kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月9日 1945長崎原爆投下、ほか写真wikipediaキノコ雲松田弘道氏撮影

8月9日

20250809土曜日旧暦6月16日先負(庚戌かのえいぬコウジュツ)月齢 15.3

乙巳きのとみ年甲申きのえさる月庚戌かのえいぬ日 年末まであと144日

吉方位 隠遁日 庚戌かのえいぬ日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%889%E6%97%A5

8月9日の出来事

紀元前48年 – ローマ内戦: ファルサルスの会戦。カエサル派と元老院軍の内戦。

損害 死者 カエサル軍 1000人 元老院軍10000人。

378年 – ゴート戦争: ハドリアノポリスの戦い。ゴート族とローマ軍の戦い。

損害 死者 ゴート軍 僅少 ローマ軍20000(全軍30000兵力中)人。

1814年 – インディアン戦争・クリーク戦争: クリーク族がジャクソン砦条約(英語版)への調印を強要され、2,300万エーカーの土地をアメリカ合衆国に割譲させられる。

損害 死者 アメリカ+チェロキー連合軍 僅少 クリーク族 1900(全軍4000中)

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦が1946年4月まで有効であった日ソ中立条約に違反し、満州、朝鮮、樺太の国境を突破して日本に対する侵略を開始する。

1945年 – 第二次世界大戦: アメリカ軍が長崎市への原子爆弾投下を実施。約7万4千人が死亡。

1945年 – 第二次世界大戦: 8月6日の広島に続く2度目の長崎への原爆投下と未明のソ連対日宣戦布告を受け、御前会議を開催。翌8月10日にポツダム宣言の受諾を決定。

1953年 – 神奈川県鎌倉市由比ガ浜の海岸に海上保安庁のヘリコプターが墜落。乗員と海水浴客2人が死亡、重軽傷13人[3]。

1961年 – 熊本県の新日本窒素水俣工場でタンクが爆発する事故。死者・行方不明者12人[4]。

1969年 – チャールズ・マンソンの信奉者がマンソンの命令により女優シャロン・テートら5人の無差別殺害を実行。

1989年 – 岩手県種市町妻子5人殺害事件。岩手県九戸郡種市町(現:洋野町種市)で元漁船員の男が妻子5人を殺害。事件後に自殺しようとしたが死にきれず、4日後(8月14日)に自首。

2009年 – 台風9号の影響により兵庫県佐用町の佐用川が氾濫。山崩れなどの被害を受け、死者行方不明者20人。

2018年 – アフガニスタンのガズニー市にて政府軍とターリバーンが大規模な交戦状態に突入。以後、数日間で310人以上が死亡する規模の戦闘となった[7]。

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紀元前48年 – ローマ内戦: ファルサルスの会戦。カエサル派と元老院軍の内戦。

損害 死者 カエサル軍 1000人 元老院軍10000人。

ファルサルスの戦い(ファルサルスのたたかい、英: Battle of Pharsalus、伊: Battaglia di Farsalo)は、紀元前48年8月9日に、グナエウス・ポンペイウスらの元老院派とガイウス・ユリウス・カエサル率いるカエサル派の間で行われた戦いである。なお、地名のラテン語表記(Pharsalus)、古代ギリシア語表記(Φάρσαλος)からパルサルスの戦い、ファルサロスの戦いとも呼ばれる。ローマ内戦中の最大の激戦となった戦闘であり、カエサル派が元老院派を破った結果、カエサルはローマの覇権確立へ大きく前進した。

378年 – ゴート戦争: ハドリアノポリスの戦い。ゴート族とローマ軍の戦い。

損害 死者 ゴート軍 僅少 ローマ軍20000(全軍30000兵力中)人。

ハドリアノポリスの戦い(ハドリアノポリスのたたかい、羅: Proelium Hadrianopolitanum)は、378年におこなわれた、ローマ帝国皇帝ウァレンス率いるローマ軍とゴート族との戦闘である。この戦いでローマ軍は敗退し、以後トラキア地方はゴート族に占領されることになった。英語表記でアドリアノープルの戦いとも称される。

日没前にローマ軍は高官2名、大隊長(500名‐800名を統率[1])35名が戦死し、全軍の3分の2を失う惨敗を喫した。またウァレンス自身も負傷し、臣下に支えられながら逃げ込んだ小屋の中で、皇帝が中にいるとは知らずに火をかけたゴート族によって焼き殺された。

影響

これにより、西ゴート族は武力を保持したままでローマ帝国内に居座ることになった。帝国中央部に侵入を許したため東西ローマの分裂は決定的となり、いよいよ以てローマ帝国の蛮族化が進むことになった。

この戦いでのローマ軍の敗北は文化人にも大きな衝撃を与えた。元ローマ軍人で歴史家のマルケリヌス・アンミアヌスもその一人である。彼はタキトゥス著作以降(ネルウァ帝以降)のローマ史を記述した『歴史』をウァレンス帝の戦死で終えることになる。

1814年 – インディアン戦争・クリーク戦争: クリーク族がジャクソン砦条約(英語版)への調印を強要され、2,300万エーカーの土地をアメリカ合衆国に割譲させられる。

損害 死者 アメリカ+チェロキー連合軍 僅少 クリーク族 1900(全軍4000中)

クリーク戦争(クリークせんそう、英:Creek War、またはレッド・スティック戦争(レッド・スティックせんそう、Red Stick War)またはクリーク族内戦(クリークぞくないせん、Creek Civil War)、1813年 – 1814年)は、アメリカ合衆国南部でのクリーク族インディアンの内戦に、アメリカ軍が介入した「インディアン戦争」である。結果的にはお定まりのインディアンの強制移住と、合衆国によるインディアンからの領土略奪という民族浄化となった。

インディアンをイギリス軍が支援していたので、米英戦争の一部と考えられることがある。この戦争でアメリカ軍を勝利に導いたアンドリュー・ジャクソンが、白人社会で一躍名声を上げることになった。

結果

ジャクソン砦条約によってアメリカが奪ったインディアンの領土

1814年8月9日、アンドリュー・ジャクソンはクリーク族にジャクソン砦条約(英語版)への調印を強制した。ジャクソンに協力して戦ったクリーク族の酋長たちは抗議したが、結果はアラバマ州の半分とジョージア州の南部にあたるクリーク族の土地93,000km2 をアメリカ合衆国政府に割譲させられることになった。クリーク戦争はクリーク族間の内戦でもあったが、ジャクソンは協力したクリーク族も反攻したレッド・スティックスも区別せず、両方から土地を奪った[24]。割譲された土地のうち、7,700 km2は戦争中アメリカ軍に協力したチェロキー族が要求した[25]。

レッド・スティックスの反乱を弾圧沈下し、どさくさにまぎれてクリーク族の領土をごっそり奪ったジャクソンは、メキシコ湾岸に力を集めることができた。ジャクソン自身の発案でスペイン領フロリダに侵略し、ペンサコーラからイギリス軍を追い出した[26]。続いて1815年1月8日、ニューオーリンズの戦いでイギリス軍を破った。ジャクソンはレッド・スティックスが逃げ込んでいたフロリダに再び侵攻して、第一次セミノール戦争を起こした。

インディアンに対する虐殺と領土強奪というこれらの「勝利」の結果として、ジャクソンは白人の間で国民的英雄となり、1829年に第7代アメリカ合衆国大統領に登り詰めた。アメリカ大統領となったジャクソンは「インディアンは白人と共生できない劣等民族である」とアメリカ合衆国議会で演説し、南東部のインディアンをミシシッピ川を越えて西部に移住させる、インディアン移住法を成立させ、大量虐殺と民族浄化を主導した。

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦が1946年4月まで有効であった日ソ中立条約に違反し、満州、朝鮮、樺太の国境を突破して日本に対する侵略を開始する。

1945年 – 第二次世界大戦: アメリカ軍が長崎市への原子爆弾投下を実施。約7万4千人が死亡。

長崎市への原子爆弾投下(ながさきしへのげんしばくだんとうか)は[2]、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月9日(木曜日)に、連合国のアメリカ合衆国が枢軸国の日本の長崎に対して原子爆弾「ファットマン[注釈 2]」(以下原爆と記す)を投下し[注釈 3]、午前11時02分に炸裂[3]した出来事である[4]。 戦略爆撃機B-29「ボックスカー」により投下された原爆は[5]、広島へ原爆投下[6](リトルボーイ)に続き[7]、人類史上において実戦に使用された2回目の核兵器である[8]。2025年時点では最後の実戦使用例である。

長崎市への原爆投下は、日本本土の戦いにおける日本本土空襲の[9]、一局面であった[10][11][注釈 4]。 爆心地は長崎市松山町で[15]、現在は平和公園となった。当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡[注釈 5]、建物は約36%が全焼または全半壊した[17][注釈 6]。同年9月中旬以降[18]、進駐してきた連合軍が被災後の長崎を撮影し、当時の惨状を記録した[19]。

長崎県、長崎市を指す「長崎」が「ナガサキ」と片仮名表記される場合は、長崎市への原子爆弾投下に関する言及である場合が多い。

1945年 – 第二次世界大戦: 8月6日の広島に続く2度目の長崎への原爆投下と未明のソ連対日宣戦布告を受け、御前会議を開催。翌8月10日にポツダム宣言の受諾を決定。

1953年 – 神奈川県鎌倉市由比ガ浜の海岸に海上保安庁のヘリコプターが墜落。乗員と海水浴客2人が死亡、重軽傷13人[3]。

1961年 – 熊本県の新日本窒素水俣工場でタンクが爆発する事故。死者・行方不明者12人[4]。

1969年 – チャールズ・マンソンの信奉者がマンソンの命令により女優シャロン・テートら5人の無差別殺害を実行。

シャロン・テート(Sharon Tate、本名:Sharon Marie Tate、1943年1月24日 – 1969年8月9日)は、アメリカ合衆国の女優。映画監督ロマン・ポランスキーの妻で妊娠中だったが、1969年に自宅で友人たちとともに狂信的なカルト信者らに刺され、26歳で母子ともに亡くなったことで知られる。代表作は『吸血鬼』[1]。

チャールズ・ミルズ・マンソン(Charles Milles Manson、1934年11月12日[注 1] – 2017年11月19日[1])は、アメリカ合衆国に存在したヒッピーのコミューンの指導者であり犯罪者。1960年代末から1970年代の初めにかけて、カリフォルニア州にて「ファミリー(マンソン・ファミリー)」の名で知られるコミューンを率いて集団生活をしていた[2][3][4]。1969年のテート・ラビアンカ殺人事件(英語版)で悪名高い。

人物概要

ファミリーができあがり始めた当時のマンソンは、さまざまな犯罪行為のために矯正施設でそれまでの人生の半分を過ごした。殺人を犯す前の時期の彼はミュージシャンを志しており、ザ・ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンとは人を介してつながりがあった。マンソンによって書かれ演奏された曲が数曲レコーディングされており、ガンズ・アンド・ローゼズ、マリリン・マンソンを含む歌手たちが、数十年にわたって彼の歌をカバーしている。マリリン・マンソンのリードボーカリスト、ブライアン・ヒュー・ワーナーは、「マンソン」の名を「悪の象徴」として使用している。

マンソンの支持者らは、1969年の7月と8月に、4か所で9件の殺人を犯した。殺人の動機についてマンソンは異議を唱えたが、ロサンゼルス郡検察はマンソンが人種間戦争の勃発を企図したと結論づけた[5]。1971年に、第1級殺人罪と映画女優シャロン・テートを含む7人に対する殺人の共謀罪で有罪判決を受けた。検察の主張によると、マンソンは直接には殺人を指示しなかったが、マンソンの主義主張は共謀の明白な行為を構成するとされた[6]。

カリフォルニア州の最高裁判所にて、1972年にマンソンに対する死刑が決定したが、死刑制度が一時的に廃止されたことで、マンソンは自動的に終身刑に減刑された[7]。カリフォルニア州では、最高刑として死刑が復活したが、コーコラン刑務所(英語版)に服役中のマンソンには何ら影響を及ぼすことはなかった。

1989年 – 岩手県種市町妻子5人殺害事件。岩手県九戸郡種市町(現:洋野町種市)で元漁船員の男が妻子5人を殺害。事件後に自殺しようとしたが死にきれず、4日後(8月14日)に自首。

2009年 – 台風9号の影響により兵庫県佐用町の佐用川が氾濫。山崩れなどの被害を受け、死者行方不明者20人。

2018年 – アフガニスタンのガズニー市にて政府軍とターリバーンが大規模な交戦状態に突入。以後、数日間で310人以上が死亡する規模の戦闘となった[7]。

チャットgpt先生の8月9日のエッセイ

8月9日という日:破壊と選択の交差点

8月9日という日付は、単なる夏の一日ではない。人類の歴史において、この日は幾度も「選択」と「結果」の重みを私たちに突きつけてきた。過去を紐解けば、この日に起きた数々の出来事が、世界史の流れを大きく変えてきたことがわかる。

紀元前48年、ファルサルスの戦い。カエサルがポンペイウスを破り、ローマ共和国から帝政への道筋が定まる。国家の形を左右する内戦の決着の日であり、「誰が支配すべきか」という問いに、剣で答えが与えられた日だった。

378年のハドリアノポリスの戦いでは、ローマ帝国が蛮族と見なしたゴート族に大敗を喫し、皇帝ウァレンス自らが命を落とす。この敗北は、ローマという文明の終焉への静かな始まりだったともいえる。

そして1814年、アメリカの第7代大統領となるアンドリュー・ジャクソンが、インディアンの土地を力で奪い取ったジャクソン砦条約に調印させた日でもある。この日は、アメリカの膨張主義が民族浄化の名のもとに加速した象徴の日でもある。

だが、8月9日を決定的に「記憶の傷」としたのは、1945年の長崎原爆投下である。午前11時2分、ひとつの爆弾が、約7万4千の命を焼き尽くした。これは単なる戦争の延長ではなく、人類が人類に対して選んだ最も非情な「科学の使い道」の結末だった。同じ日、ソ連は日ソ中立条約を破って対日参戦を開始し、戦争終結に向けた外堀が完全に埋まった。

このように、8月9日には「境界を越える行動」が多い。それは条約を破るという政治的決断であったり、圧倒的な暴力によって新たな秩序を築こうとする軍事的行為であったりする。正義か悪かという単純な二項対立では語れない。そこには常に「選んだ者」と「選ばれなかった者」、「決定する側」と「押し付けられる側」との非対称がある。

近年でもこの日は、災害やテロ、戦闘の報が絶えない。2009年には日本で台風被害が、2018年にはアフガニスタンで数百人規模の戦闘が起こった。人間の選択と自然の猛威、その両方が交錯するのもこの日らしい特徴である。

だからこそ、8月9日は思索のためにある。単なる「記念日」でも「慰霊の日」でもなく、過去の「選択」を見つめ直す日である。歴史に何度も現れるこの「境界を越える行動」は、必ずしも勇気でも正義でもなかった。しかし、それを私たちがどう記憶し、どう活かすかによって、未来の8月9日は変わりうる。

歴史は繰り返す。だが、人間には「選び直す」力がある。8月9日、それはその力を静かに、だが強く思い出させる日である。