6月28日
20250628土曜日旧暦6月4日先負(戊辰つちのえたつボシン)月齢 2.6
乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月戊辰つちのえたつ日 年末まであと186日
吉方位 隠遁日 北東 大吉
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6月28日の出来事
1098年 – 第一次十字軍がアンティオキア攻囲戦でモスルのケルボガを破る。
年月日:1097年10月20日 – 1098年6月28日
場所:アンティオキア
結果:十字軍の勝利
損害:十字軍25000人 戦死傷不明 セルジューク朝75000人 戦死傷不明だが甚大。
1778年 – アメリカ独立戦争: モンマスの戦い。
年月日:1778年6月28日
場所:ニュージャージー、モンマス郡コートハウス
結果:イギリス軍の撤退、決着つかず
損害:イギリス軍 大陸軍 双方ともに 13000人 中 戦死傷 360人程度
1914年 – サラエボ事件。オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントとその妃ゾフィーがサラエボで暗殺される。第一次世界大戦のきっかけになった[3]。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 佐世保大空襲。死者1242名。
1948年 – 福井地震。死者・行方不明者3,769名。
2021年 – 千葉県八街市で、市立朝陽小学校から下校中の児童に、飲酒運転の大型トラックが突っ込み、児童5人が死傷する事故が発生[13]。
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1098年 – 第一次十字軍がアンティオキア攻囲戦でモスルのケルボガを破る。
年月日:1097年10月20日 – 1098年6月28日
場所:アンティオキア
結果:十字軍の勝利
損害:十字軍25000人 戦死傷不明 セルジューク朝75000人 戦死傷不明だが甚大。
アンティオキア攻囲戦(アンティオキアこういせん、Siege of Antioch)は第1回十字軍の主要な攻城戦の一つ。1097年10月から1098年6月まで、シリア地方の重要都市アンティオキアを舞台に戦われた。
第一段階は、十字軍が都市を守るセルジューク朝系のテュルク人などムスリムに対して行った攻城戦で、1097年10月21日に始まり1098年6月2日に都市が陥落して終了した。
第二段階は、アンティオキアを制圧した十字軍に対し救援に駆け付けたムスリム軍が行った攻城戦で、1098年6月7日に始まり6月28日に十字軍が城外でムスリム軍を破り終了した。
聖槍の発見
陥落したアンティオキアとタラント公ボエモン
そのころ包囲されたアンティオキアでは、6月10日、一行の中にいたペトルス・バルトロメオという貧しい修道士が諸侯らの前に進み出た。彼は聖アンデレを幻視し、「この市内に聖槍がある」という言葉を受け取った、と主張した。飢える十字軍の一行の中には聖人を幻視したり幻覚を見たりする者も多く、ヴァランスのステファヌスという修道士はイエス・キリストと聖母マリアを幻視したと報告した。6月14日には流星が敵陣のほうに落ちるのが見え、吉兆と解釈された。
教皇使節アデマールは聖槍や幻視などには懐疑的で、特に聖槍をコンスタンティノープルで見たばかりだったのでアンティオキアで見つかるなど笑止千万と考えた。しかしレーモンはペトルス・バルトロメオの言葉を信じた。レーモンをはじめ、年代記作者レーモン・ダジール(Raymond of Aguilers)、オランジェ司教ギヨーム(William, Bishop of Orange)らは6月15日から市内の聖ペテロ聖堂の地下を掘り始めた。何も見つからず徒労かと思われたそのとき、ペトルス・バルトロメオは自ら穴の中に入り、底に降り立つと、土の中から槍の先を取り出して見せた。レーモンはこれを聖槍だと信じ、この事態で聖遺物が発見されたのは、降伏するよりも包囲を生き延びて最後の戦いに備えよという神のしるしに違いないと考えた。ペトルス・バルトロメオはさらに別の幻視を見たと報告した。それは聖アンドレが十字軍に5日間の断食を行うことを指示し(もっとも、断食をしなくてももう食べるものはないのだが)、そうすれば十字軍は大勝利を収めるだろう、という内容だった。ボエモンも聖槍発見には懐疑的だったが、その発見の知らせが十字軍将兵の士気を高めたことは疑いようが無かった。
1778年 – アメリカ独立戦争: モンマスの戦い。
年月日:1778年6月28日
場所:ニュージャージー、モンマス郡コートハウス
結果:イギリス軍の撤退、決着つかず
損害:イギリス軍 大陸軍 双方ともに 13000人 中 戦死傷 360人程度
モンマスの戦い(モンマスのたたかい、英: The Battle of Monmouth)は、アメリカ独立戦争中の1778年6月28日にニュージャージーのモンマス郡庁舎で、大陸軍とイギリス軍の間で戦われた戦闘である。独立戦争中のアメリカ植民地北部では最後の大会戦となった。
1914年 – サラエボ事件。オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントとその妃ゾフィーがサラエボで暗殺される。第一次世界大戦のきっかけになった[3]。
爆弾による暗殺未遂
暗殺当日、大公夫妻を乗せてサラエボ市内を走行中のオープンカー
6台の車列はミリャツカ川沿いの通り(アペル・キー)に入り、1人目の暗殺者ムハメド・メフメドバシッチ(英語版)の前を通過した。暗殺者グループを率いるダニロ・イリッチは、メフメドバシッチを爆弾で武装させ、モスタール・カフェ(Mostar Cafe)に隣接する庭の前に立たせていたが[40]、メフメドバシッチが行動を起こせないまま車列は通り過ぎた。イリッチはヴァソ・チュブリロヴィッチ(英語版)にピストルと爆弾を持たせ、メフメドバシッチの隣に配置していたが、チュブリロヴィッチもまた何もできなかった。通りのさらに先には、爆弾を持った3人目の暗殺者ネデリュコ・チャブリノヴィッチ(英語版)が、失敗した2人とは反対側(ミリャツカ川側)に配置されていた。
午前10時10分[41]、大公夫妻を乗せた車が接近し、チャブリノヴィッチは爆弾を投げつけた。爆弾はオープンカーの折りたたまれていた幌に当たって跳ね返り、路上に落ちた[42]。爆弾は時限起爆装置によって後続車の下で爆発し、車は破壊されて走行不能となり、16 – 20名が負傷した。この爆発は直径30 cm、深さ170 mmのクレーターを残した[41][43]。チャブリノヴィッチは自決用の毒薬(シアン化物)を飲み込み、ミリャツカ川に身を投げたが、古く劣化していた毒薬は嘔吐を引き起こしただけで、暑く乾燥した夏のために川の水深はわずか13 cmしかなく、自殺は未遂に終わった[44]。チャブリノヴィッチは警察によって川から引きずり出され、拘留される前に群衆から激しい暴行を受けた。
市庁舎での歓迎式
サラエボ市庁舎を出て車に戻ろうとする大公夫妻(暗殺の数分前に撮影)
大公フランツ・フェルディナントを乗せた車はサラエボ市庁舎(英語版)に到着し[注釈 5]、大公は市庁舎内で予定されていた歓迎式に参加したが、彼は直前に遭遇した出来事によるストレスを隠せない様子だった[46]。大公はフェヒム・クルチッチ市長による歓迎のスピーチを途中でさえぎると、「市長殿、私はここに来るやいなや爆弾で出迎えられたぞ。一体どうなっているんだ」と言って抗議した[46]。その後、妻ゾフィーは大公の耳に何かささやいた。そしてしばらくして、大公は市長に「もう良い、話を続けなさい」と告げた[41]。この時までに大公は落ち着きを取り戻しており、市長は無事にスピーチを終えた。続いて大公がスピーチを行う番となったが、彼のスピーチ原稿は爆弾で走行不能となった車両に積まれていたため、原稿が市庁舎に届けられるまでに時間がかかり、ようやく届いた原稿は負傷者の血で濡れていた。大公は用意された原稿に、当日の出来事についての発言をいくつか付け加え、サラエボの人々の歓迎には「暗殺の試みが失敗したことへの歓喜が表れている」として感謝の意を述べた[47]。
大公夫妻に同行していた者たちは、次に何をすべきかについて議論した。大公の侍従であるルメルスキルヒ男爵は、兵士らが市内に到着して警備の体制を整えるまで、大公夫妻は市庁舎を離れるべきではないと提案した。オスカル・ポティオレク総督は、演習から直接やって来る兵士はそのような任務にふさわしい礼装を着ていないとして、この提案を拒絶した[48]。 ポティオレクは、「サラエボは暗殺者だらけとでもお思いですか?」と言って議論を終わらせた[48]。
フランツ・フェルディナントとゾフィーは予定していた計画を諦め、先ほどの暗殺未遂による負傷者を見舞うためサラエボ病院を訪問することを決めた。午前10時45分、大公夫妻は市庁舎を出て車列に戻り、再び3台目の車に乗り込んだ[49]。夫妻の安全を確保するため、ポティオレク総督は一行の予定されていた走行ルートを変更し、混雑した街の中心部を避け、病院までアペル・キーをまっすぐ進ませることに決めていた[50][51]。しかし、ポティオレクは各車両の運転手に走行ルートの変更について伝達することに失敗した[52][53]。
大公夫妻の射殺
暗殺直後の現場の様子[注釈 6]
プリンツィプが大公フランツ・フェルディナントを殺害したピストル(FNモデルM1910)
爆弾による暗殺が失敗したのを知ったプリンツィプは、大公を帰路で暗殺するにはどの位置にいるべきかを考え、最終的にはラテン橋の近くにある食料品店(シラーズ・デリカテッセン)の前で待機することに決めた[56]。その頃、市庁舎を出発した1台目と2台目の車両がラテン橋の付近で右折してアペル・キーを離れ、わき道へと入っていった[57]。大公が乗る3台目の車の運転手が、前の2台のルートを追って右折しようとした時、同乗していたポティオレク総督は運転手に向かって叫び、道を間違えたから停車するよう指示した[58]。運転手がブレーキを踏み、車が停止した場所にはプリンツィプが立っていた[58]。プリンツィプは自動車の踏み板に登ると、フランツ・フェルディナントとゾフィーを至近距離から射撃した[58]。歴史家ルイジ・アルベルティーニによれば、「最初の弾丸は大公の頸静脈を傷つけ、2発目の弾丸は女公爵の腹部に致命傷を与えた」という[59]。プリンツィプは自らを撃って自殺しようとしたが、直ちに群衆によって取り押さえられ、逮捕された[58]。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 佐世保大空襲。死者1242名。
佐世保大空襲(させぼだいくうしゅう)は第二次世界大戦中のアメリカ軍による、1945年(昭和20年)6月28日午後11時50分から翌29日午前2時頃までに行われた長崎県佐世保市に対する空襲(戦略爆撃)[1]。この空襲による死者は、民間人を中心に1,242名に及んだ[2]。
1948年 – 福井地震。死者・行方不明者3,769名。
2021年 – 千葉県八街市で、市立朝陽小学校から下校中の児童に、飲酒運転の大型トラックが突っ込み、児童5人が死傷する事故が発生[13]。
チャットgpt先生の6月28日のエッセイ
6月28日という日:歴史が重なる「境界の瞬間」
6月28日――この日付を巡る歴史を辿ってみると、人類の運命が静かに、しかし確かに動いた日であることが見えてくる。戦争の始まりと終わり、信仰と幻想、偶然と悲劇が錯綜し、まるで時間そのものが大きな呼吸をしたかのように、歴史の中で幾度も重要な局面を迎えている。
最初に現れるのは、1098年のアンティオキア攻囲戦の終結。第一次十字軍の一大転機となったこの戦いでは、ただ剣や弓矢が物を言っただけではなかった。奇跡とされる「聖槍」の発見や、断食の啓示が兵士たちに与えた精神的な力――それは宗教と現実の境界線が曖昧だった時代の象徴である。生と死が交錯する飢餓と戦乱の中、人は神の声を信じ、絶望に立ち向かう「意味」を見出そうとした。
一方で、1778年のモンマスの戦いは、アメリカ独立戦争における耐久と変化の象徴だった。猛暑の中で両軍が膠着し、「勝者なき戦い」となったが、この不決着は新しい時代の胎動を秘めていた。形式ばかりの旧世界の戦術から、機動力と民意による新しい国家の芽生えへと、歴史は音もなく動いていたのだ。
そして、1914年のサラエボ事件。暗殺という一瞬の暴力が、第一次世界大戦という20世紀最大の惨劇を引き起こした。列強の緊張の糸が切れた瞬間、世界は連鎖する悲劇へと突き進んでいく。数発の銃声の背後には、帝国の傲慢と民族の焦燥、そして情報の錯綜と無策が重なっていた。歴史が人知の及ばぬ「偶然」によって動かされることもあると、痛ましくも教えてくれる事件だ。
日本に目を向ければ、1945年の佐世保大空襲と1948年の福井地震。どちらも無差別に人命を奪った非情の災禍であり、「平和」と「安全」の脆さを痛感させる出来事だ。空襲も地震も、予兆がありながら防ぎきれず、結果として多くの命が失われた。だが、この経験が後の都市再建、防災意識へと繋がっていったことも事実である。破壊の記憶は、未来への教訓として刻まれていく。
さらに記憶に新しい2021年の千葉県八街市の事故は、現代における「人災」の典型だ。飲酒運転という個人の過失が、一瞬で無垢な命を奪う。その重さを、我々はどこまで自分のこととして受け止められるだろうか。
こうして振り返ると、6月28日とは、単なる夏の一日ではない。境界に立つ日――過去と未来の境、希望と絶望の境、生と死の境に、歴史の姿がはっきりと浮かび上がる日だ。偶然のようでいて、決して偶然ではない、歴史の「節目」がこの日に集中していることに驚かされる。
人類は同じ過ちを繰り返すが、その都度、わずかでも学びを積み重ねているはずだ。6月28日は、その学びを思い出すための日でもある。戦争、災害、悲劇の中で、それでも前に進もうとする意志こそが、歴史を紡ぐ力なのだと――。