kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月30日 1971全日空機雫石衝突事故,ほか写真wikipediaボーイング727機

7月30日

20250730水曜日旧暦6月6日大安(庚子かのえねコウシ)月齢 5.3

乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月庚子かのえね日 年末まであと154日

吉方位 隠遁日 庚子かのえね日 南東 東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8830%E6%97%A5

7月30日の出来事

1629年 – イタリア・ナポリで地震。1万人が死亡。

1811年 – メキシコ独立運動の指導者ミゲル・イダルゴがスペインの植民地政府により処刑。

1971年 – 岩手県雫石町上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突。162人が死亡。(全日空機雫石衝突事故)

1995年 – 八王子スーパー強盗殺人事件[6]。3人死亡。

2004年 – ベルギーの工具メーカーの敷地内で、ガスパイプラインから漏れたガスが爆発。死者16名、重傷約50名、軽傷約70名が発生した[8]。

2006年 – レバノン侵攻: イスラエルによってカナ空爆が行われる。

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1629年 – イタリア・ナポリで地震。1万人が死亡。

1811年 – メキシコ独立運動の指導者ミゲル・イダルゴがスペインの植民地政府により処刑。

前半生

1753年、メキシコのグアナフアト州に位置するペンハモ(Pénjamo)近くの農場でその管理人の長男として生まれた。いわゆるクリオーリョ(植民地生まれの白人)である。同農場で教育を受けたあと、1765年からこの地域の中心都市であるバリャドリッド(現モレリア:ミチョアカン州)に移り、最初イエズス会経営の聖フランシスコ・ザビエル校、イエズス会追放後(1767年)は聖ニコラス校で神学を中心に学んだ[1]。

イエズス会が経営する諸学校は、当時のメキシコとしては先進的な教育内容を提供しており、そこにはラテン語だけではなくフランス語などのヨーロッパ俗語や先住民言語の教育、さらには客観的な教会史、メキシコの古代の歴史なども含まれていた。こうした教育は、イダルゴにヨーロッパの先進的な文化や思想に関心を抱かせるだけでなく、幼い頃に農場で生活を共にした先住民やその混血民への愛情を育んだ[1]。

1778年に司祭の資格を獲得したあとも、母校の聖ニコラス校で教鞭をとり、1790年には同校の学長となり、教育改革に尽力した。 しかし、1792年には、学長職を辞している。辞職の理由は明らかではないが、推測される理由としては、学校財政に大幅な赤字をもたらしたこと、改革内容が保守派の反感を買ったこと、数人の女性と関係を持ち子どもを産ませていること、賭博好きであることなどが挙げられる[2]。

辞職後のイダルゴは、周辺地域のいくつかの教区司祭職を歴任し、やがてドローレス村の司祭に着任している。この間、彼の住居はフランスの文学が議論され、演劇や音楽、ダンスが披露される場所になり、「小さなフランス」と呼ばれるようになった[3]。

また、書物から学び取った実学の知識を活用して、陶芸・皮革加工・養蚕といった事業を推進している。ドローレス村が位置するバヒオ地方は、グアナフアトの銀生産を軸に経済成長をとげていたが、いっぽうで鉱山や農業に従事する労働者の賃金などの収入は減少し、度重なる凶作も重なって、彼らの生活水準は低下傾向にあった。したがって、イダルゴの推進する事業は、先住民や混血民を中心とした貧困者が多くを占める教区住民の経済状況を改善することを目的としていた[4]。

いっぽう、イダルゴの社交や議論を好む性格は時には周囲の人々との間に軋轢をもたらした。フランス革命以降、啓蒙思想などの進歩的思想に対する警戒心が高まっていたため、伝統的な神学の改革をはかる彼の議論は、しばしば保守的な思想を抱く人々の反発を招いた。彼らの中には、イダルゴを異端として告発するものもあらわれたため、異端審問所は1800年には彼の素行調査をおこなっている。ただし、裁判そのものは実行に移されていない[5]。

蜂起

1808年に、スペイン本国にナポレオン軍が侵攻し、国王フェルナンド7世を退位させ、ナポレオンの兄であるジョゼフ・ボナパルトを即位させると、スペイン各地では反フランス軍暴動がおこった(スペイン独立戦争)。このニュースがメキシコに伝わると、メキシコ市やバジャドリッド市などでは自治を目指す運動が起こっている。しかし、官僚などの本国出身者のなかには自治によって自分の権力が減退することを憂慮する勢力があり、彼らによって自治運動は武力的に阻止されている。

こうしたなかで、イダルゴは知己のあったイグナシオ・アジェンデの勧誘によって、ドローレス村にほど近いケレタロ市の政治サークルに関わるようになる。このサークルにはケレタロ市やその近郊のクリオーリョが参加しており、その職業は軍人や官僚、商人など多様であった。彼らは、自治運動に反対するスペイン本国出身者たちがナポレオンのスペイン領支配を支持するのではないか、という危機感をいだいていた。そのため、武装蜂起によって、本国出身者の排除を密かに画策するようになった。しかし、この計画は事前に漏れ、ケレタロ市ではメンバーが次々と逮捕された。

このニュースが1810年9月16日深夜にドローレス村に伝わると、イダルゴは演説を行い(「ドローレスの叫び」)、先住民や混血民を中心とする周辺住民を率いて武装蜂起を起こした。演説の正確な内容は伝わっていないが、ナポレオン支配を否定し、その代理である植民地政府を弾劾し、幽閉されているフェルナンド7世の復位を求めたようである。また、カトリックの擁護も演説内容に含まれていた。いっぽう、一般的に演説内容であると信じられている「ガチュピン(スペイン出身の白人の蔑称)に死を!」という表現はのちに付け加えられた可能性が高い[6]。

蜂起が始まり、貧しい先住民や混血民が多数参加して規模が大きくなると、これらの参加者に利する要求が掲げられるようになった。例えば、人頭税の廃止、奴隷制度の廃止、土地改革などがこうした要求にあたる。また、グアナフアト攻略にみられるように、裕福なスペイン人の虐殺が発生し、そのなかには本国出身者のみならず地元出身のクリオーリョも含まれていたことを考えると、反乱は本国からの独立というよりも、貧しい先住民や混血民の裕福なスペイン人に対する階級闘争の性格を帯びていたことが窺える。このため、クリオーリョ層のなかには、自分たちの立場や身の安全を危惧し、反乱軍を支持しない人びとも多かった。

やがて、イダルゴと盟友のイグナシオ・アジェンデとの意見は対立するようになり、メキシコシティの攻略に失敗して反乱軍が劣勢にたたされると、イダルゴはアメリカ合衆国への逃亡を図った。しかし、1811年にスペイン側に逮捕され、チワワでアジェンデら3人の同志と共に銃殺刑に処され、晒し首にされた。

1971年 – 岩手県雫石町上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突。162人が死亡。(全日空機雫石衝突事故

全日空機雫石衝突事故(ぜんにっくうきしずくいししょうとつじこ)は、1971年(昭和46年)7月30日(金曜日)に日本で発生した航空事故である。

岩手県岩手郡雫石町上空を飛行中の全日本空輸(全日空)の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が空中衝突し、双方とも墜落した。自衛隊機の乗員は脱出に成功したが、機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し、乗客155名と乗員7名の計162名全員が死亡した。当時日本国内の航空事故としては最大の犠牲者数を出した事故であり、ANAの三大事故に数えられる。

1995年 – 八王子スーパー強盗殺人事件[6]。3人死亡。

概要

1995年7月30日21時17分頃、東京都八王子市大和田町のスーパー「ナンペイ大和田店」の2階事務所内で拳銃を持った何者かに女性従業員3人が射殺された。被害者はスーパーナンペイ大和田店のパート女性従業員A(47歳)、同アルバイト女子高生従業員B(17歳)、同アルバイト女子高生従業員C(16歳)の3人(年齢はいずれも事件当時)[3]。犯行時間は21時15分から数分間だったと推定されている(被害者Aの知人が事務所へ迎えに来た21時20分までの間)。パート従業員の女性は、体を縛られていなかったが、銃把で右顔面を殴りつけられたのちに金庫の隣に置かれた冷蔵庫脇の隙間に突き飛ばされたものとみられており、女子高生2人の殺害前に額と頭頂部に銃口を押し付けられて、それぞれの箇所に1発ずつ計2発を銃撃されて殺害された[4]。女子高生2人は粘着テープで口を塞がれた上で互いの右手と左手を縛られており、うつ伏せにされた状態で至近距離から後頭部に1発ずつ撃たれて殺害された。3人ともに即死の状態であった[5]。犯人は銃撃後に金品などを何も奪わずに逃走している。犯人が金庫を開けようとした形跡はなく、その他の現金や貴金属類、被害者の持ち物には手をつけておらず、事務所内を物色した形跡すらも無いことから、犯行は金銭目的ではない可能性もある[6]。犯行に使用された拳銃はフィリピン製のスカイヤーズビンガムとされる[7]。

特別捜査本部では、当初においては強盗説を重視して捜査していたが、現在では強盗説と怨恨説の両面で捜査を行っている。事件から15年となる2010年7月に公訴時効が迫っていたが、殺人罪・強盗殺人罪など最高法定刑が死刑の罪について、公訴時効を廃止した上で遡及適用する改正刑法及び刑事訴訟法が同年4月27日に施行され、長期捜査が続けられている。捜査特別報奨金対象事件の中で捜査機関が犯人を特定していない事件[注 1]としては最も発生時期が古い。本件は、未だに犯人検挙に至っておらず未解決事件となっており、警視庁八王子警察署特別捜査本部は、事件解決に向けて鋭意捜査を継続している。

それまでは、主に暴力団やテロリストのみが用いてきた銃器が「東京郊外の小さなスーパーで働く普通の市民」に向けられ、容赦なく殺害した事件の性格から日本警察は「日本における銃犯罪のターニングポイント」と位置づけている[8]。

ナンペイ大和田店は事件後「ひまわり」に改名したが、1998年に閉店した。その後、建物は解体され、跡地は現在、駐車場になっている[9]。

2004年 – ベルギーの工具メーカーの敷地内で、ガスパイプラインから漏れたガスが爆発。死者16名、重傷約50名、軽傷約70名が発生した[8]。

2006年 – レバノン侵攻: イスラエルによってカナ空爆が行われる。

チャットgpt先生の7月30日のエッセイ

7月30日という日をめぐるエッセイ:記憶と叫びの交差点

7月30日という一日は、年のちょうど折り返しを過ぎた頃、盛夏の熱が空気を重く包むころにあたる。しかしこの日付は、ただの季節の通過点にとどまらない。時代や国を越え、幾つもの命と出来事が、この「7月30日」という日付の上で交差している。それは、まるでひとつの点に押し寄せる波のように、歴史の激動と人間の叫びが集まり、今なお語り継がれている。

1629年、ナポリで起きた地震。1万人という夥しい数の命が一瞬にして奪われた。17世紀のヨーロッパにおいて、都市を襲う天災は神の怒りとも受け止められ、人々の心を深く揺さぶったことだろう。自然災害の前では人はかくも無力であり、それは21世紀を生きる私たちにとっても、変わらぬ教訓である。

そして1811年、メキシコの英雄ミゲル・イダルゴが処刑された日でもある。彼の人生は、民のために学び、語り、行動した者の姿を如実に示している。混血民と先住民への愛情、教育と産業を通した自立への支援、そして最後は自ら武器を取り、叫びをあげて立ち上がった。「ドローレスの叫び」は、今なおラテンアメリカの多くの国々で、独立と自由の象徴として語られている。

しかし7月30日は、現代日本においてもまた、痛みと衝撃を刻んだ日だ。1971年、岩手県雫石の空で起きた空中衝突事故。青空の下、日常と非日常が交差したその瞬間、162人の命が消えた。全日空機の乗員・乗客が抱えていた物語、誰にも知られることのなかった未来のひとつひとつが、空中で終わりを迎えたという事実に、言葉は沈黙せざるを得ない。

1995年には、東京・八王子のスーパーで、無防備な市民を狙った凶悪な殺人事件が発生した。金銭目的ともつかず、残虐性だけが際立つこの事件は、日本における「銃」という存在の意味を改めて問いかけた。普通の生活をしていた3人の女性が、突如暴力によって命を絶たれたこの事件は、未だ解決を見ず、犯人も逃げたままである。事件現場だったスーパーは姿を消し、跡地は今や駐車場になった。しかし、記憶は風化しない。夏の夜、静かな街角に、あの日の凍った時間が今も潜んでいるように感じられる。

2004年、ベルギーではガス爆発が16人の命を奪い、2006年にはイスラエルによる空爆がレバノン南部の村カナに壊滅的な打撃を与えた。どちらも「現代的な事故」と「国家による暴力」がもたらした惨事であり、人類の技術や政治が時に人命の重さを軽んじることへの警鐘となっている。

こうして振り返ってみると、7月30日という一日は、ただの数字や日付ではない。そこには、天災の恐怖、独立への希望、技術の暴走、日常の破壊、国家の暴力といった、人間の営みに潜むあらゆる光と影が詰まっている。

この日を記憶すること。それは、過去の出来事をただ悼むのではなく、今日の私たちの生き方に対して問いを投げかける行為である。ドローレスの叫び、雫石の青空、八王子の事務所、カナの瓦礫の中で泣く人々。その全てが、「あなたは何を見つめ、何に抗い、何を守るのか」と、問いかけてくる。

今年の7月30日、私たちはその問いにどう答えるだろうか。熱を孕んだ空の下で、静かに記憶を紡ぎ、未来への意志を確かめる日にしたい。