5月18日
20250518日曜日旧暦4月21日赤口(丁亥ひのといテイガイ)月齢 20.3
乙巳きのとみ年辛巳かのとみ月丁亥ひのとい日 年末まではあと227日
吉方位 陽遁日 丁亥ひのとい 南東 南 南西 大吉
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5月18日の出来事
1584年(天正12年4月9日) – 長久手の戦い。羽柴軍の死者2500余人、織田徳川軍の死者590余人
1729年(享保14年4月21日) – 将軍徳川吉宗の子と偽り勘定奉行・稲生正武に見破られた天一坊改行が処刑される。(天一坊事件)
1863年 – 南北戦争: ビックスバーグの包囲戦が始まる。時 1863年5月18日 – 7月4日[1]
場所 ミシシッピ州ウォーレン郡
結果 北軍の勝利
損害 北軍7万人中 4000人強戦死 南軍3万3千人中 3万人強戦死2万人捕虜。
1875年 – コロンビアのククタでマグニチュード7.5の地震。コロンビアとベネズエラで壊滅的被害。(ククタ地震)被害は数千から数万。不明。
1927年 – バス学校爆破事件。アメリカ合衆国ミシガン州のバス(Bath Township)で発生した爆破事件。45人が死亡、58人が負傷し、犠牲者の大半は爆破されたバス統合学校(Bath Consolidated School)の生徒達(7歳~12歳)であった。
1936年 – 阿部定事件。概要 仲居であった阿部定が愛人男性を絞殺し、男性器を切り取った。
1941年 – 茨城県延方村(現潮来市)地先利根川で定員超過の汽船『水郷丸三十号』(4トン)が転覆。鹿島神宮、香取神宮に向かう団体客など49人が死亡[1]。
1953年 – ジャクリーン・コクランがF-86 セイバーで1049.83 km/hの記録を出し、初めて音の壁を破った女性となる。
1978年 – 新潟県妙高高原町で地すべり、それに伴う土石流が発生し新赤倉温泉の温泉街が埋没、死者・行方不明者10人[2]。
1980年 – 韓国で光州事件が起こる。1980年5月18日から27日にかけて大韓民国の全羅南道の道庁所在地だった光州市(現在の光州広域市)を中心に発生した市民による軍事政権に対する民主化要求の蜂起。死者 154人あるいは198人(韓国軍発表)[1]
2018年 – クバーナ航空972便墜落事故が発生。111人が死亡[4]。生存1人。
2018年 – アメリカ合衆国テキサス州でサンタフェ高校銃乱射事件が発生し、10人死亡[6][7]。
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1584年(天正12年4月9日) – 長久手の戦い。羽柴軍の死者2500余人、織田徳川軍の死者590余人
1729年(享保14年4月21日) – 将軍徳川吉宗の子と偽り勘定奉行・稲生正武に見破られた天一坊改行が処刑される。(天一坊事件)
将軍の血筋であると吹聴し、浪人を集める
享保13年(1728年)夏、浪人・本多儀左衛門が関東代官・伊奈忠逵の屋敷を訪ね、代官に密告をしたことが発端である。南品川宿の常楽院という山伏の家に源氏天一坊なる者がいて、多数の浪人を集め、自分は将軍の血筋で近々大名に取り立てになると称し、浪人たちに役儀などを与えていると申し立てた。
伊奈はいかにも不審なことであるとして、当該地区を管轄する名主、地主を呼びつけて事情聴取した。取り調べの結果、常楽院方で浪人を集めているのは改行という山伏で、紀州生まれで江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の落胤を称しているということなどが判明する。
1863年 – 南北戦争: ビックスバーグの包囲戦が始まる。時 1863年5月18日 – 7月4日[1]
場所 ミシシッピ州ウォーレン郡
結果 北軍の勝利
損害 北軍7万人中 4000人強戦死 南軍3万3千人中 3万人強戦死2万人捕虜。
ビックスバーグの包囲戦(ビックスバーグのほういせん、英:Siege of Vicksburg)は、南北戦争のビックスバーグ方面作戦では最後の大きな戦闘である。北軍の指揮官ユリシーズ・グラント少将のテネシー軍はミシシッピ川を渡った後で、南軍ジョン・C・ペンバートン中将の部隊を要塞都市ビックスバーグを取り巻く防御線の中に追い込んだ。グラントは1863年5月19日と22日の2回、南軍の要塞に対する攻撃を行って大きな損失を出し撃退された後は、5月25日から7月4日までビックスバーグ市を包囲した。この7月4日に南軍は降伏し、ミシシッピ川の支配権が北軍の手に落ちた。この南軍の降伏は、その前日(7月3日)東部戦線におけるゲティスバーグの戦いでロバート・E・リー軍が敗北したことと組み合わせて、南北戦争の転回点と見なされている。
1875年 – コロンビアのククタでマグニチュード7.5の地震。コロンビアとベネズエラで壊滅的被害。(ククタ地震)被害は数千から数万。不明。
1875年ククタ地震 (1875 Cúcuta earthquake) は1875年5月18日午前11時15分(現地時間)にコロンビアのククタで起きたマグニチュード7.5の地震。
犠牲者の総数は不明である。アメリカのメディアは死者25,000人と報告したが、他の情報筋によると死者は1,000人であった。初期の新聞報道によると、死者は8人から10,000人であった。 ニュージーランドの新聞は5,000人が死亡し、さらに9,000人が発熱や破傷風で死亡したと伝えた。
1927年 – バス学校爆破事件。アメリカ合衆国ミシガン州のバス(Bath Township)で発生した爆破事件。45人が死亡、58人が負傷し、犠牲者の大半は爆破されたバス統合学校(Bath Consolidated School)の生徒達(7歳~12歳)であった。
アメリカ合衆国史上、学校で発生した大量殺人としては犠牲者数が最多のものである。犯人は当地の教育委員会の委員であったアンドリュー・フィリップ・キーホー(Andrew Philip Kehoe)。キーホーは、学校の校舎建設のために新たに課された財産税に腹を立てており、自分の経済状況の厳しさを理由にこの増税に対する不服を申し立てていたが、所有する農場が強制執行の対象となった。この件がキーホーの犯行の動機となった。
概要
最初に自分の妻を殺害したキーホーは、5月18日の朝に自分の農場の建物を爆破した。消防士がキーホーの農場に到着した頃、爆発で学校の校舎の北側が破壊され、中にいた多くの人々が死亡した。爆破に使われたのは、ダイナマイトと大量のパイロトール(第一次世界大戦中から使用され始めた無煙火薬の一種)であり、キーホーが何ヶ月もかけて学校内に秘かに仕掛けたものであった。救助隊が学校に到着した頃、キーホーは学校に自動車で到着、自分の自動車を爆発させて自殺した。その際、校長らが巻き添えになって死亡したほか、数人が負傷した。救助活動が懸命に続けられている中、校舎南側の地下室からさらに230kgものダイナマイトとパイロトールが救助隊により発見された。
爆発物の購入と設置
キーホーがいつこのような行動を思いつき、実行を計画したのかはっきりとは分からない。後に行われた捜査では、学校でのキーホーの行動や爆発物の購入時期等から、遅くとも事件の1年前からは計画されていたと結論付けられている。
1926年の冬、教育委員会はキーホーに校舎内の補修を行うよう求めた。多くの人々から優秀な「何でも屋」と見なされていたキーホーは、電気設備にも詳しいことで知られていた。設備の補修を委託された教育委員会の委員として、キーホーは学校に自由に出入りが出来たうえ、校内に彼がいるのを見ても不審に思う者は誰もいなかった。
1926年の初夏、キーホーはパイロトールを1トン以上も購入した。当時パイロトールは、農場経営者の間では地面掘削用として普通に用いられていた。1926年11月、キーホーはランシングに自動車で出掛け、スポーツ用品店でダイナマイト2箱を購入した。ダイナマイトも農場では普通に使用されるものであるうえ、キーホーはダイナマイトを少しずつ、様々な店で時期をずらして購入したため、周囲から疑われることはなかった。後にキーホーが自分の農場を爆破した際に、爆発音を聞いた周辺の住民達は、以前にキーホーが木の切り株の除去にダイナマイトを使用していると話していたことを思い出したという。
事件の翌日からの数日間に、犠牲者達の合同葬が執り行われ、中でも5月22日の土曜日に執り行われた合同葬は、犠牲者18人を弔う最大規模の葬儀であった。事件は全国紙の第1面で扱われ、ミシガン州の地元紙では、5月23日にミシガン州出身のチャールズ・リンドバーグが大西洋単独無着陸飛行を達成したニュースが報道されるまで、第1面に掲載され続けた。
郡の郊外や近隣の州から、多数の自動車がバスを来訪するようになった。土曜日だけでも100,000台以上という、バスにとっては莫大な交通量を記録した。バスの住民の中には、この大量の自動車の往来を、悲惨な時期の最中の許しがたい邪魔者と捉える者もあったが、大半の人々は近隣の社会からの同情心や励ましの現れであると受け止めた。[25] クー・クラックス・クランはこの犯行について、カトリックのキーホーが「プロテスタントや無神論的な学校」に異を唱えるローマ・カトリック教会の姿勢に執着した結果である、とコメントした。[26]
1936年 – 阿部定事件。概要 仲居であった阿部定が愛人男性を絞殺し、男性器を切り取った。
阿部定事件(あべさだじけん)は、仲居であった阿部定が1936年(昭和11年)5月18日に東京市荒川区尾久の待合で、愛人の男性を絞殺し、局部を切り取った事件。「お定事件」とも。
犯行後、阿部定は行方をくらますが、事件の猟奇性ゆえに当時の庶民の興味を強く惹き、逮捕された際には号外が出された。
「星菊水」「若竹」共に店の客からの評判は「江戸っ子らしく気風のいい優しい人」と評判が良かったが、事件には一切触れることはせず、仕事仲間にも当時のことを語ることはほとんどなかった。一方で、事件の当時を知っている警察関係者や司法関係者が店にやってきて金をせびったり身体を要求することもあり、定は用心深くなっていった。1970年(昭和45年)3月、定は若竹から忽然と姿を消す。店を手伝っていた女性が病気になり、一人で店を切り盛りしていたが、定も体を壊し、世話をしてくれた年下のバイセクシャルの恋人に店の金を持ち逃げされてしまい、店を閉じる。借金をある程度清算したが、どうしても残りの金を工面できず、関西に行き自殺を考えていたが、様子がおかしいと気づいた芸者に説得され、東京に戻ってきたとされている。
失踪
1971年(昭和46年)1月頃、定を星菊水にスカウトした島田と偶然浅草の仲見世で出会い、千葉県鋸南町[10]の「勝山ホテル(現在は廃業)」で働くことになる。「あたし、新派の芝居『日本橋』に出てくる、こう役が好きだから『こう』と呼んで頂戴」と島田の妻に話している。当時の定は65歳であったが、若い男性に金品を貢いでは気を引いていたとされる(ただし島田の妻は男性関係は一切なかったと証言している)。6月頃に「リウマチを治療し、7月8月が過ぎたら戻る」という置き手紙を残し、浴衣一枚だけを持って失踪した[2]。
1941年 – 茨城県延方村(現潮来市)地先
利根川で定員超過の汽船『水郷丸三十号』(4トン)が転覆。鹿島神宮、香取神宮に向かう団体客など49人が死亡[1]。
1953年 – ジャクリーン・コクランがF-86 セイバーで1049.83 km/hの記録を出し、初めて音の壁を破った女性となる。
1978年 – 新潟県妙高高原町で地すべり、それに伴う土石流が発生し新赤倉温泉の温泉街が埋没、死者・行方不明者10人[2]。
1980年 – 韓国で光州事件が起こる。1980年5月18日から27日にかけて大韓民国の全羅南道の道庁所在地だった光州市(現在の光州広域市)を中心に発生した市民による軍事政権に対する民主化要求の蜂起。死者 154人あるいは198人(韓国軍発表)[1]
2018年 – クバーナ航空972便墜落事故が発生。111人が死亡[4]。生存1人。
2018年 – アメリカ合衆国テキサス州でサンタフェ高校銃乱射事件が発生し、10人死亡[6][7]。
概要
2018年5月18日、17歳の在学生(容疑者)が美術の授業に侵入。好意を抱いていた人物は狙わず、標的の人物に対しては殺意を持って散弾銃と38口径回転式拳銃を次々と発砲した。死者10人(生徒9人、教師1人)、負傷者10人。発砲直後、校内に配置されていた警官が反撃を開始。容疑者は、自分で死ぬ勇気がなかったとして投降した。
学校の内外からは、様々な爆発装置が見つかり計画的な犯行であったことが判明しているが、動機は明らかにされていない[1][2]。
チャットgpt先生の5月18日のエッセイ
5月18日という日をめぐって:時代を映す「出来事の断層」
5月18日。それは単なる一日ではなく、人間の歴史と感情の複雑なレイヤーが重なり合う「記憶の断層」のような日である。平凡に見えて、その裏には血と涙、希望と絶望、そして誤解と真実が交差する。今日という日にまつわる出来事をいくつかなぞってみると、私たちは歴史がいかにして個人と社会、信念と権力、災厄と教訓を織りなしてきたかに気づく。
まず日本史におけるこの日、1584年の長久手の戦いでは、羽柴(豊臣)軍が手痛い敗北を喫した。秀吉の勢いに陰りが見えた瞬間であるが、後に逆転劇を展開する布石でもあった。死者数にして3000人を超えるこの戦は、単なる数字では済まされない命の重みと、権力の非情さを感じさせる。
さらに1729年の天一坊事件は、将軍の「落胤」と称した偽者が処刑されたという詐称事件だ。支配構造の中で“血筋”というものがいかに重く、そして危ういものかを浮き彫りにする。この事件は、「本物」と「偽物」を分ける境界がいかに時代の都合で動くかを示唆する。歴史の中では、真実より「信じられたこと」が力を持つのだ。
大西洋を越えた**アメリカ・バス学校爆破事件(1927年)**では、教育という未来への希望の場が、個人の絶望により地獄へと一変した。犯人キーホーの計画的な犯行は、社会が生んだ疎外感と怒りが、いかに破壊的に現れるかを物語っている。爆破によって亡くなった多くの子どもたちは、無関係であるがゆえに、より深い痛みを社会に刻んだ。
1936年の阿部定事件は、その猟奇性ばかりが語られがちだが、実際には女性が愛と執着のはざまで自我を失い、社会の枠組みから外れていく過程でもある。阿部定の行動は狂気とされるが、その背景にある孤独や抑圧は、当時の社会の「正しさ」の裏側にある暗部であろう。
一方で、1953年のジャクリーン・コクランによる音速突破は、この日が必ずしも悲劇に染まるものではないことを教えてくれる。女性として初めて「音の壁」を破った彼女は、歴史の壁、性別の壁、期待と偏見の壁までも突き破ったのである。希望と可能性の象徴として、5月18日を明るく照らしてくれる存在だ。
そして決して忘れてはならないのが1980年の韓国・光州事件。民衆が軍政に抗い立ち上がり、力によって押しつぶされたこの蜂起は、民主主義とはただ与えられるものではなく、血を流してでも勝ち取るべきものであることを強く刻む。彼らの死は、単なる政治的犠牲ではなく、いまの自由を支える礎の一部である。
こうして5月18日を眺めると、そこには「嘘と真実」「暴力と反抗」「死と飛翔」「愛と狂気」が同居している。この日を通して私たちは、歴史が単なる年号の羅列ではなく、人の喜びと悲しみ、希望と絶望のうねりそのものだと感じさせられる。5月18日は、まるで歴史そのものが一瞬息を止め、次のページをめくるのを躊躇するような日である。
今日という日が、過去の記憶に静かに耳を傾けながら、未来への歩みに意味を与える一日となるように。
あなたにとっての「5月18日」は、どんな日になるだろうか?