kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月13日 1972大阪千日デパートビル火災、ほか写真wikipeddiaのちの火災の建物

5月13日
20250513火曜日旧暦4月16日先勝(壬午みずのえうまジンゴ)月齢 15.3
乙巳きのとみ年辛巳かのとみ月壬午みずのえうま日  年末まではあと232日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%8813%E6%97%A5
5月13日の出来事
1497年 – ローマ教皇アレクサンデル6世がジロラモ・サヴォナローラを破門。
1784年(天明4年3月24日) – 田沼意次の子で若年寄の田沼意知が旗本・佐野政言に殿中で斬られる。4月2日に死亡。
1917年 – ポルトガル・ファティマで3人の子供の前にファティマの聖母が現れる[3]。
1972年 – 大阪・千日デパート火災。死者118名・負傷者81名を出す。
2000年 – オランダ・オーファーアイセル州エンスヘデで花火保管倉庫爆発事故が発生。死者20名・負傷者900名・家屋を失った者1,000名を出す。

2005年 – アンディジャン事件: ウズベキスタンのアンディジャンで武装集団が刑務所を襲撃。これに呼応して1万人以上のデモが発生したが、軍と治安部隊が武力で鎮圧した。犠牲者は187人と発表されたが、実際はそれを大幅に上回ると各メディアで報じられた[12]。

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1497年 – ローマ教皇アレクサンデル6世ジロラモ・サヴォナローラを破門。

アレクサンデル6世
本名はロデリク・ランソル(Roderic Lanzol)であるが、母方の伯父であるカリストゥス3世の教皇就任に伴って、母方の苗字であるボルハ(ボルジャ、Borja)に変えたため、ロデリク・ボルハのイタリア語読みであるロドリーゴ・ボルジア(Rodrigo Borgia)[注釈 1]の名前で知られることになる。

ルネサンス期の世俗化した教皇の代表的存在であり、好色さ、強欲さやジロラモ・サヴォナローラとの対立によっても非難されることが多い。また、息子のチェーザレ・ボルジアを右腕とし、一族の繁栄とローマ教皇庁の軍事的自立に精力を注いだことで、イタリアを戦火に投じることになった。

ジロラモ・サヴォナローラ
サヴォナローラは、教会の改革を主張して教皇アレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)と対立し破門される。禁欲的なサヴォナローラの姿勢に対してフィレンツェの民衆の不満も高まり、民心も離れていった。1498年、対立するフランチェスコ会修道士から預言者なら火の中を歩いても焼けないはずだとして「火の試練」の挑戦を受けた。これは4月7日の当日、フランチェスコ会側が怖気づいたために実施されなかったが[7]、4月8日サン・マルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、ついに共和国もサヴォナローラを拘束する。彼は激しい拷問を受けた。教皇の意による裁判の結果、異端の罪により、弟子のドメニコとシルヴェストロと共に絞首刑ののち火刑に処され殉教した。

1784年(天明4年3月24日) – 田沼意次の子で若年寄の田沼意知が旗本・佐野政言に殿中で斬られる。4月2日に死亡。

田沼意知の最後
最期
→「佐野政言」も参照
天明4年(1784年)3月24日正午頃、江戸城内の若年寄部屋から退出し、中之間に入ろうとしていたところ、桔梗の間に控えていた新番士の佐野政言に「御覚有るべし」と声をかけられて斬りつけられた[注釈 1]。意知は初太刀で肩先を三寸ほど、深さは七分ほど斬られた[2]。意知はよろけながらも桔梗の間に向けて逃走したが、佐野はそれを追い詰め、大廊下で転倒したところをその腹部めがけて突き刺そうとして、股を骨に達するほど深く刺した。意知はなおも逃れ、大廊下の新番所側にある暗がりに倒れ込んだ[2]。佐野が意知を見失ったところ、大目付の松平対馬守忠郷が走り出て取り押さえ、柳生久通によって脇差を取り上げられた[3][4]。意知は抜刀しなかったが、指が一本落ちるほどに切りつけられていた[5]。

意知は重傷であったが存命であり、直ちに駕籠に乗せられて神田橋の意次邸に運ばれた[5]。しかし、肩と股の傷は骨にまで達する深さで、治療のしようがなく、この傷がもとで4月2日未明に死去した[6]。享年36。戒名は仁良院殿光嶽元忠大居士、墓所は勝林寺[5]。

この暗殺に対して世間は佐野を賞賛し、意知に対しては冷たかった。意知の葬儀は没した日の夕方に行われたが、前日に付近で火事があったために町火消の人足が多く集まっており、石や馬沓を投げたり悪口を浴びせるものもいたとされる[7]。また同じ頃に行われた松平右近将監の葬儀を意知のものと勘違いして石を投げるものもいたとされる[7]。さらに「斬られた馬鹿年寄と聞くとはや、山もお城もさわぐ新番(「馬鹿年寄」「山もお城」は山城守であった若年寄の意知、新番は佐野が新番士であったことにかけている)」[6][8]、「山城の城の御小袖血に染ミて赤年寄と人はいふなる」といった落書や、「おらは田沼を憎むじやないが、ザンザ 独息子も殺された、オヨ佐野シンザ 血ばザンザ よい氣味じやエー」という戯れ歌(さんさ節)も広まった[8]。

1917年 – ポルトガル・ファティマで3人の子供の前にファティマの聖母が現れる[3]。

ファティマの聖母(ファティマのせいぼ、葡: Nossa Senhora de Fátima)は、ポルトガルの小さな町ファティマで起きた、カトリック教会が公認している、聖母の出現の一つ。ローマ教皇庁は奇跡として公に認めたが、第三の予言は長年にわたり秘匿した[1]。何万もの群衆を前に太陽が狂ったように回転して見えたり、水源のないところから水が湧き、飲む者に奇跡的な治癒があったりしたことから、1930年10月13日現地管区レイリア司教によってこの出現は公認され、同年教皇ピオ12世は同地に巡礼する者への贖宥(免償)を宣言した。1967年には教皇庁により最初の聖母の出現のあった5月13日がファティマの記念日に制定され、歴代ローマ教皇が巡礼に訪れたり、この出現のメッセージに基づき世界の奉献を行った。


1972年 – 大阪・千日デパート火災。死者118名・負傷者81名を出す。

千日デパート火災(せんにちデパートかさい)は、1972年(昭和47年)5月13日深夜[3]に大阪府大阪市南区難波新地(現・中央区千日前二丁目)[22]で起きたビル火災である[23]。

同地の千日デパート(日本ドリーム観光経営、鉄骨鉄筋コンクリート造、建築面積3,770.21平方メートル、延床面積2万7,514.64平方メートル、地上7階建、地下1階、塔屋3階建[22][24])3階から出火し、2階から4階までの8,763平方メートルの範囲に延焼、出火から約9時間後に鎮火した。死者118人・負傷者81人にのぼる人的被害を出し、戦後日本のビル火災として最大の惨事となった[注釈 9][注釈 10][注釈 12]


2000年 – オランダ・オーファーアイセル州エンスヘデで花火保管倉庫爆発事故が発生。死者20名・負傷者900名・家屋を失った者1,000名を出す。
2005年 – アンディジャン事件: ウズベキスタンのアンディジャンで武装集団が刑務所を襲撃。これに呼応して1万人以上のデモが発生したが、軍と治安部隊が武力で鎮圧した。犠牲者は187人と発表されたが、実際はそれを大幅に上回ると各メディアで報じられた[12]。

概要

2005年5月13日、武装勢力がアンディジャン市の刑務所を襲撃、受刑者を解放するとともに政府建物を占拠した。また、同時期に市内においてイスラム・カリモフ大統領と政権の退陣を求める住民による大規模なデモも発生した[1]。これに対して政府側は治安部隊を投入。鎮圧の際に一般市民に対して発砲があり、数百名の死者(実数は不明)が生じたとされる[2]。欧米各国や日本などは国際的な枠組みの中で調査を求めているが、一連の事件の経緯や結果は、ウズベキスタン側から詳細な経緯が公表されず、人権問題として国際的な関心を集めている。

チャットgpt先生の5月13日のエッセイ
5月13日という日
5月13日。
緑が色濃くなるこの季節に、私たちは歴史の深い水脈を覗き込むことができる。

1497年のこの日、ローマでは一人の男が破門された。
ジロラモ・サヴォナローラ。
彼は教会の堕落を糾弾し、清貧を唱え、民衆を熱狂させた修道士だった。
だが、現実は理想を赦さない。
ルネサンスのただなか、欲望と権力を糧にした教皇アレクサンデル6世――ロドリーゴ・ボルジア――は、彼を追放した。
清らかさと腐敗、信仰と権力。
人間というものの本質が、春の光の下であらわになる。

時代も場所も移ろい、1784年。
江戸の城中で、また一つの運命が大きく音を立てて崩れた。
田沼意知。
若くして権勢を誇った男が、ただ一太刀のもとに倒れた。
襲ったのは旗本・佐野政言。
斬られた意知の命は桜の花のようにはかなく、ただ世間の嘲笑だけが後に残った。
剣戟の音は、権力に押しつぶされた民衆の鬱屈の、かすかな叫びにも聞こえる。

1917年のこの日には、奇跡があったという。
ポルトガル・ファティマの空の下、三人の子供たちの前に聖母が現れた。
剣でも血でもなく、信仰の白い光が世界を照らそうとした。

けれどまた、5月13日は悲しみの記憶を刻んでもいる。
1972年、大阪・千日デパート火災。
118人の命が、煙と共に失われた。
2000年、オランダ・エンスヘデの花火倉庫爆発。
家を、家族を、日常を一瞬で奪われた人々がいた。
2005年、ウズベキスタン・アンディジャンでは、武力が怒声を鎮めた。
犠牲者の正確な数すら、いまだ霧の中だ。

5月13日は、決してただの一日ではない。
それは、人が信じ、闘い、傷つき、祈った、その証である。
緑の匂いのなかで、静かに目を閉じる。
過ぎ去った者たちの声に、耳を澄ませる。
そんなふうに過ごしてみたくなる、特別な日だ。