kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月23日 1942トレブリンカ強制収容所稼働開始、ほか写真wikipedia看板

7月23日

20250723水曜日旧暦6月29日仏滅(癸巳みずのとみキシ)月齢 27.6

乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月癸巳みずのとみ日 年末まであと161日

吉方位 隠遁日 癸巳みずのとみ日

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7月23日の出来事

1793年 – マインツ攻囲戦 (1793年): フランス占領下のマインツ共和国がプロイセンとオーストリアの連合軍に降伏した。

戦争:第一次対仏大同盟戦争

年月日:1793年4月14日-1793年7月23日

場所:マインツ

結果:連合軍の勝利

損害:フランス・マインツ軍 23000人中 戦死4000名 同盟軍 36000人中 戦死3000人

1882年(光緒8年6月8日) – 壬午事変。朝鮮の漢城で興宣大院君らの煽動を受けた兵士が反乱が起こし、閔妃一族や日本公使館員らを殺害。

1892年 – 徳島市内で高潮の被害。市内の約8割が浸水し、死者311人、全壊家屋2635戸、半壊家屋2559戸、流失家屋644戸などの被害[1]。

1915年 – 東京、木場に本社があった木場銀行が破綻。その影響で木材商42業者が倒産[1]。

1942年 – ナチス・ドイツがトレブリンカ強制収容所を開設する。1942年7月23日の開所から1943年10月19日に放棄されるまでの約14か月の間に、70万人 – 90万人のユダヤ人[# 1]と2000人のロマ[3]が殺害された

1948年 – 北陸地方で集中豪雨。富山県、石川県、福井県、滋賀県で死者・行方不明者14人、負傷者138人、建物全壊307棟、流失建物4047棟、床上浸水19928棟[3]。

1967年 – ミシガン州デトロイトでデトロイト暴動が起こる。5日間続いた住民と警察との対立により43人が死亡、7千人以上が逮捕され、千以上の建物が焼失した[4][5]。

1982年 – 九州地方北部の集中豪雨(昭和57年7月豪雨)により長崎市を中心に大きな被害。死者・行方不明者計299名。(長崎大水害)

1983年 – 島根県西部で集中豪雨による被害。死者・行方不明者107名、負傷者159人、損壊・浸水家屋17,000棟以上という大きな被害が発生した[7]。

1988年 – なだしお事件。遊漁船の乗員・乗客30人が死亡。

なだしお事件(なだしおじけん)は、1988年(昭和63年)7月23日に海上自衛隊潜水艦と遊漁船が衝突し、遊漁船が沈没した海難事故である。海難審判での事件名は潜水艦なだしお遊漁船第一富士丸衝突事件。

1993年 – カンデラリア教会虐殺事件。リオデジャネイロのカンデラリア教会で、警官を含むグループに8人のストリートチルドレンが射殺される。

2011年 – 2011年温州市鉄道衝突脱線事故: 中華人民共和国・浙江省温州市で高速鉄道同士が衝突・脱線し、35人が死亡・約200人が負傷。

2018年 – セーピアン・セーナムノイダム決壊事故: ラオス・セーピアン・セーナムノイダムの1つが決壊。死者42人。

2018年 – アッティカ山火事: ギリシャ首都アテネの東約30キロにあるエーゲ海沿いの避暑地マティなどで山火事が発生。火が強風にあおられて拡大し、多数の死傷者が出た。死者92名。

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1793年 – マインツ攻囲戦 (1793年): フランス占領下のマインツ共和国がプロイセンとオーストリアの連合軍に降伏した。

戦争:第一次対仏大同盟戦争

年月日:1793年4月14日-1793年7月23日

場所:マインツ

結果:連合軍の勝利

損害:フランス・マインツ軍 23000人中 戦死4000名 同盟軍 36000人中 戦死3000人

マインツ攻囲戦(ドイツ語: Belagerung von Mainz)は、第一次対仏大同盟戦争(1792年-1797年)中の軍事作戦である。1792年、マインツがフランス軍に占領され、3月にゲオルク・フォルスターを始めとする同市のジャコバン派が民主主義的信条に基づくマインツ共和国を建国した後、プロイセンとオーストリアの連合軍は翌年、この要塞を奪還するべく進撃した。

1882年(光緒8年6月8日) – 壬午事変。朝鮮の漢城で興宣大院君らの煽動を受けた兵士が反乱が起こし、閔妃一族や日本公使館員らを殺害。

概略

朝鮮国王高宗の王妃閔妃を中心とする閔氏政権は、開国後、日本の支援のもと開化政策を進めたが、財政出費がかさんで旧軍兵士への俸給が滞ったことが反乱のきっかけとなった。すなわち、閔氏政権は近代的軍隊として「別技軍」を新設し、日本人教官を招致して教練を開始したが、これに反発をつのらせた旧式軍隊が俸給の遅配・不正支給もあって暴動を起こし、それに民衆も加わって閔氏一族の屋敷や官庁、日本公使館を襲撃し、朝鮮政府高官、日本人軍事顧問、日本公使館員らを殺害したものである[1]。朝鮮王宮にも乱入したが、閔妃は王宮を脱出した[1]。反乱軍は閔氏政権を倒し、興宣大院君を担ぎ出して大院君政権が再び復活した。

日本は軍艦4隻と千数百の兵士を派遣し、清国もまた朝鮮の宗主国として属領保護を名目に軍艦3隻と兵3,000人を派遣した[1]。反乱軍鎮圧に成功した清は、漢城府に清国兵を配置し、大院君を拉致して中国の天津に連行、その外交的優位のもとで朝鮮に圧力をかけ、閔氏政権を復活させた[1]。日本は乱後、清の馬建忠の斡旋の下、閔氏政権と交渉して済物浦条約を締結し、賠償金の支払い、公使館護衛のための日本陸軍駐留などを認めさせた。清国は朝鮮政府に外交顧問を送り、李鴻章を中心とする閣僚は朝鮮に袁世凱を派遣、袁が事実上の朝鮮国王代理として実権を掌握した[1]。こののち袁世凱は、3,000名の清国軍をひきつづき漢城に駐留させた[1]。この一連の動きの中で、中朝商民水陸貿易章程が締結された。この乱により、朝鮮は清国に対していっそう従属の度を強める一方、朝鮮における親日勢力は大きく後退した。

1892年 – 徳島市内で高潮の被害。市内の約8割が浸水し、死者311人、全壊家屋2635戸、半壊家屋2559戸、流失家屋644戸などの被害[1]。

1915年 – 東京、木場に本社があった木場銀行が破綻。その影響で木材商42業者が倒産[1]。

1942年 – ナチス・ドイツがトレブリンカ強制収容所を開設する。1942年7月23日の開所から1943年10月19日に放棄されるまでの約14か月の間に、70万人 – 90万人のユダヤ人[# 1]と2000人のロマ[3]が殺害された

トレブリンカ強制収容所(トレブリンカきょうせいしゅうようじょ、Konzentrationslager Treblinka)、もしくはトレブリンカ絶滅収容所(トレブリンカぜつめつしゅうようじょ、Vernichtungslager Treblinka)は、ワルシャワから北東約90kmに存在したナチス・ドイツの強制収容所である。ポーランドのユダヤ人絶滅を目的としたラインハルト作戦に則って作られた三大絶滅収容所の一つである(他にベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所)。

1942年7月23日の開所から1943年10月19日に放棄されるまでの約14か月の間に、70万人 – 90万人のユダヤ人[# 1]と2000人のロマ[3]が殺害されたと推定されている。

1948年 – 北陸地方で集中豪雨。富山県、石川県、福井県、滋賀県で死者・行方不明者14人、負傷者138人、建物全壊307棟、流失建物4047棟、床上浸水19928棟[3]。

1967年 – ミシガン州デトロイトでデトロイト暴動が起こる。5日間続いた住民と警察との対立により43人が死亡、7千人以上が逮捕され、千以上の建物が焼失した[4][5]。

1982年 – 九州地方北部の集中豪雨(昭和57年7月豪雨)により長崎市を中心に大きな被害。死者・行方不明者計299名。(長崎大水害)

1983年 – 島根県西部で集中豪雨による被害。死者・行方不明者107名、負傷者159人、損壊・浸水家屋17,000棟以上という大きな被害が発生した[7]。

1988年 – なだしお事件。遊漁船の乗員・乗客30人が死亡。

なだしお事件(なだしおじけん)は、1988年(昭和63年)7月23日に海上自衛隊潜水艦と遊漁船が衝突し、遊漁船が沈没した海難事故である。海難審判での事件名は潜水艦なだしお遊漁船第一富士丸衝突事件。

1993年 – カンデラリア教会虐殺事件。リオデジャネイロのカンデラリア教会で、警官を含むグループに8人のストリートチルドレンが射殺される。

カンデラリア教会虐殺事件(ポルトガル語: Chacina da Candelária、英語: Candelária massacre、カンデラリアきょうかいぎゃくさつじけん)は、1993年7月23日、ブラジル・リオデジャネイロのカンデラリア教会で、8人のモレーキ・ジ・フア(ストリートチルドレン)が警官を含むグループに射殺された事件。刑事司法判決は2人のみ有罪。

事件の背景と反響

カンデラリア教会(ローマ・カトリック)は、多くが違法薬物売買、売春などに関わった、家のない子どもたちの簡易宿泊所の機能を持っていて、食料、シェルター、教育、宗教指導などの援助を行っていた。

事件前日の朝、子どもたちはパトカーに投石。

夜中、教会の前に停車した数台の車のグループは子どもたちのグループ(約70名)に発砲。8人が死亡。数名が負傷。なおこれは、現場に駆けつけたイヴォネ(子どもたちの救護活動を長年行っていた)の証言であり、彼女は実際は何人殺されたのかも不明であると述べている。当時のマスコミ発表では6名死亡と伝えられた。

リオデジャネイロは国際的観光都市で知られるが、長年のインフレなどによる国家的な経済不安定の影響下から、このような路上生活をする少年や犯罪行為に走る少年たちが問題視されていた。またこのような犯罪行為に走る少年があとを断たないことから、地域や社会から不満の声が根強かった。その後、警察および関係者により路上生活者への「取締り」や「補導」を名目とする暴力行為が次第に明るみに出るも、商店主や地主らのシンパから保釈金のカンパや警官側に有利な裁判への証言があり、無罪として釈放となったこともあった。またリオには「死の部隊」と呼ばれるグループがあり、商店主らは治安悪化などで観光客などの客足が伸び悩むことから、給料の安い警官や元警官などがこうした依頼を受けて路上生活者に言葉巧みに近づいて車内や人気のない場所で暴行や殺人を行っている。したがって、それらを偶然目撃した一般市民も多くを語らない。

国際社会はこの事件を非難、子どもたちに発砲したグループは起訴される。

リオ地裁は、元警官マルクス・ビニシウス・エマヌエル被告(29歳)に禁錮309年の有罪判決[1]を言い渡した。

2011年 – 2011年温州市鉄道衝突脱線事故: 中華人民共和国・浙江省温州市で高速鉄道同士が衝突・脱線し、35人が死亡・約200人が負傷。

2018年 – セーピアン・セーナムノイダム決壊事故: ラオス・セーピアン・セーナムノイダムの1つが決壊。死者42人。

2018年 – アッティカ山火事: ギリシャ首都アテネの東約30キロにあるエーゲ海沿いの避暑地マティなどで山火事が発生。火が強風にあおられて拡大し、多数の死傷者が出た。死者92名。

チャットgpt先生の7月23日のエッセイ

7月23日という日──災禍と歴史の交差点で

7月23日という日は、世界のさまざまな場所で、時代も背景も異なる出来事が不思議なほど集中して起きている。幾多の災禍と、人間社会の矛盾や苦悩が露わになった日でもあり、その記録は重く、深く、考えさせられるものばかりである。

たとえば1793年、この日にはフランス革命期の混乱の只中で、プロイセンとオーストリア連合軍がマインツ共和国を包囲・降伏させた「マインツ攻囲戦」が終結した。マインツでは、革命の理想を抱いた市民が一時的に共和国を築いたが、その夢は現実の戦火の前に潰えることとなった。理想と現実の乖離がここにはある。

また1882年の壬午事変では、開国直後の朝鮮において日本と清の勢力が衝突し、近代化の波に揺れる東アジアの力学が表面化した。ここにも、国家の主権、民衆の不満、そして大国の思惑が交錯している。歴史は、時に一発の銃声や一度の暴動によって、何十年も続く外交の潮流を変えてしまう。

日本国内でも、7月23日には多くの自然災害が起きている。1892年の徳島高潮被害、1982年の長崎大水害、1983年の島根の集中豪雨などは、どれも命と暮らしを突然奪っていった。特に1982年の長崎では、わずか数時間のうちに街の姿が一変し、299名もの命が奪われた。自然の猛威の前に人は脆弱でありながら、記録を残し、備え、祈りを重ねてきた。

一方、1942年のこの日はナチス・ドイツが「トレブリンカ強制収容所」を開所した日でもある。この地では約14か月の間に、70万〜90万人ものユダヤ人と、2,000人のロマが殺されたとされる。数の大きさが、むしろ感覚を麻痺させてしまう。人類が生み出した最も恐るべき暴力の象徴として、この日を記憶しなければならない。

加えて1988年には、海上自衛隊の潜水艦と遊漁船の衝突によって30名が死亡する「なだしお事件」が発生し、1993年にはブラジル・リオデジャネイロで警官がストリートチルドレンを銃殺するという「カンデラリア教会虐殺事件」が起きている。どちらも権力の過信と、弱者に対する無関心が招いた悲劇だった。

災害も、戦争も、暴力も、「7月23日」を選んでやって来たわけではない。だがこの日に多くの事件や事故が重なることが、人間の無力さと希望、錯綜する正義と悪の曖昧さ、自然との共生の困難さなど、私たちが直視すべきテーマを凝縮して示しているように思えてならない。

毎年、7月23日がやってくるたびに、私たちは過去を思い出し、記録に手を合わせ、未来に向けて問いを投げかけるべきなのかもしれない。「今、私たちは同じ過ちを繰り返していないだろうか」と。

それが、この日に刻まれた多くの命と歴史に対する、ささやかながらも真摯な応答となるだろう。