kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月14日 1945名古屋空襲で名古屋城焼失、ほか写真wikipedia現在の再建天守

5月14日
20250514水曜日旧暦4月17日友引(癸未みずのとひつじキビ)月齢 16.3
乙巳きのとみ年辛巳かのとみ月癸未みずのとひつじ日  年末まではあと231日
吉方位 陽遁日 北東 大吉。
https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%8814%E6%97%A5
5月14日の出来事
1019年(寛仁3年4月7日) – 刀伊の入寇。年月日:寛仁3年3月27日 – 4月13日
(ユリウス暦1019年5月4日 – 5月20日)場所:日本の旗 日本 壱岐・対馬・九州北部
結果:日本の勝利
対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退し、後に高麗の水軍により一掃される。
損害:二週間の戦闘期間中に全体で364名が殺害され、1280名が拉致され、牛馬の被害は355頭に及んだという[60][28]。
女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったという[61]。拉致されたものは壮年の男女が多く、労働力とするためか、大陸の奴婢市場に売却するためであったと見られる[62]。
1610年 – フランス国王アンリ4世がカトリックの狂信者ラヴァイヤックに暗殺される[3]。
1878年 – 紀尾井坂の変: 内務卿大久保利通が暗殺される。
1939年 – リナ・メディナが、世界最年少の5歳7か月21日で子供を出産[注釈 1]。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 名古屋空襲で名古屋城が焼失。

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1019年(寛仁3年4月7日) – 刀伊の入寇。年月日:寛仁3年3月27日 – 4月13日
(ユリウス暦1019年5月4日 – 5月20日)場所:日本の旗 日本 壱岐・対馬・九州北部
結果:日本の勝利
対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退し、後に高麗の水軍により一掃される。
損害:二週間の戦闘期間中に全体で364名が殺害され、1280名が拉致され、牛馬の被害は355頭に及んだという[60][28]。
女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったという[61]。拉致されたものは壮年の男女が多く、労働力とするためか、大陸の奴婢市場に売却するためであったと見られる[62]。
1610年 – フランス国王アンリ4世がカトリックの狂信者ラヴァイヤックに暗殺される[3]。

アンリ4世(フランス語: Henri IV、漢字:顯理四世[1]、1553年12月13日 – 1610年5月14日)は、ブルボン朝初代のフランス国王(在位:1589年8月2日 – 1610年5月14日)、およびナバラ国王エンリケ3世(バスク語: Henrike III.a、在位:1572年6月9日 – 1610年5月14日)。

ユグノー戦争で叔父コンデ公ルイが戦死したため、年少にしてユグノーの盟主となる。1572年、自身の婚礼に際して企てられたサン・バルテルミの虐殺に遭遇したが、カトリックに改宗して難を避け、1576年に脱走して再びプロテスタントに復帰し、1589年のアンリ3世の暗殺により王位を継承する。その後再度カトリックに改宗して国内を平定し、1598年にナントの勅令を発布してカトリックとユグノーとの国内融和に努め、40年近くにわたる戦争を終結させた。戦後は戦争によって疲弊した国家の再建を行ったが、1610年に狂信的なカトリック信者によって暗殺(フランス語版)された。在位中から現代に至るまでフランス国民の間で人気の高い王の一人で、大アンリ(Henri le Grand)、良王アンリ(le bon roi Henri)と呼ばれる。1959年から発行された50フラン紙幣において肖像が採用されていた。ルイ13世は子、ルイ14世は孫、グラン・ドーファンは曾孫、ブルゴーニュ公ルイは玄孫、ルイ15世は来孫、ルイ・フェルディナンは昆孫、ルイ16世は仍孫、ルイ17世は雲孫である。

有能な君主として国民に広く愛されたアンリ4世だったが、たびたび暗殺の危機にさらされていた。1594年にはジャン・シャテル(Jean Châtel)による暗殺未遂で重傷を負った。 そして1610年5月14日、アンリ4世は馬車に乗ろうとした際に狂信的なカトリック教徒のフランソワ・ラヴァイヤックに刺殺された[23]。事件は単独犯として決着したが、多くの歴史家たちは権力上層部による陰謀であったと考えている[24]。5月27日にラヴァイヤックは、16年前のシャテル同様、パリで惨たらしい方法による公開死刑に処されている[25]。

アンリ4世はサン=ドニ大聖堂に埋葬され、8歳の王太子ルイがルイ13世として即位し、成人する1617年まで母后マリーが摂政として政務を執ることになった。

1878年 – 紀尾井坂の変: 内務卿大久保利通が暗殺される。

紀尾井坂の変(きおいざかのへん)は、1878年(明治11年)5月14日に、内務卿大久保利通が東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で、斬奸状をたずさえた士族6名によって暗殺された事件である。襲撃現場は正確には紀尾井坂ではなく坂下付近(現在の清水谷公園前)に位置する[1]。「紀尾井町事件」「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」[2]ともいう。

事件の数日前の悪夢

事件の数日前に前島密は、大久保から「西郷と口論して、私は西郷に追われて高い崖から落ちた。自分の脳が砕けてピクピク動いているのがアリアリと見えた」という悪夢を見た、と聞いた[5]。

暗殺当日

5月14日早朝、大久保は福島県令山吉盛典の帰県の挨拶を受けている。その話は2時間近くにおよび、山吉が辞去しようとしたときに大久保は三十年計画について述べている。これは明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として戊辰戦争や士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期として、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べた[注釈 1]。

午前8時ごろ、大久保は麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発した。明治天皇に謁見するため、2頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かった。同行していたのは御者の中村太郎と従者の芳松であった。ところが、午前8時30分ごろに紀尾井町清水谷(現在の参議院清水谷議員宿舎前)において暗殺犯6名が大久保の乗る馬車を襲撃した。まず芳松が襲われるが、なんとか逃亡し、近くの北白川宮邸に助けを求めた。日本刀で馬の足を切った後、馬車から飛び降りて立ち向かった丸腰の中村太郎を刺殺した。馬車の中で書類に目を通していた大久保は異変に気付き馬車から出ようとしたが、島田らは両方の扉を塞ぎ、大久保を馬車から引きずり降ろした。大久保は島田らに対して「無礼者」と一喝したが、護身のための武装をしていなかったことが仇となり、なす術もなく斬殺された(享年49〈数え年〉、満47歳没)。介錯として首に突き刺された刀は地面にまで達していた。『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』によると大久保は全身に16箇所の傷を受けており、そのうちの半数にあたる8箇所は頭部に対するものであった(頭部は右側頭部1、後頭部2、額1、鼻下1、左顎下1、首両横各1、その他は右肩1、右腕1、右手甲2、左腕1、左手甲1、右腰1、左足膝1)。事件直後に駆けつけて大久保の遺体を見た前島密が「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現している。

島田らは刀を捨て大久保に一礼をして撤収し、同日、大久保の罪五事と他の政府高官(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良)の罪を挙げた斬奸状を手に自首した。

大久保の遺した借金の補填

斬奸状には大久保が公金を私財の肥やしにしたと指摘の言葉があったが、実際は正反対で本来は公費にて実施すべき必要な公共事業を自身の私財で行うなど、金銭については潔白な政治家だった。そのため、死後は8,000円もの借金が残ったという[注釈 3]。政府は、このまま維新の三傑である大久保の遺族が路頭に迷うのは忍びないという配慮から、協議の上、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めて、この1万6,000円で遺族を養うことにした。

1939年 – リナ・メディナが、世界最年少の5歳7か月21日で子供を出産[注釈 1]。

リナは子供の父親とその後の自身の暮らしについては明らかにしていない。エスコメル医師は、妊娠について、リナ自身がよく理解していないのではないかと語っている[1]。妊娠が明らかになった直後、彼女の父親が児童性的虐待の疑いで逮捕されたが、証拠不十分のため釈放され、生物学上の父親が特定されることはなかった[1][5]。彼女の息子は健康に育ったが、1979年、40歳のときに亡くなった[1]。

リナは息子を高校に通わせるのを助けてくれたロサーダ医師の秘書として働いた[6]。その後、ラウル・フラードと結婚し、1972年に2人目の男の子を出産した。彼らは2002年現在、「リトル・シカゴ」として知られているリマの貧困地域に住んでいる[7]。2002年、リナはロイターからインタビューを申し込まれたが、拒否している[6]。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 名古屋空襲で名古屋城が焼失。

1945年(昭和20年)2月 東海軍管区司令部及び第13方面軍を設置。

太平洋戦争時は空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋大空襲で、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失した。

5月14日──時を越えた歴史の交錯
5月14日という一日は、ただの暦の上の数字以上の意味を持つ。そこには、時代も場所も異なる数多くの悲劇と再生、そして人間の営みが深く刻まれている。
1019年5月14日、壱岐・対馬・九州北部は、刀伊の入寇という未曾有の外敵襲来に見舞われた。北方から海を越えて襲いかかる異民族。わずか二週間で364人が命を落とし、1280人が拉致された。壱岐ではわずか35人しか住民が残らなかったという惨状は、まるで島ごと削ぎ落とされるような衝撃だった。だが、絶望の果てに、高麗の水軍によって襲撃者は一掃され、人々は新たな時代へと歩み出していった。命を落とした者たちの無念を、今日まで私たちは想像するしかない。
そして1610年の同じ日、フランスではアンリ4世が暗殺された。ブルボン朝の礎を築き、国内の宗教戦争に終止符を打った「大アンリ」は、狂信者の手によって非業の最期を遂げる。しかし彼が蒔いた寛容と再建の種子は、彼の死後もフランスに深く根を張った。民衆に「良王」と呼ばれた彼の肖像は、何世紀を経てもなお、人々の心の中に生き続けている。
時代は下り、1878年5月14日──明治維新の英雄、大久保利通が東京で暗殺された。国を近代化へ導いた立役者もまた、旧き士族たちの恨みを買った。血に染まった馬車と、斬奸状を胸に自首する暗殺者たち。激動の中で国を背負った男の生涯は、志半ばにして断たれたが、その遺志は日本という国の骨格となった。
1939年の5月14日、奇跡とも悲劇とも呼ばれる出来事が南米ペルーで起きた。リナ・メディナ、わずか5歳にして母となった少女。医学界に衝撃をもたらしたこの事件の背後には、いまだ明かされぬ深い闇が存在する。無垢な幼子に何が起こったのか──今なお明確な答えはない。ただ、彼女が生き抜いた事実だけが静かに語りかけてくる。
そして1945年、世界が戦火に包まれる中、名古屋城が炎に包まれた。金鯱も本丸も灰と化し、かつて栄華を誇った城郭は、空から降り注ぐ焼夷弾の前に成す術もなかった。しかし、戦後の日本は瓦礫の中から立ち上がり、名古屋城もまた再建を果たした。失われたものを悼みつつも、再び未来へと歩み出す──それがこの国の強さである。
こうして5月14日を振り返るとき、そこには「失われたもの」と「築き直されたもの」が交錯していることに気づく。悲劇は繰り返される。だが、それでも人は歩みを止めない。国を、命を、未来を、信じる力によって。
だからこそ、5月14日はただの一日ではない。
これは、絶え間なく続く人間の歴史の、小さくも輝かしい一コマなのである。