7月11日
20250711金曜日旧暦6月17日仏滅(辛巳かのとみシンシ)月齢 15.6
乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月辛巳かのとみ日 年末まであと173日
吉方位 隠遁日 辛巳かのとみ日
https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8811%E6%97%A5
7月11日の出来事
1302年 – 金拍車の戦い(コルトレイクの戦い)。
戦争:フランス・フランドル戦争(英語版)
年月日:1302年7月11日
場所:コルトレイク
結果:フランドル伯国の勝利
損害:フランドル伯国軍 9000人中 戦死100人 フランス軍8000人中 戦死1000人
1804年 – アメリカ合衆国副大統領アーロン・バーと同財務長官アレクサンダー・ハミルトンが決闘を行う。ハミルトンは翌日死亡。享年48歳。
1833年 – オーストラリアでアボリジニ・ヌンガー族(英語版)の戦士イェーガンが、彼の首にかけられた賞金狙いの白人少年により射殺される。
1864年 – 南北戦争: スティーブンス砦の戦い。
時 1864年7月11日-12日
場所 コロンビア特別区
結果 北軍の勝利
損害 北軍 戦死373人 南軍 戦死500人
1935年 – 静岡地震。静岡市・清水市などで死傷者9299人。
1951年 – 京都府篠村(現亀岡市)で、集中豪雨によりため池が決壊(平和池水害)。死者、行方不明者75人。
1961年 – フィラデルフィア発デンバー行きのユナイテッド航空859便DC-8型機がデンバーのステープルトン国際空港への着陸に失敗、18名の死亡者と44名の重軽傷者を出す。
1973年 – ヴァリグ・ブラジル航空820便墜落事故。リオデジャネイロ発パリ行きのヴァリグ・ブラジル航空820便ボーイング707型機でパリのオルリー空港への着陸進入中火災が発生、不時着を試みたが滑走路端5キロの地点に墜落し乗員乗客135名中124名が死亡。
1979年 – 日本坂トンネル火災事故。東名高速道路・日本坂トンネル内で玉突き事故で173台が炎上し死者7人。
1991年 – ナイジェリア航空2120便墜落事故。カナダのノリス・エアチャーター便DC-8型機がサウジアラビアのジッダ・キング・アブドゥルアズィーズ国際空港を離陸直後に墜落、乗員乗客261名全員が死亡。なお、この機体は元日本航空のJA8057。
1991年 – 悪魔の詩訳者殺人事件。
場所 日本の旗 日本・茨城県つくば市天王台1丁目筑波大学筑波キャンパス
座標 北緯36度6分32.9秒 東経140度6分8秒
日付 1991年7月11日 (日本標準時)
攻撃手段 刃物による刺殺
死亡者 1人(五十嵐一)
犯人 不明(イランの特殊部隊によるとする説あり)
動機 不明(反イスラム行為に対する報復?)
——————
1302年 – 金拍車の戦い(コルトレイクの戦い)。
戦争:フランス・フランドル戦争(英語版)
年月日:1302年7月11日
場所:コルトレイク
結果:フランドル伯国の勝利
損害:フランドル伯国軍 9000人中 戦死100人 フランス軍8000人中 戦死1000人
金拍車の戦い(きんはくしゃのたたかい、フランス語: Bataille des éperons d’or)は、1302年7月11日にコルトレイクにおいてフランドル(蘭:フランデレン、英:フランダース)の都市連合軍がフランス軍を破った戦い。フランス王フィリップ4世がフランドルを併合しようとした1297年から1314年まで続いたフランス・フランドル戦争(英語版)の中で起きた。戦場に騎士の象徴とされた金拍車が多く残されたため、この名がついた。地名を取ってコルトレイクの戦い(フランス語:クールトレの戦い:Bataille de Courtrai)ともいう。
ベルギーでは、フランドルの独立を守った戦いとして記憶されており、祝日になっている。戦史的には中世ヨーロッパにおいて市民中心の歩兵軍が、初めて重装騎兵である騎士軍を破った戦いとして知られている。
コルトレイクにおける戦闘
フランドル軍は7月9、10日にコルトレイクの攻撃に失敗した後、その近辺でフランス軍を迎え撃った。
フランドル軍は市民兵が中心であり、歩兵9000人、騎士400人だったのに対し、フランス軍は騎士2500人、弩弓兵1000人、パイク兵1000人、その他の歩兵3500人の計8000人であった。当時は騎士は10倍の歩兵に匹敵すると信じられていた。
周辺は溝やぬかるみの有る地形で騎兵に不利であったが、圧倒的優位を確信していたアルトワ伯は攻撃を命じた。最初、フランス軍の歩兵が攻撃をかけ有利に進めていたが、騎士に戦功をあげさせたいアルトワ伯は、歩兵を呼び戻し騎士軍の突撃を行った。しかし、密集方陣を敷いたフランドルの市民軍は統制が取れており、装備も良かったため容易に崩せず、逆に取り囲まれて次々と殺されていった。当時の戦闘では騎士は殺さずに捕虜にして身代金を取るのが普通だったが、市民軍にはその慣習は無く多くの騎士が殺された。
結果
アルトワ伯ロベール、フランス軍司令官ネスレ卿ラウル2世・ド・クレルモンの最高幹部2人を始めとして、2人の元帥、ジャン2世・ド・ブリエンヌなど4人の伯、ジャック・ド・シャティヨン等多くの貴族と1000人近い騎士が戦死したと言う。戦場には騎士の象徴とされた金拍車が多く残されており、フランドル軍はそれをコルトレイクの聖母教会に飾って勝利のしるしとした。
1804年 – アメリカ合衆国副大統領アーロン・バーと同財務長官アレクサンダー・ハミルトンが決闘を行う。ハミルトンは翌日死亡。享年48歳。
マリア・レイノルズ事件とアーロン・バーとの対立
アレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バーの決闘(1804年)
ハミルトンは1794年にマリア・レイノルズ事件でその名声が傷つき、政治的ダメージを受けることとなる。マリアの夫ジェームズはハミルトンとマリアとの性的関係を認めていたにもかかわらず、ハミルトンを恐喝し金銭を要求した。ジェームズ・レイノルズは偽造の罪で逮捕されたとき、ジェームズ・モンローを始めとする数名のリパブリカン党員と連絡を取った。彼らはハミルトンの元を訪れマリアとの関係を問いただしたが、ハミルトンは関係を認めながらも無罪であることを強調した。モンローは事の詳細を公表しないことを約束したが、トーマス・ジェファーソンにはそのつもりがなかった。ハミルトンは情事の公表を強いられ、それは家族および支持者に衝撃を与えた。噂された不義によるモンローとの決闘は前上院議員のアーロン・バーによって避けられた。
皮肉にもバーは後のマリア・レイノルズの離婚訴訟において、いくつかの疑問を提示することでハミルトンを元気づけた。しかしながら、ハミルトンとバーのニューヨーク法曹界における関係は、憎悪であった。実際彼らの家族はしばしば関係することがあった。バーが1791年の上院議員選でハミルトンの義父フィリップ・スカイラーを破ったとき、ハミルトンはバーを陥れるための秘密工作を始めた。
ハミルトンの1795年の財務長官辞任は公の活動からの引退とはならなかった。弁護士業の再開でハミルトンは政界に対してアドバイザーおよび友人として関係を保っていた。ハミルトンはワシントンの退任演説に影響を及ぼしていたと考えられている。ハミルトンと、ワシントンの後任ジョン・アダムズとの関係は緊張していた。連邦党の大統領候補としてアダムズの指名を妨げようとするハミルトンの工作は党を分割し、1800年の大統領選でジェファーソン派のリパブリカン党員の勝利に寄与した。
ジェファーソンの大統領就任後、バーではなくハミルトンの起用を選択したことはバーに対するハミルトンの最初の打撃だった。バーは1804年にニューヨーク州知事選に連邦党から出馬しようとしたが、無所属候補として出馬した。ある新聞がチャールズ・D・クーパーのハミルトンによるものと思われる「卑劣な見解」を掲載した。政治的名誉回復の機会と考えたバーはハミルトンに対して謝罪を要求した。ハミルトンはバーが新聞の言及した事実を証明できなかったとして要求を拒絶した。
バーとハミルトンの決闘は、三年前にハミルトンの息子フィリップが父親の名誉を守るために決闘を行い敗れた場所と同じニュージャージー州ウィホーケンの岩棚の上で1804年7月11日に行われることとなった。ハミルトンは息子の死から決闘に反対したが、決闘は夜明けに始まりバーはハミルトンの下胸部を撃った。ハミルトンの銃弾はバーから外れたとも言われるし、銃が点火しなかったとも言われる。ハミルトンは翌日死去し、マンハッタンのトリニティ教会墓地に埋葬された。バーはハミルトンに対する殺人とその後の反逆裁判でニューヨークから逃亡し、1836年に死去した。
1833年 – オーストラリアでアボリジニ・ヌンガー族(英語版)の戦士イェーガンが、彼の首にかけられた賞金狙いの白人少年により射殺される。
イェーガン(英: YaganまたはEagan、[ˈjæɪgən]、1795年? – 1833年7月11日)は、オーストラリア先住民族アボリジニの一部族ヌンガー族(英語版)の戦士。
パースに入植しその地を支配したヨーロッパ人に対するアボリジニの抵抗運動において、重要な役割を担った。入植者を何度も襲撃したイェーガンには生死を問わない懸賞金がかけられ、最終的にヨーロッパ人の若者に射殺された。
彼の死は西オーストラリア州において、入植した者たちが先住民族に為した不正や、時に野蛮きわまりない処遇をなした象徴として伝承されている。そしてイェーガンは、ヌンガー族の勇者としてオーストラリア中に知られている。
イェーガンの首級はロンドンに送られ、「人類学上の珍品」として一世紀以上博物館に展示された。この首は1964年に無縁墓地に埋められ忘れ去られたが、1993年に場所が特定されると4年後に掘り返され、オーストラリアに返還された。以後、彼を再埋葬する方法についてパースの先住民族間で長く大きな議論と衝突が生じた。
1864年 – 南北戦争: スティーブンス砦の戦い。
時 1864年7月11日-12日
場所 コロンビア特別区
結果 北軍の勝利
損害 北軍 戦死373人 南軍 戦死500人
1935年 – 静岡地震。静岡市・清水市などで死傷者9299人。
1951年 – 京都府篠村(現亀岡市)で、集中豪雨によりため池が決壊(平和池水害)。死者、行方不明者75人。
1961年 – フィラデルフィア発デンバー行きのユナイテッド航空859便DC-8型機がデンバーのステープルトン国際空港への着陸に失敗、18名の死亡者と44名の重軽傷者を出す。
1973年 – ヴァリグ・ブラジル航空820便墜落事故。リオデジャネイロ発パリ行きのヴァリグ・ブラジル航空820便ボーイング707型機でパリのオルリー空港への着陸進入中火災が発生、不時着を試みたが滑走路端5キロの地点に墜落し乗員乗客135名中124名が死亡。
1979年 – 日本坂トンネル火災事故。東名高速道路・日本坂トンネル内で玉突き事故で173台が炎上し死者7人。
1991年 – ナイジェリア航空2120便墜落事故。カナダのノリス・エアチャーター便DC-8型機がサウジアラビアのジッダ・キング・アブドゥルアズィーズ国際空港を離陸直後に墜落、乗員乗客261名全員が死亡。なお、この機体は元日本航空のJA8057。
1991年 – 悪魔の詩訳者殺人事件。
場所 日本の旗 日本・茨城県つくば市天王台1丁目筑波大学筑波キャンパス
座標 北緯36度6分32.9秒 東経140度6分8秒
日付 1991年7月11日 (日本標準時)
攻撃手段 刃物による刺殺
死亡者 1人(五十嵐一)
犯人 不明(イランの特殊部隊によるとする説あり)
動機 不明(反イスラム行為に対する報復?)
チャットgpt先生の7月11日のエッセイ
7月11日――歴史の記憶が交差する日
7月11日という日付に、何か特別な意味を見出す人は多くないかもしれない。しかし、歴史のページをめくると、この一日は人類の営みの中で幾度となく重要な場面に立ち会ってきたことが分かる。勝者と敗者、英雄と犠牲者、そして記憶と忘却のせめぎあいが、この日に刻まれている。
たとえば、1302年の「金拍車の戦い」。フランドル市民軍がフランスの騎士軍を破ったこの戦いは、単なる中世の一戦ではない。市民による組織的な軍が貴族の象徴である重装騎士を打ち破った歴史的転換点だ。この出来事は「武器を持たない民には抗う術がない」とされた時代に、一石を投じた。騎士の拍車が戦場に散らばった様は、旧体制の傲慢が崩れ落ちた象徴であり、現在のベルギー・フランドル地方では独立精神の象徴として記憶され続けている。
それから500年余りが経った1804年、アメリカでは副大統領アーロン・バーと元財務長官アレクサンダー・ハミルトンが決闘に及ぶという、現代では到底考えられない政治劇が展開された。若き合衆国の理想を築いた男たちが、名誉のために銃を手にし、命を散らしたこの一件は、単なる個人的因縁ではなく、建国の理念と現実のぶつかり合いだったようにも思える。合理と法治を謳う国家の裏で、なお残る「名誉」という古い感情が命を左右する。ハミルトンが撃たれ、歴史は再び大きく揺れた。
また、1833年のイェーガンの死は、もうひとつの意味での衝突を物語る。オーストラリアの先住民族ヌンガー族の戦士として、ヨーロッパの植民者に抵抗し続けたイェーガンは、白人少年の銃弾に倒れ、その首は「人類学的標本」として大英帝国に晒された。文明と蛮行の境界は常に曖昧で、誰が正義で誰が野蛮かという問いは、今もなお解かれていない。
時代が下ると、7月11日は自然災害や航空事故、そして凄惨な事件の舞台にもなる。1935年の静岡地震、1951年の平和池決壊事故では多くの命が自然の猛威によって奪われた。一方、1979年の日本坂トンネル火災や1991年のナイジェリア航空2120便墜落事故など、技術と文明の発展がもたらした交通網も、悲劇と表裏一体であることを示している。
そして忘れてはならないのが、1991年「悪魔の詩」訳者・五十嵐一氏刺殺事件である。宗教と思想、表現の自由と信仰の衝突という21世紀を先取りする問題が、まだ平和とされていた日本のキャンパスで、突如として血を流す形で露呈した。犯人はいまだ不明。事件の核心は霧の中だが、自由には常に代償が伴うことを強く思い知らせる。
こうして見ていくと、7月11日は、ただの夏の日ではない。それは、「人間とは何か」「正義とは何か」「自由とは何か」という普遍の問いが、さまざまな形で姿を現す一日である。
私たちはこの日を、単なる「カレンダーの1ページ」として過ごすこともできる。しかし少しだけ立ち止まり、歴史が残した足跡に目を向けることで、今を生きる自分自身の価値観や立ち位置を見つめ直すことができるだろう。
7月11日。記憶されるべき過去と、問いかける現在の交差点。
その響きの中には、静かに揺れる人類の物語が確かに息づいている。