kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月29日  1937通州事件ほか、写真wikipedia翌日の通州

7月29日

20250729火曜日旧暦6月5日仏滅(己亥つちのといキガイ)月齢 4.3

乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月己亥つちのとい日 年末まであと155日

吉方位 隠遁日 己亥つちのとい日 西 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8829%E6%97%A5

7月29日の出来事

1014年 – クレイディオン峠の戦い。ブルガリア帝国軍が東ローマ帝国軍に敗れる。ブルガリア皇帝サムイルは逃げ延びるが、10月に目を潰された大量の捕虜が帰ってきたのを見てショック死する。

1156年(保元元年7月11日) – 保元の乱: 後白河天皇方の平清盛・源義朝らが、崇徳上皇らの籠る白河御所を夜襲し、上皇方が敗退。

1894年 – 日清戦争: 安城渡の戦い。ラッパ手木口小平が被弾し、死んでも口からラッパを離さなかったとして教科書にも載る。

1937年 – 通州事件。冀東防共自治政府保安隊が日本軍部隊・特務機関および居留民を襲撃。中国人部隊が日本軍の通州守備隊と通州特務機関および日本人居留民を襲撃し、少なくとも約300名を超える日本人を虐殺・暴行・強姦・殺害・略奪した大量虐殺事件[5][6]。

1967年 – ベトナム戦争: アメリカ海軍・航空母艦「フォレスタル」が北ベトナム攻撃中のトンキン湾上で爆発事故を起こし乗員死者132名、負傷者62名を出す大惨事が発生、艦後部を大破する。

1979年 – スペインでバスク祖国と自由による連続爆破事件が発生。バラハス空港などが爆破され空港内だけでも死者5人、負傷者113人の犠牲者[6]。

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1014年 – クレイディオン峠の戦い。ブルガリア帝国軍が東ローマ帝国軍に敗れる。ブルガリア皇帝サムイルは逃げ延びるが、10月に目を潰された大量の捕虜が帰ってきたのを見てショック死する。

クレディオンの戦い(またはベラシツァ山脈の戦い)は、1014年7月29日にクレディオン(またはクリディウム、現在のブルガリアのペトリチ市クリュチ村)において、第一次ブルガリア帝国と東ローマ帝国との間で起きた会戦。10世紀末から11世紀初頭の、ブルガリア皇帝サムイルと東ローマ皇帝バシレイオス2世との半世紀近い争いが最高潮に達した戦いであり、東ローマの決定的勝利に終わった。

捕虜になったブルガリア兵たちはバシレイオス2世の命により目を潰された。彼はその後「ブルガリア人殺し」として知られるようになる。サムイルは生き残って逃れたものの、バシレイオス2世が送ってきた両目を潰された1万4千人ものブルガリア人捕虜がぞろぞろやってくる(盲目の捕虜たちの案内役にするため100人当り1人は片目を潰されずに残されていた)のを見て卒倒し、2日後の同年10月6日に死んだと伝えられている。

1156年(保元元年7月11日) – 保元の乱: 後白河天皇方の平清盛・源義朝らが、崇徳上皇らの籠る白河御所を夜襲し、上皇方が敗退。

1894年 – 日清戦争: 安城渡の戦い。ラッパ手木口小平が被弾し、死んでも口からラッパを離さなかったとして教科書にも載る。

この作戦の日本側の死傷者は88名なのに対して、清国兵は500名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡する。

なお、安城の渡しの戦いで歩兵第21連隊の木口小平二等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残る。

尋常小学校修身書より

キグチコヘイ ハ テキ ノ

タマ ニ アタリマシタ ガ、

シンデモ ラッパ ヲ

クチ カラ ハナシマセンデシタ。

1937年 – 通州事件。冀東防共自治政府保安隊が日本軍部隊・特務機関および居留民を襲撃。中国人部隊が日本軍の通州守備隊と通州特務機関および日本人居留民を襲撃し、少なくとも約300名を超える日本人を虐殺・暴行・強姦・殺害・略奪した大量虐殺事件[5][6]。

日付        1937年(昭和12年)7月29日 午前2時-午前3時[1][2] –

攻撃側人数             3000人 – 4000人(6000人[3][4])

死亡者    通州在留日本人のうち、およそ300人以上

冀東政府保安隊

殷汝耕(冀東防共自治政府政務長官)

冀東防共自治政府の国旗

もともと1933年5月の塘沽協定で、日中の軍事衝突を避けるため非武装地域が設けられ、双方の軍隊は立ち入りが禁止され、治安維持は中国側の警察部隊が担うことになっていた。そのため、日本軍を避け満洲から逃れてきた漢人や馬賊等が採用され、これらは俗に「雑軍」と呼ばれた。

事件の発生

日本軍守備隊への攻撃

1937年7月29日午前2時(午前3時[1])、冀東防共自治政府保安隊ら中国軍が通州日本軍、冀東政権政庁へ攻撃を開始した。殷汝耕を捕獲し、日本軍守備隊、特務機関、通州警察分署を襲撃、その後、日本人・朝鮮人居留民を襲撃し、在留民385名のうち223名が虐殺された[40](午前4時からとの説もある[8])。

日本人居留民への暴虐行為

冀東政府保安隊ら中国人の軍隊は日本軍守備隊が事実上押し込められた状態のもとで、日本人・朝鮮人居留民の家を一軒一軒襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行なった[45]。居留民はもともと日本人100人、朝鮮人180人がいたが、北支事変発生の影響で日本人にとって北京が危険になったとみられ、そこからの流入等で、事件当時約380人になっていたともいわれ[50]、その半数程度は朝鮮人であったのではないかと思われる。いずれもその大部分が惨殺されたとみられる[1]。

1967年 – ベトナム戦争: アメリカ海軍・航空母艦「フォレスタル」が北ベトナム攻撃中のトンキン湾上で爆発事故を起こし乗員死者132名、負傷者62名を出す大惨事が発生、艦後部を大破する。

火災事故

詳細は「en:1967 USS Forrestal fire」を参照

炎上するA-4攻撃機

消火作業中の乗組員

1967年6月にフォレスタルはノーフォークを出港しベトナム水域に展開する。7月29日にトンキン湾で艦載機の発艦を行う。4日間にわたって第17攻撃空母航空団は北ベトナムの目標に対して150回の出撃を行った。

1,000ポンド爆弾が不足していたため、爆薬として高熱に耐え安全な「H6」の代わりに旧式の「コンポジション B」を使用した爆弾が給兵艦ダイヤモンド・ヘッド (USS Diamond Head, AE-19) から補給された。

7月29日10:50 (現地時間) ごろ、フォレスタルの艦載機がベトナムに向けて離陸しようとしていた所、空母のレーダーからの電波をミサイルの発信システムが受信し、誤作動してしまい[注釈 3]、F-4 ファントム IIから発射されたズーニー・ロケット弾がジョン・マケイン海軍少佐のA-4 スカイホークに当たった[注釈 4]。 ロケット弾は燃料タンクに当たり火災が発生した。飛行機は炎に囲まれ、マケインはコックピットをよじ登り機首から給油プローブに飛び移り燃え盛る甲板に飛び降りて避難した。

火災発生後、直ちに消火班が機体に接近して消火を始めたが、1分34秒後にマケイン機の下で「コンポジション B」爆弾が爆発。消火班の水兵や、逃げ遅れた多数の水兵が爆発に巻き込まれて死亡し、付近の機体や爆弾が次々に誘爆。この爆発で消火班が全滅してしまい消火に不慣れな水兵が消火に当たらざるを得なくなったことで適切な消火活動ができず火災は広がり、艦は沈没の危機にさらされた。

マケイン機の前方にあった2機のスカイホークは燃えさかるジェット燃料に飲み込まれ、装備していた爆弾が落下して約6フィート (2m) 転がり、燃えさかる燃料タンクの前で止まった。

9回発生した爆発のうち、8回が旧型の「コンポジション B」による爆発であった。フライトデッキには巨大な穴が空き、艦の内部にJP-5ジェット燃料が流れ込んだ。その結果後部セクションで激しい火災が発生した。事故により132名(134名[4])の死者と62名(161名[4])の負傷者が生じ、2名が行方不明となった。艦は修理のためノーフォークに帰還した。

フォレスタルの艦載カメラはかろうじて爆発から避難したマケインの様子を撮影している。

現在アメリカ海軍では弾薬の安全性およびダメージ・コントロールの教育の際にフォレスタルの事故を教材としている。実際海軍の新兵は「Trial by Fire」と題された、フォレスタルの事故から作成された失敗例と成功例を含むビデオを視聴する。ダメージ・コントロールチームが炎で燃えさかるフライトデッキに泡を吹きかけることは正しい手順であるが、一方海水を吹きかける乗組員がいた場合、泡が洗い流され燃料による火災状況を悪化させることがある。その結果、「ウォッシュ・ダウン」システムが全ての空母に採用された。同システムはフライトデッキを水または泡で氾濫させて消火を行うようになっている。

この火災事故の後、フォレスタルは「フォレスト・ファイア Forrest Fire」「ジッポー Zippo」とあだ名されるようになった。

1979年 – スペインでバスク祖国と自由による連続爆破事件が発生。バラハス空港などが爆破され空港内だけでも死者5人、負傷者113人の犠牲者[6]。

チャットgpt先生の7月29日のエッセイ

7月29日という日――歴史の陰影を映す日付

7月29日という日をカレンダーで眺めただけでは、ただの夏の一日としか思えないかもしれない。蝉の声が響き、子どもたちは夏休みを謳歌している。しかし、その裏側に広がる歴史を辿ると、この一日は決して穏やかでも軽やかでもない、むしろ人間の狂気、勇気、そして無力さが刻まれた深い陰影のある日だと気づかされる。

たとえば、1014年の「クレディオンの戦い」。バルカン半島をめぐる覇権争いの最中、ブルガリア皇帝サムイルは、敵国である東ローマ帝国のバシレイオス2世に大敗を喫する。この敗北の象徴として語られるのが、1万4千人もの捕虜の目が潰され、100人に1人だけが片目を残されたという惨烈な処置だ。彼らは祖国に戻り、皇帝サムイルの前に現れる。それを見た皇帝は絶望し、2日後に命を落とす。この出来事は、戦争の勝利が必ずしも栄光ではなく、むしろ悲劇と憎悪の連鎖を深める行為であることを思い出させる。

時代を飛び越えて、1894年の日清戦争「安城渡の戦い」。この戦場では、木口小平という一人の若き兵士が「死んでもラッパを離さなかった」として記録に残る。教科書にも引用されるその逸話は、戦争を美談化する一方で、個人の命が「物語」として使われることの危うさも感じさせる。彼の死は英雄として称えられる一方、彼が吹いたラッパの音が何を意味していたのか――それは生への執着か、仲間への警告か、あるいは国家への忠誠か、今となっては誰にもわからない。

1937年の通州事件は、歴史の中でも最も重苦しいページのひとつだろう。中国・通州における日本人居留民への襲撃、略奪、虐殺は、当時の中日関係に致命的な傷を残した。市街戦や軍隊同士の戦いではなく、市民、女性、子供といった非戦闘員が標的にされたことは、戦争が道徳や倫理の枠を簡単に壊してしまう現実を突きつける。事件の背景には政治的混乱、武装勢力の流動、そして民族間の緊張があったが、数百人もの命が奪われた事実に対しては、いかなる理屈も沈黙するしかない。

1967年の「フォレスタル火災事故」では、敵ではなく自らの手による誤作動が132人もの命を奪った。ジョン・マケインがこの事故に巻き込まれたことも後年の政治史にとっては興味深いが、この事件が象徴するのは、技術と軍事の複雑な関係だ。旧式の爆弾、訓練不足、混乱した現場――それは現代兵器が抱える「人間性の欠如」という矛盾を示している。

1979年のスペイン、バスク祖国と自由(ETA)による連続爆破事件は、テロリズムという言葉が国際的に重みを持ち始めた時代の象徴だ。空港という「旅立ち」と「帰還」の交差点で、人々の人生は一瞬にして破壊された。犠牲者の多くは政治とは無関係の一般市民だった。正義を語る爆弾は、常に無辜の命を奪う。そこには理想も目的も正当化されるべきではない悲劇がある。

こうして振り返ってみると、7月29日は単なる一日ではない。幾多の命と歴史が、この日を通じて重なり、私たちに問いかけてくる。「記憶することの意味」を。

戦争、内乱、事件、事故――そのどれもが、過去の出来事として片付けられるものではない。むしろ、現代を生きる私たちが、何を学び、何を誤らないようにすべきかを考えるための「記念碑」なのだ。

7月29日。
それは歴史の渦のなかで消えていった人々の声を、私たちが耳を澄ませて聞くべき日である。