kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月25日  1979アメリカン航空191便機墜落、ほか写真wikipedia墜落現場

5月25日

20250525日曜日旧暦4月28日先勝(甲午きのえうまコウゴ)月齢 27.3

乙巳きのとみ年辛巳かのとみ月甲午きのえうま日   

吉方位 陽遁日 甲午きのえうま 西 南東 

https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%8825%E6%97%A5

5月25日の出来事

1910年 – 幸徳事件(大逆事件)の検挙が開始される。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: B29爆撃機470機が東京に空襲し、山手の都区部の大部分を焼失。死者3651人。また、この空襲で天下三名槍の一つ、御手杵が焼失してしまった。

1954年 – 写真家ロバート・キャパがインドシナ戦争取材中に地雷に触れて爆死。

1979年 – アメリカン航空191便墜落事故が発生。乗客数258乗員数13死者数    271(全員)

2002年 – 台湾海峡の上空でチャイナエアライン611便空中分解事故が起こる。

乗客数206乗員数19死者数225(全員)

2009年 – 板橋資産家夫婦放火殺人事件が起こる。

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1910年 – 幸徳事件(大逆事件)の検挙が開始される。

堺利彦や片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった[要出典]中の1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。この事件を口実として、政府がフレームアップ(政治的でっち上げ)により、幸徳秋水をはじめとする全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)を根絶しようと取り調べや家宅捜索を行なって弾圧した事件が幸徳事件である。戦後はもっぱら政府のでっち上げ部分を批判する視点で言及される事がほとんどで、「暗殺計画に関与していたのは宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作の4名だけであった」など実際の暗殺計画に対しては軽く扱われる事がほとんどである。1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。これに関して最高裁判所は1967年に、「戦前の特殊な事例によって発生した事件であり、現在の法制度に照らし合わせることはできない」「大逆罪が既に廃止されている」との理由から、免訴の判決を下し、再審請求が事実上できないことを示している。(但し、刑事補償法では免訴でも無罪と推定されるときは補償を受けることができるとされている。)

信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した[6]。松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした[7]。検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだ。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: B29爆撃機470機が東京に空襲し、山手の都区部の大部分を焼失。死者3651人。また、この空襲で天下三名槍の一つ、御手杵が焼失してしまった。

1954年 – 写真家ロバート・キャパがインドシナ戦争取材中に地雷に触れて爆死。

1979年 – アメリカン航空191便墜落事故が発生。乗客数258乗員数13死者数    271(全員)

アメリカン航空191便墜落事故(アメリカンこうくう191びんついらくじこ、英語: American Airlines Flight 191)は、1979年5月25日にアメリカン航空の定期旅客便だったDC-10型機が、シカゴ・オヘア空港を離陸した直後に墜落した航空事故。

離陸時の機首上げの際に、左主翼下のエンジンとパイロンが機体から分離した。同時に油圧系統が損傷して左翼外側のスラットが引き込まれてしまい、左翼だけがより高速で失速しやすい状態になった。緊急時の手順どおりに飛行速度を落とした結果、左翼だけが失速状態になった。しかし、一部の警報装置が機能を停止していたので、パイロットは状況が把握できなかった。そのまま機体は急激に左に横転し、離陸から30秒で墜落した。搭乗者271人全員と地上で巻き込まれた2人が死亡した。この死者数は2023年現在、テロ事件を除くアメリカの航空事故において最大である。

2002年 – 台湾海峡の上空でチャイナエアライン611便空中分解事故が起こる。

乗客数206乗員数19死者数225(全員)

チャイナエアライン611便空中分解事故(チャイナエアライン611びんくうちゅうぶんかいじこ)は、2002年5月25日に台湾・澎湖諸島付近で発生した航空事故。

中正国際空港(現:桃園)から香港国際空港へ向かっていたチャイナエアライン611便(ボーイング747-200B)が澎湖諸島付近上空を巡航中に空中分解し海上に墜落、乗客乗員225人全員が死亡する惨事となった。事故原因は機体スキン(外皮)の不完全な修理のために起きた金属疲労により、飛行中に機体の破壊が生じたというものであった。

2009年 – 板橋資産家夫婦放火殺人事件が起こる。

概要

2009年(平成21年)5月25日午前0時半ごろ、東京都板橋区弥生町の民家から出火し全焼。現場からこの家に住む74歳男性と69歳女性の夫婦2人の殺害された遺体が発見された[1]。

殺害された男性は地元では特に有名な資産家として知られており、個人でアパートや土地など約80件にも上る物件を所有し、不動産関連の収入で生活していた。普段は毎晩のように夜の街にくり出し、一晩で100万を使うこともあったという。昼間はほとんど自宅におり電話にも出ないこともあり、近所の住人との付き合いはあまりなかった。

犯人は被害者夫婦の頭を鈍器のようなもので執拗に殴ったうえ刃物で胸や腹を刺して殺害した。この際被害者夫婦は何らかの理由で犯人に抵抗できない状態にあったとみられ、2人の遺体には防御創がほとんどなかった。また被害者の男性が普段外出のときに着用するネクタイやワイシャツ姿でなかったことから、室内で襲われた可能性がある。

用心深い性格だったという被害者の男性は、常に敷地にある4カ所すべての出入り口を施錠し、他人を敷地内に入れることは滅多になかった[2]。この出入り口には人の動きを感知する赤外線センサーが設置され、人の出入りを感知すれば室内にいる人間に音で知らせる仕組みになっていた。また男性は自宅に高額の現金や所有する不動産に関係する重要な書類を保管していたとも言われ、実際に遺体が発見された部屋には2000万円以上の札束が残されていた[1][3]。こうした事からこの事件は被害者の家の事情に詳しい犯人による計画的な犯行も疑われている。

チャットgpt先生の5月25日のエッセイ

**5月25日という日――静けさの裏に潜む衝撃の記憶**

5月25日――日本の初夏が本格的に始まり、緑が濃さを増すこの日。空は高く、風はやや湿り気を帯びつつも心地よい。そんな季節の一日でありながら、この日は歴史のなかで幾度となく激しい揺れを刻んできた。

1910年、長野の地で「信州明科爆裂弾事件」が発覚した日。この事件は後に「幸徳事件(大逆事件)」という名で、日本近代史の中でも特異な政治弾圧事件へと拡大する。わずか4人の暗殺計画が、国家の意志によって数百人の社会主義者・アナキストの検挙へと変貌していく様は、「正義」の名を借りた国家権力の暴走そのものだった。後世の目から見れば、この日から始まったのは“思想を封じる”という時代の暗がりだった。

その暗がりの先にある1945年5月25日。470機のB29爆撃機が東京を襲い、山手の都区部を焼き尽くした。戦争末期の苛烈な空襲で、3651人の命が奪われた。灰燼に帰したのは建物だけではない。天下三名槍の一つ、「御手杵」までもがこの日に消えた。武士の魂を象徴する歴史遺産が、無慈悲な炎に包まれたことは、文化そのものが戦火に飲み込まれた一瞬だった。

それから約30年後の1979年、海の向こうでは、アメリカン航空191便が空港を離陸してわずか30秒で墜落し、271人が命を落とすという、テロを除けばアメリカ史上最悪の航空事故が発生する。偶発ではあるが、そこには整備体制や安全基準といった人間社会の慢心や限界が透けて見える。

さらに2002年にはチャイナエアライン611便が空中分解し、225人全員が犠牲となった。事故原因は過去の機体損傷の“見かけだけの修理”だった。時間がたち、当事者も忘れたかのような“綻び”が、空の上で一瞬にして命を奪う惨事へとつながる。記録に残された事故原因の詳細は、「人間の怠慢」がどれだけ致命的かを静かに突きつける。

国内では2009年に板橋区で資産家夫婦が殺害されるという凄惨な事件が起きている。防犯体制の整った家、他人を寄せ付けない生活、しかし犯人はそれを突破し、命を奪い、火を放った。被害者の豪奢な生活が事件の動機と結びつけられたが、そこには“人間関係の孤独”や“信頼の断絶”といった、現代社会が抱える静かな病巣が垣間見える。

こうして見ると、5月25日という日は、不思議と“突発的な衝撃”と“静かなる暴力”が交錯する日であるように思える。時に思想の自由を押しつぶす政治の力、時に空から降る死、そして身近な人間の手によって起きる悲劇――いずれも“起こるべくして起こった”とは言い切れない、しかしその背景には私たち社会の「無関心」や「見て見ぬふり」が潜んでいる。

5月25日は、一見何でもない初夏の一日である。しかし、歴史をたどればその背後には、数え切れぬ命と、見過ごされてきた兆し、繰り返される過ちがある。この日をただ過ぎ去らせるのではなく、一つひとつの出来事に耳を澄まし、「なぜ起きたのか」を問い続けることが、歴史を未来につなぐ唯一の道かもしれない。

今日もまた、5月25日がめぐってくる。空は青く、風は静かだ。だからこそ、この静けさの中に過去の叫びを思い出す意義がある。