を思い返す時、私たちは「忘れない」ことの意味を問い直す。

今日もまた、この日を静かに迎える。月齢16.3の月は、あの時代を見ていたかのように、夜空に淡く輝いている。