kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月21日  1944グァムの戦い、ほか写真wikipedia上陸する米海兵隊、ほか

7月21日

20250721月曜日旧暦6月27日友引(辛卯かのとうシンボウ)月齢 25.6

乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月辛卯かのとう日 年末まであと163日

吉方位 隠遁日 辛卯かのとう日 東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8821%E6%97%A5

7月21日の出来事

紀元前356年 – ヘロストラトスがエフェソスのアルテミス神殿に放火。

1185年(元暦 2年6月23日)- 平重衡が南都焼討で東大寺大仏や興福寺を焼亡させた罪により、木津川畔で斬首される。

1798年 – エジプト・シリア戦役: ピラミッドの戦いでナポレオン軍が勝利。

戦争:エジプト・シリア戦役(フランス革命戦争・ナポレオン戦争)

年月日:1798年7月21日

場所:エジプト北部カイロ近郊

結果:フランス軍の勝利

損害:フランス軍 2万人 戦死300人 オスマン帝国軍 6万人 戦死20000人

1861年 – 南北戦争: 第一次ブルランの戦いで北軍が南軍に大敗する。

戦争:南北戦争

年月日:1861年7月21日

場所:バージニア州フェアファックス郡およびプリンスウィリアム郡

結果:南軍の勝利

損害:北軍 35000人中 戦死傷2896人 南軍 32500人中 戦死傷1982人

1942年 – 高尾登山鉄道のケーブルカーが暴走。乗務員・乗客3名死亡、65名負傷の事故発生[3]。

1944年 – 第二次世界大戦・太平洋戦争: 米軍がグアム島に上陸、グアムの戦いがはじまる。

戦争:太平洋戦争

年月日:1944年7月21日 – 8月10日

場所:マリアナ諸島グアム島

結果:アメリカの勝利

損害:日本軍 22554人中 戦死18500人捕虜1250人 米軍 55000人中 

海兵隊 戦死2124人 戦傷5676人 海軍戦死64人 戦傷233人 死傷率14.7%

1972年 – 血の金曜日事件。北アイルランド・ベルファストでIRA暫定派による連続爆弾テロが行われ150名以上に上る死傷者が出た。

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紀元前356年 – ヘロストラトスがエフェソスのアルテミス神殿に放火。

世界の七不思議のリストの編纂者である、紀元前2世紀後半のシドンのアンティパトレスは次のように表現している。

私は戦車が通りうるほど広いバビロンの城壁を見、アルペイオス河畔のゼウス像を見た。空中庭園も、ヘリオスの巨像も、多くの人々の労働の結集たる大ピラミッドも、はたまたマウソロスの巨大な霊廟も見た。しかし、アルテミスの宮がはるか雲を突いてそびえているのを見たとき、その他の驚きはすっかり霞んでしまった。私は言った、「見よ、オリンポスを別にすれば、かつて日の下にこれほどのものはなかった」

— アンティパトレス、『パラティン詩選集』9巻58[要出典]

エフェソスのアルテミス

エフェソスのアルテミス像(複製、18世紀)

アルテミスはギリシアの女神である。アポローンと双子で、清純な女狩人として知られ、また、ティーターンやセレーネーに代わる月の女神である。アテネでは、クレタ島の地母神の性格を受け継いだオリンピアの女神の中で、アテーナーがアルテミスよりもあがめられていた。

一方、エフェソスでは、アルテミスは非常に敬われていた。例えば、月の1つはアルテミスの名前を冠しており、その月には丸1ヶ月祝祭が催された。信仰の対象はギリシア文化以前の古い偶像であった。その元となる偶像は木製で、ギリシアのアルテミスに見られる処女性とは対照的に、豊穣多産を象徴する多数の乳房を持っていた。そして、この女神の象徴は蜂であった。

この偶像の複製や縮小したものが古代には出回り、現在も残っている。また、その偶像は、ギリシア本土のものとは違い、エジプトや近東に見られるように、体と足が先細りの柱のようになっており、そこから足首が出ている。足首の周りには、魚の尾鰭らしきものがある。これは下半身が魚(=知恵の神)であることを示唆している。

また、エフェソスで鋳造されたコインでは、その多数の乳房を持った女神が、キュベレーの特徴として見られるように、城壁冠(胸壁形の金冠)をつけている。そして、蛇が絡み合ってできた柱、またはウロボロス(自分の尾を自分の口に入れている蛇)を積み上げたものに手を置いている。

ローマ皇帝ガリエヌスの治世の262年、再建された神殿は、ゴート人の襲撃の中で略奪・破壊された。「ゴート人の指導者たちは、船を操り、ヘレスポント海峡(現在のダーダネルス海峡)を越えてアジアにやってきた。多くの都市が破壊され、有名なアルテミス神殿に火をつけた」[4]と伝えられている。

それから200年の間に、エフェソスの人々の大多数はキリスト教に改宗し、アルテミス神殿はその魅力を失った。

こうして、キリスト教徒によって神殿は完全に破壊されてしまった。その残骸の石は他の建物に使われ、神殿の跡地にはキリスト教の教会が建った。

1185年(元暦 2年6月23日)- 平重衡が南都焼討で東大寺大仏や興福寺を焼亡させた罪により、木津川畔で斬首される。

『平家物語』における重衡

重衡は時子の産んだ子としては3番目の男子であり、武門の家では嫡男とそうでないものの立場は大きく異なるため、本来ならば重衡はさほど注目される存在ではなかった。同じような立場の清盛の弟である経盛、教盛、頼盛、忠度らがほとんど役割がないのに対し、重衡の扱いは突出している。

平徳子が安徳天皇を出産した際には、重衡は中宮亮として、徳子の出産を皆に伝える晴々しい役割を担っている。さらに以仁王が挙兵した際には、総大将として三井寺や興福寺、般若寺といった奈良の寺を攻めていたり、一ノ谷の戦いで捕虜となった後は、捕らえられた重衡のことを、都の人々が清盛にとっても時子にとっても「おぼえの御子」で「重き」存在であったと噂しているシーンがある[7]。さらに巻第十では、半分近くが重衡について語られており、巻第十一で亡くなるまで、かなり注目されている[8]。

『平家物語』覚一本巻第十「内裏女房」によれば、生捕りになった後、囚われの身の重衡のところに、かつて仕えていた侍の知時が訪れ、実平の許しを得て一晩無聊を慰める機会があったという。重衡は思いがけないことに喜びの涙を流し、知時と昔話に耽る。話がかつて交際のあった内裏で働く女房のことになり、重衡は知時に手紙を届けてほしいと述べる。内裏にやってきた知時が声をかけると、女房は日頃の慎みも忘れ、自ら端近まで出て手紙を受け取った。知時は重衡のもとに帰り、女房が罪人重衡のことを思っているのを知った重衡は、牛車を遣わして、束の間会うことになった。和歌を交わし、短い時間ながらも会うことのできた女房は、重衡の死後に、出家して重衡の菩提を弔い続けたという。この話は、内裏で働く身分のある貴族の女性が、戦場で血を浴びて穢れたばかりでなく、多くの罪もない人や大仏を焼いてしまった重衡に、未だに愛情を持っている姿を描くことで、重衡が真の悪人ではなく、運と仏に見放された気の毒な貴人と印象づけている[9]。

重衡は東大寺を焼いてしまい、隠れていた女子供や老僧を何千人も焼死させたばかりか、大仏の首が焼け落ちるという事態を引き起こし、捕虜となった後には、都の中を罪人として引き回され、鎌倉へ移送されて源頼朝と対面し、最期は奈良の僧兵に引き渡されて首を晒されている。これを基に人物像を作れば、大悪人として書くことは容易であり、勧善懲悪の観点からも非常に描きやすいのにもかかわらず、多くの章を割いて、多くの人に愛される存在として描かれている。

1798年 – エジプト・シリア戦役: ピラミッドの戦いでナポレオン軍が勝利。

戦争:エジプト・シリア戦役(フランス革命戦争・ナポレオン戦争)

年月日:1798年7月21日

場所:エジプト北部カイロ近郊

結果:フランス軍の勝利

損害:フランス軍 2万人 戦死300人 オスマン帝国軍 6万人 戦死20000人

ナポレオンは、エジプト軍の中で戦場で考慮すべきは騎兵隊だけであると判断した。彼はこう言って配下の軍隊を鼓舞した。「兵士諸君!あの遺跡の頂から40世紀の歴史が諸君を見下ろしている」

1861年 – 南北戦争: 第一次ブルランの戦いで北軍が南軍に大敗する。

戦争:南北戦争

年月日:1861年7月21日

場所:バージニア州フェアファックス郡およびプリンスウィリアム郡

結果:南軍の勝利

損害:北軍 35000人中 戦死傷2896人 南軍 32500人中 戦死傷1982人

1942年 – 高尾登山鉄道のケーブルカーが暴走。乗務員・乗客3名死亡、65名負傷の事故発生[3]。

1944年 – 第二次世界大戦・太平洋戦争: 米軍がグアム島に上陸、グアムの戦いがはじまる。

戦争:太平洋戦争

年月日:1944年7月21日 – 8月10日

場所:マリアナ諸島グアム島

結果:アメリカの勝利

損害:日本軍 22554人中 戦死18500人捕虜1250人 米軍 55000人中 

海兵隊 戦死2124人 戦傷5676人 海軍戦死64人 戦傷233人 死傷率14.7%

1944年のグアムの戦い(グアムのたたかい、Battle of Guam)は、第二次世界大戦におけるマリアナ-パラオ戦役の戦いの一つ。サイパンの戦いに次ぐ死傷者を出した。

グアム島はマリアナ諸島中の島で、大戦開始前にはアメリカの統治下にあったが1941年12月10日に日本軍が占領した。

1943年2月にガダルカナルの戦いで日本軍を打ち破り、中部太平洋の日本勢力圏に圧力を強めるアメリカ軍を食い止める為、日本は1943年9月30日の最高戦争指導会議で裁可された「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」に「確保スヘキ要域」として絶対国防圏を定めたが、アメリカ軍は、ギルバート・マーシャル諸島の戦いで中部太平洋の日本勢力下の各島を飛び石作戦で攻略し、じりじりと日本本土に迫ってきていた。その為、サイパン・グアム・テニアンのマリアナ諸島が絶対国防圏の最前線として注目されることとなり、日本軍は戦力増強を急いだ。

最重要拠点は戦前から日本の委任統治領で、多くの日本人が暮らし、中部太平洋を管轄していた第31軍司令部が置かれたサイパン島であったが、グアム島もそれに次ぐ重要拠点として戦力強化が図られた(詳細は#日本軍の戦略を参照)。

アメリカ軍にとってもマリアナ諸島は開発が進んでいた戦略爆撃機B-29の理想的な基地になり得ること、また将来的に台湾・沖縄を攻略し、中国大陸や日本本土に侵攻する為の前進基地にもなることなどで戦略的な価値が極めて高く重点目標とされていた。 太平洋方面のアメリカ軍総司令官の太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツは、マリアナ諸島攻略の為に、高速空母艦隊を中心とした大艦隊と、海兵隊を主力とした水陸両用軍団の大部隊を空前の規模で遠征させてきた。

日本軍も再建した機動部隊第一機動艦隊や基地航空隊等の戦力で迎撃したが、マリアナ沖海戦の敗北により、アメリカ軍のマリアナ諸島への上陸を阻止することができずに、サイパンに続き、グアムとテニアンにもアメリカ軍が上陸し守備隊との間で激しい戦闘が繰り広げられる事となった。

戦力 日本22000人 米国6万人

死者 日本20000人 米国2500人

1972年 – 血の金曜日事件。北アイルランド・ベルファストでIRA暫定派による連続爆弾テロが行われ150名以上に上る死傷者が出た。

チャットgpt先生の7月21日のエッセイ

7月21日──火の記憶と歴史の選択

7月21日という日は、歴史のなかで何度も「火」と「破壊」と「転機」が交錯する象徴的な日である。その火は、時に神殿を焼き払い、時に国土を焼き、あるいは人心に火を点けた。

紀元前356年、ギリシャの都市エフェソスで、ヘロストラトスという無名の男が世界の七不思議の一つ「アルテミス神殿」に火を放った。彼の目的は「名を残すこと」だった。狂気と野心が交差するこの犯行は、彼自身が処刑された後も語り継がれ、皮肉にも「忘れられざる名」を歴史に刻んでいる。そのアルテミス神殿を称えた詩人アンティパトレスは、「オリンポスを別にすれば、かつて日の下にこれほどのものはなかった」と語ったが、それすらも、焼かれて消えた。尊崇の対象であるはずの神殿すら、人間の「欲望の炎」によって崩れ去る──その事実が、今も痛烈に響く。

同じように、日本では1185年、平重衡が東大寺を焼いた罪で処刑されている。重衡は、ただの「加害者」としてのみ語られるには複雑すぎる人物であった。『平家物語』が描く彼の姿には、人としての情、葛藤、そして赦しがある。恋人との再会、和歌のやりとり、そして彼女が出家し、重衡の菩提を弔った話は、火のように激しい戦の中にも、かすかな人間味と愛情の火種が残っていたことを物語る。

1798年のピラミッドの戦いでは、ナポレオンが兵士たちに「40世紀の歴史が諸君を見下ろしている」と語り、時空を超える威圧と鼓舞の言葉を放った。このセリフは、戦地に立つ兵士にとって歴史の重みを意識させると同時に、名を刻む使命感を与える「火」であったのかもしれない。歴史は火と同じで、手にすれば温かさも得られるが、制御を失えば全てを焼き尽くす。

アメリカ軍が1944年にグアム島へ上陸した日もこの日だ。日本軍が絶対国防圏としたこの島が陥落することは、戦争の流れを大きく変えた。失われた2万人の日本兵と2500人のアメリカ兵。名前すら記録に残らない彼ら一人ひとりにも、「見下ろされる歴史」ではなく、「見上げるべき未来」があっただろう。戦争の火に焼かれた島々は、今は平和の観光地として再生している。しかし、その地面の下には、熱い記憶が今も眠っている。

そして1972年、北アイルランド・ベルファストで起きた「血の金曜日」。IRAによる連続爆破テロが市街地を震撼させ、150人以上の死傷者を出した。政治の火、宗教の火、民族の火。それらが人を焼き、人を動かす。だが、焼けた街を再建するのもまた、人の手である。

歴史のなかで、火は常に両義的だ。破壊であり、浄化であり、覚醒であり、警告でもある。

7月21日は、そうした「火」によって記憶された日だ。だからこそ、私たちは問わねばならない──自分の火は、誰を照らすのか。何を焼くのか。

私たち一人ひとりが火を持っている。情熱という名の火、言葉という火、思想という火。それらがどんな影響を周囲に与えるのかを、歴史は教えている。名を刻むために火を放つのではなく、忘れられない火を、誰かの心に「温もり」として灯せる日々を選びたい。

7月21日、火に照らされた歴史に想いを馳せながら、静かに問う。
「自分は今、何に火を灯しているのだろうか」と。