kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月14日 1789基地外暴徒バスチーユ襲撃、ほかwikipedia当時のスケッチ

7月14日

20250714月曜日旧暦6月20日先勝(甲申きのえさるコウシン)月齢 18.6

乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月甲申きのえさる日  年末まであと170日

吉方位 隠遁日 甲申きのえさる日

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8814%E6%97%A5

7月14日の出来事

756年(至徳元載/聖武元年6月13日) – 安史の乱: 安禄山らの蜂起により唐の皇帝玄宗が楊貴妃を伴って都落ち。

時             755年12月16日 – 763年2月17日

(7年2ヶ月1日間)

場所        中国北部

発端        唐の節度使の安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱

結果        唐王朝・ウイグル帝国連合軍[1]の勝利、唐王朝の弱体化

損害  双方合計七年間で1200万人から3600万人死亡。

1789年 – フランス革命: パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃・占領、政治犯を解放。フランス革命の勃発。

1795年 – 「ラ・マルセイエーズ」がフランスの国歌となる。La Marseillaise.ogg 聴く[ヘルプ/ファイル]

1804年 – ナポレオン・ボナパルトが、廃兵院にて初のレジオンドヌール勲章授与を行う。

1867年(慶応3年6月13日) – 浦上四番崩れ。長崎奉行がキリシタン68人を捕える。

1903年 – 広島県仁方村で集中豪雨により土石流が発生、死者22人[3]。

1933年 – 強制的同一化: ドイツでナチ党以外の政治政党が禁止される。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: アメリカ海軍空母艦載機による北海道空襲。

死者行方不明者1000人強。

1962年 – 熊本県球磨村の球磨川で遊覧船が転覆。9人が死亡[6]。

1964年 – 東京都品川区勝島で、株式会社宝組のニトロセルロース蓄積倉庫から出火。爆発を伴う火災により倉庫の壁が崩れ、下敷きになった消防職員18人、消防団員1人が死亡。負傷158人の惨事が起きる。(品川勝島倉庫爆発火災)

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756年(至徳元載/聖武元年6月13日) – 安史の乱: 安禄山らの蜂起により唐の皇帝玄宗が楊貴妃を伴って都落ち。

時             755年12月16日 – 763年2月17日

(7年2ヶ月1日間)

場所        中国北部

発端        唐の節度使の安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱

結果        唐王朝・ウイグル帝国連合軍[1]の勝利、唐王朝の弱体化

損害  双方合計七年間で1200万人から3600万人死亡。

死者数

一部の学者は当時の国税調査の記録などから、安史の乱の死者数が唐の人口の3分の2にあたる3600万人に上ると概算している。しかし、戦乱によって国税調査システムが崩壊して正確な人口数が把握できなくなっていたため、記録上は3600万人が減少したからといって、その全員が死亡したとは限らない。スティーブン・ピンカーは著書にて3600万人という死者数を引用し、当時の世界人口の6分の1が失われたと提示したが[3]、議論の余地のある数だとも指摘している[20]。ヨハン・ノルベリは著書にて死者数は8世紀の世界人口の約5%を占める1300万人に及ぶと述べた[2]。

1789年 – フランス革命: パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃・占領、政治犯を解放。フランス革命の勃発。

バスティーユ牢獄(バスティーユろうごく、仏: Bastille, Bastille Saint-Antoine、バスティーユ・サンタントワーヌ)は、17世紀から19世紀にかけて存在したフランス パリの牢獄。

元は1357年から建築開始された要塞だが、1659年以降は主に州の刑務所として使用され、1789年までに5,279人の囚人がその門を通過した。収容者の中には政治犯や精神病者なども含まれたため、旧体制(アンシャン・レジーム)支配の象徴とされた。

1789年のフランス革命勃発時に民衆により襲撃され(バスティーユ襲撃)、フランス共和主義の重要なシンボルとなった。革命後の1806年迄に解体され、現在はバスティーユ広場となっている。

実態

アンリ・ガリ公園にあるバスティーユ要塞の基盤遺構

一般に、バスティーユは残虐非道な監獄であると誤解されているが、実情はかなり異なる。部屋は5m四方であり、天井までは8mある。窓は7mの高さにあり、鉄格子がはまっているものの、外の光は十分に入り込む。また囚人は、愛用の家具を持ち込むこともでき、専属のコックや使用人を雇うことすら可能だった。食事も豪勢なものであり、昼食に3皿、夕食には5皿が出され、嫌いなものがあれば別のものを注文することができた。牢獄内ではどのような服装をしようが自由であり、好きな生地、好きなデザインで服をオーダーできた。また図書館、遊戯室なども完備されており、監獄内の囚人が病気などになった場合は国王の侍医が診察した。このため、他の監獄で病人が出たとき、病院ではなくバスティーユに搬送することがあった。このように環境が整っているため、出所期限が訪れても出所しなかったり、何ら罪を犯したわけでもない者が債権者から逃れるために入所したこともある。

バスチーユ襲撃 =当時の囚人は7人

7月14日の朝、7-8千人とも4-5万人ともいわれる群衆が廃兵院に押しかけて、武器と弾薬を引き渡すように要求して約3万2000丁の小銃と20門の大砲を奪い去った。廃兵院のすぐ近くにあったシャン・ド・マルスでは国王軍が野営しており、司令官のブザンヴァル男爵は各部隊の指揮官を集めて対応を協議した。しかし兵が鎮圧に動くか自信が持てないという声が相次いだため国王軍の出動は見送られ[3]、群衆はさらに弾薬を調達するために、数日前に廃兵院から弾薬類が運び込まれたというバスティーユへと向かった。バスティーユは以前から専制政治の象徴として悪評の高い存在であったが、この時点では群衆にバスティーユを襲うつもりはなく、目的はあくまでも自衛のために必要な弾薬を手に入れることであった[4]。

午前10時ごろ、市政委員会から派遣された市民の代表3名がバスティーユに赴いて、司令官ベルナール=ルネ・ド・ローネーに、隣接するフォーブール・サン=タントワーヌ地区(英語版)に向けて前日から設置されていた大砲の撤去と武器弾薬の引き渡しを求めた。司令官は代表を招き入れ食事を供してもてなし、大砲の撤去には同意したが武器弾薬の引き渡しは拒否した。続いて送り込まれた代表の説得に対してもド・ローネーは拒否を続け、交渉は難航した。

交渉が長びく中、要塞の外では群衆の数がふくらみ、興奮状態が高まっていった。午前11時半には、廃兵院からやってきた人々が合流し、その数はさらに増加した。代表たちがなかなか出て来ないために人々の間には不安と苛立ちが高まり、午後1時ごろになって、2人の男が塀を乗り越えて侵入し、司令部の中庭に通じる第一の跳ね橋を落とした。これを皮切りに群衆が中庭になだれ込み、恐怖にとらわれた守備兵が発砲して戦闘が始まった。混乱のさなかの激しい銃撃戦により死傷者が出たが、被害は戦闘に不慣れな民間人が多く、遮蔽物の少ない中庭ー要塞前付近に展開していた襲撃側に集中した。

午後3時半過ぎ、国王軍から離反したフランス衛兵の一部が襲撃側に加わったことで形勢が逆転し、彼らが廃兵院から奪ってきた大砲を戦闘に投入する動きを見せると、敗北を悟ったド・ローネーは、貯蔵されている爆薬によりバスティーユを爆破するよう命じたが、これは守備隊が命令を拒否した。最終的にド・ローネーは降伏して要塞内部に通じる主門の跳ね橋が下ろされ、群衆がなだれ込んでバスティーユ全体を制圧し、牢に入れられていた7人の囚人が解放された。かくして、バスティーユは陥落した。

襲撃の時点のバスティーユはほとんど空の状態で、民衆が考えていたような政治犯はおらず、治安を乱した廉で収容された7人の老人がいただけだった。内訳は4人の文書偽造犯と2人の狂人、それに1人の素行の悪い伯爵である。マルキ・ド・サドも10日前まで収容されていたが、襲撃の時には他の場所に移されていた[5]。

虐殺

市庁舎前で狙撃されるフレッセル(ジャン=バティスト・ラルマン画)

ド・ローネーは捕らえられ、パリ市庁舎に連行された。道すがら、興奮した群衆は彼を殺害しようとしたが、市民代表が「彼にも裁判を受ける権利があるのだ」と制止し、その場はいったん収まった。しかし、市庁舎に着いたところで群衆はついに制止を振り切ってド・ローネーを殺害してその首を刎ねた[15]。3人の士官と3人の守備兵も、司令官と同じ運命を辿った。さらに前日に武器の所在についてあいまいな発言を行った市長のジャック・ド・フレッセルも、その対応を「市民を惑わせる裏切り行為」として咎められ、市庁舎から出て来たところを射殺され、首を刎ねられた。彼らの首を槍の先に刺して高く掲げた群衆は、市庁舎前の広場を練り歩いた。その後、7月22日にいたって、ネッケルの後任となるという推測が一時広まっており、自身が行っていた穀物投機のために食糧危機を策謀したとしてパリ市民の怒りを買っていた元陸海軍総監ジョセフ・フーロン・ド・ドゥエ(英語版)がなぶり殺しにされた。またその女婿でパリ知事のベルチエ・ド・ソーヴィニー(英語版)もパリの食糧危機に責任ありという理由で義父と同じ日に群衆に虐殺され、ともに槍首にして引き回された[16]。

1795年 – 「ラ・マルセイエーズ」がフランスの国歌となる。La Marseillaise.ogg 聴く[ヘルプ/ファイル]

1804年 – ナポレオン・ボナパルトが、廃兵院にて初のレジオンドヌール勲章授与を行う。

1867年(慶応3年6月13日) – 浦上四番崩れ。長崎奉行がキリシタン68人を捕える。

1881年 – ビリー・ザ・キッドが、友人でもあった保安官パット・ギャレットにより射殺される。

1903年 – 広島県仁方村で集中豪雨により土石流が発生、死者22人[3]。

1933年 – 強制的同一化: ドイツでナチ党以外の政治政党が禁止される。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: アメリカ海軍空母艦載機による北海道空襲。

死者行方不明者1000人強。

1962年 – 熊本県球磨村の球磨川で遊覧船が転覆。9人が死亡[6]。

1964年 – 東京都品川区勝島で、株式会社宝組のニトロセルロース蓄積倉庫から出火。爆発を伴う火災により倉庫の壁が崩れ、下敷きになった消防職員18人、消防団員1人が死亡。負傷158人の惨事が起きる。(品川勝島倉庫爆発火災)

チャットgpt先生の7月14日のエッセイ

7月14日 ― 血と象徴の記念日

年に一度、カレンダーが「7月14日」を指すとき、歴史の奥から血と怒号の記憶が静かに甦る。

西暦756年、唐の皇帝玄宗は、愛妃・楊貴妃を伴って都を後にする。安史の乱――それは単なる反乱ではなく、帝国の根幹を揺るがす地殻変動だった。7年2ヶ月に及ぶ大乱がもたらしたのは、唐王朝の衰退、そして数千万という夥しい死者たちの黙した記憶。数字で語れる死ではない。死者の数は記録の彼方で揺らぎ、3600万か、1300万か、それさえも定かではない。ただ確かなのは、その日に「国が壊れた」ということだ。

そして1789年、舞台はパリへ移る。民衆はバスティーユ牢獄を襲撃し、「自由の夜明け」を告げたとされる。しかしその夜明けの光は、けして穏やかではなかった。牢獄にいたのはたった7人――政治犯などではなく、文書偽造犯や狂人たち。象徴を求めた群衆の狂熱は、司令官ド・ローネーの首を槍先に掲げ、市長フレッセルを射殺し、さらにその後、貴族や官吏を容赦なく虐殺していく。怒りは正義を超え、暴力は制度をも呑み込んだ。

その象徴として後に歌われたのが、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」である。血を呼び、敵を切り刻むことを高らかに謳うその旋律は、確かに時代の精神を映したものかもしれない。しかし現代の耳には、もはや「栄光」よりも「戦慄」として響く。ラ・マルセイエーズの歌詞に刻まれた狂気は、革命という名の渦の深さを我々に教えてくれる。

この日、ナポレオンがレジオンドヌール勲章の初授与を行ったのもまた、血で築いた秩序の始まりだった。あるいは1945年、北海道空襲で1000人以上が命を落としたこと。その影でも、7月14日は何かを引き裂く「運命の日」としてそこに在り続けている。

7月14日は「革命記念日」として祝われることが多い。だが、その実態は、“解放”と“崩壊”が同時に訪れた、表裏一体の記念日だ。平和の祈りよりも、暴力の肯定が先に立つこの日を、私は祝うことができない。

むしろこう言いたい。
これは記念日ではなく、「警告の日」ではないか。
力が怒りに変わるとき、正義もまた狂気になるという、人類の古くて新しい教訓を刻むための。