kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日6月8日 1794最高存在の祭典、ほか写真wikipediaシャンドマルス公園の祭典

6月8日

20250608日曜日旧暦5月13日大安(戊申つちのえさるボシン)月齢 11.9

乙巳きのとみ年壬午みずのえうま月戊申つちのえさる日  年末まではあと206日

吉方位 陽遁日 戊申つちのえさる日  東 大吉。

https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%888%E6%97%A5

6月8日の出来事

452年 – フン族の王アッティラがイタリアに侵入[要出典]。

793年 – ヴァイキングがリンディスファーン島の修道院を襲撃。スカンジナビア人によるイングランド侵略の始まり。

1794年 – テュイルリー宮殿で最高存在の祭典が開催。

1945年 – 第二次世界大戦: 御前会議で採択された「今度採るべき戦争指導の基本大綱」で本土決戦方針を決定。

1947年 – 大阪府岸和田市で演芸場の屋根が落下する事故。死者70人[2]。

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452年 – フン族の王アッティラがイタリアに侵入[要出典]。

アッティラ[注釈 1](Attila、406年? – 453年[2])は、フン族とその諸侯の王。中世ドイツの『ニーベルンゲンの歌』などの叙事詩にはエツェル(Etzel)の名で登場する。現在のロシア・東欧・ドイツを結ぶ大帝国を築き上げ、西方世界の「大王」を自称した。ローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは、「神の災い」や「神の鞭」、「大進撃(The Great Ride)」と言われ恐れられた。

出自についてはフン族自体と同様、詳しくは分かっていないが、名前や風貌の伝承などからテュルク・モンゴル系民族に属すると思われる。

歴史家プリスクスによると、ある羊飼いが土中から剣を掘り出しアッティラへ献上した。アッティラはこれを喜び、これを軍神マルスの剣であると信じ、自分は全世界の支配者になる運命であると自信を持ったという[13][14]。

447年、アッティラは南下し、モエシアを通って東ローマ帝国領へ再び侵攻した。ゴート族の軍司令官、(マギステル・ミリトゥム)アレネギスクロスに率いられたローマ軍は、ウトゥスでアッティラと戦うが敗北。フン族は抵抗を受けずにトラキアまでのバルカン半島を略奪した。コンスタンティノープルは総督フラウィオス・コンスタンティヌスによって城壁が再建され(地震により損傷していた)、また幾つかの箇所で新たな防御線が築かれており助かった。この侵略の生き残りの記録は以下のように述べている。

トラキアにいる野蛮なフン族はとても強大になり、数百の都市が奪われ、コンスタンティノープルも危険になり、多くの人々が逃げ出した……そしてたくさんの人々が殺され、血が流されて、死者の数を数えることもできない。ああ、彼らは教会と修道院を奪い、大勢の修道士や修道女たちが虐殺された。(カリニコス著『聖ヒュパティオスの生涯』)

793年 – ヴァイキングがリンディスファーン島の修道院を襲撃。スカンジナビア人によるイングランド侵略の始まり。

1794年 – テュイルリー宮殿で最高存在の祭典が開催。

最高存在の祭典(さいこうそんざいのさいてん、La fête de l’Être suprême)とは、フランス革命期、マクシミリアン・ロベスピエールの独裁政権下のフランス共和国で、1794年5月7日の法令に基づいて6月8日にテュイルリー宮殿およびシャン・ド・マルス公園で行われた宗教祭典。

背景

フランス革命が絶頂に達しロベスピエールの独裁が確立した時期で、恐怖政治がフランス全土を覆っていた。彼は人間の理性を絶対視し、キリスト教を迫害しカトリック教会制度を破壊した。同時に恐怖政治は美徳に基づくべきという理想を持っており、キリスト教に代わる道徳を求めていた。また、国内は不安定さを増し革命政府は祖国愛に訴えて革命の危機を乗り越える必要があった。

これらの事情からキリスト教に代わる理性崇拝のための祭典を開く必要に迫られていた。1793年11月10日、パリのノートルダム大聖堂の内陣中央に人工の山が設けられ、その頂上にギリシャ風の神殿が建てられ、その四隅にはヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソー、シャルル・ド・モンテスキューといった啓蒙思想家たちの胸像が設置されて神殿のなかから「自由と理性の女神」に扮したオペラ座の女優が現れるといった趣向で「理性の祭典」が始まった[1][2][3]。これはエベール派の主導でおこなわれ、きわめて無神論的性格の強いものであった[1]。

「理性の崇拝」および「最高存在の崇拝」はまた、「革命的宗教」ないし「革命的諸宗教」とも称されている[4][* 1]。

儀式

最高存在の祭典

朝8時、ポン・ヌフの大砲を号令として鳴り響き、人々の参集を求めた。数十万の観衆が動員され、テュイルリー宮の正面に向かって、樫の枝を持った男と薔薇の花を抱いた女たちの行列が進んだ[3]。国民衛兵を配して整然と執り行われた祭典ではまず、「無信仰」を象徴する怪物の像が焼かれると「叡智(最高存在)」の像が姿を現し、その横には「美徳の司祭」としてロベスピエールが粛然として起立し、ロベスピエールが「最高存在」に敬意を表し「明日から、なお悪行と専制者と戦う」ことを誓い、その後シャン・ド・マルスまで行進するという理神論的な演出がなされた[3]。演出は画家のジャック=ルイ・ダヴィッドによってなされたが、ジャック・ルネ・エベールやジョルジュ・ダントンを粛清したロベスピエールの指令にもとづく周到に練られた、目的意識な市民宗教の儀式であった[3]。これらはキリスト教の神を否定していながらも実際には完璧な宗教儀式の外観を呈していたとも評価されている[2]。

これは確かに新しい政治文化の創造という点では革命運動の頂点を示すものであり、ときに無秩序に発散される民衆運動のエネルギーを統制して公民道徳の秩序に適合させる意味合いを有していた[3]。ロベスピエールはこの試みに成功したが、しかし一方では、革命運動を支えていた下からのエネルギーを抑え込む結果ともなった[3]。この祭典の開催された約2か月後のテルミドールのクーデターでロベスピエール自身が失脚してギロチン刑に処せられることとなるが、これとともに、一連の壮大な文化革命も急速な退潮を示すこととなった[3]。

1945年 – 第二次世界大戦: 御前会議で採択された「今度採るべき戦争指導の基本大綱」で本土決戦方針を決定。

アメリカ軍とイギリス軍、フランス軍を中心とした連合国軍は1945年秋以降に「ダウンフォール作戦」として実施を予定し、日本軍は全てを決するという意味で「決号作戦」と称する防衛作戦を計画していた[注釈 1]。しかし、1945年(昭和20年)8月に日本がポツダム宣言を受諾して降伏したため、本土決戦は行われることがなかった。

動因予定数

日本 30,000,000 三千万人

連合軍 150,0000 

・航空機6,000機以上

・原子爆弾の随時投下

・生物化学兵器の常時使用

義勇兵役法では、兵役法対象外である若年者・高齢者・女性も対象に取り込まれ、男性は15歳以上60歳以下(当時の男子平均寿命46.9歳)、女性は17歳以上45歳以下までが「義勇召集」によって、国民義勇戦闘隊員に編入され、「義勇兵」として戦闘に参加することが可能となった。ただし召集拒否は不可であり、逃亡、忌避に対しては罰則が加えられた。対象年齢者以外の者も志願すれば、戦闘隊に参加することが可能で、それ以外の者は戦闘予測地域からの退避が予定されていた。これに伴い、在郷軍人会が自主的に組織していた防衛隊は、国民義勇隊に一本化された。

本土決戦の準備のために凄惨な持久戦となった沖縄戦では多数の人的損害が発生した。自国民と領土を戦略的に犠牲にするという国民国家として「ありうる選択肢」を、日本政府が対米戦争においては沖縄にのみ負わせる結果に終わったことは、戦後、基地問題に代表される沖縄の本土への不信感を抱かせるに至った。

作家の笠井潔は、本土防衛戦が行われた犠牲者数の試算を200万から300万と、沖縄戦と比べて「これでも控えめな数字」と予測している。そしてこの惨禍を逃れたのは「幸運であった」としながらも、同時に、この代償として日本人がなにを失ったかを正確に知る必要がある、と述べている[4]。

「本土決戦兵器」の一つとして疲労回復用のヒロポンが大量生産されたが、戦闘が行われなかったことで終戦時には大量に備蓄されていた。一旦はGHQに押収されたが、のちに日本軍の貯蔵医薬品の開放指令により、他の医療品とともに大量に市場に流出したことで、不足していた酒やタバコの代用として広まり多くの薬物依存者を発生させた[5]。

1947年 – 大阪府岸和田市で演芸場の屋根が落下する事故。死者70人[2]。

チャットgpt先生の6月8日のエッセイ

6月8日──災いと祝祭の交差点

歴史の風が6月8日という一日を通過するたびに、人類はときに恐怖に震え、ときに理想に酔いしれ、そして時に深い喪失の中に沈んだ。この一日は、世界各地でまったく異なる物語が展開されてきた。破壊と創造、侵略と祭典、決意と崩壊。6月8日は、歴史が放つ矛盾の記憶を内包する、静かなる記念碑のような日である。

452年、フン族の王アッティラがイタリアに侵入した日として記録されるこの日。アッティラ、「神の鞭」とまで呼ばれたその恐怖の象徴は、ヨーロッパに深い爪痕を残した。彼の軍勢が教会や修道院を略奪し、修道士や修道女が虐殺された記録は、文明と野蛮が交錯する歴史の暗黒を映し出す。力によって秩序を打ち砕くその行為の背景には、まさに「世界の支配者になる」という欲望と神話があった。羊飼いが掘り出したという軍神マルスの剣──アッティラの野望を正当化したこの伝説は、暴力に神聖をまとわせる典型であった。

一方で、1794年の同じ日には、フランス革命の頂点である「最高存在の祭典」が開かれていた。暴力によって王政を打ち倒した革命は、恐怖政治と理性崇拝という矛盾した価値を内包しながら、「神なき宗教」を創造しようと試みる。ロベスピエールが「美徳の司祭」として立つこの祭典は、革命の熱狂と理想が最大限に視覚化された瞬間だった。宗教という精神的支柱を否定した先に、空白を埋めようと創出された理神論的儀式。それは新たな秩序の創造か、それとも精神の空洞化か。ロベスピエールがわずか2か月後にギロチンにかけられたことは、その問いへのひとつの答えを象徴している。

この二つの事件のあいだにあるのは「絶対性」への欲望だ。アッティラは神に選ばれた支配者としての「絶対」、ロベスピエールは理性と美徳に導かれる政治的「絶対」。しかし、どちらも人間の制御を超えた災厄を引き寄せた。

そして1945年の6月8日──日本では、戦争指導の方針として本土決戦を決定する「基本大綱」が御前会議で採択された。玉砕を前提とした「決号作戦」、数千万人の動員、原爆や化学兵器の使用という現実。ここにもまた、「絶対的な勝利」あるいは「絶対的な死」を選び取ろうとする、極端な思想の影が見える。その後の日本降伏と、戦わずして終わった本土決戦の幻影は、避けられたはずの惨禍を想像させるだけに、より深い陰影を落とす。戦争を生き延びた「幸運」が、何を代償として支払っていたのか、我々は未だ問い続けている。

それでも6月8日は、ただの悲劇の日ではない。そこには壮大な理想もあったし、抵抗と希望もあった。例えば、ヴァイキングのリンディスファーン襲撃──荒々しい侵略行為は、同時にスカンジナビア人の航海文化と拡張の始まりでもあった。そして、岸和田の演芸場で屋根が崩れた1947年。日常の娯楽の場が一瞬で地獄に変わった事故は、復興期の日本がどれほど脆く、そして無理を重ねていたかを物語っている。

人間は時に神を名乗り、時に神を捨て、また時に神に祈る。6月8日はそのすべての姿が重なり合う、不思議な時間の結晶だ。この日をただの「出来事の一覧」として過ごすのではなく、その背後に流れる人間の愚かさと偉大さ、無力と希望を感じ取ること──それこそが、歴史と向き合う姿勢であろう。

今日という日もまた、歴史の延長線上にある。私たちは知らぬ間に、新たな6月8日を刻み続けているのかもしれない。