kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月10日 1857セポイの反乱、ほか写真wikipediaインド大乱

5月10日
20250510土曜日旧暦4月13日仏滅(己卯つちのとうキボウ)月齢 12.3
乙巳きのとみ年辛巳かのとみ月己卯つちのとう日  年末まではあと235日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%8810%E6%97%A5
5月10日の出来事
1575年(天正3年4月2日) – 石山合戦: 石山本願寺の顕如が織田信長に反抗して再挙兵。石山合戦 年月日:元亀元年9月12日(1570年10月11日) – 天正8年8月2日(1580年9月10日) 場所:摂津国石山(大阪市中央区) 結果:石山本願寺と織田信長との講和 損害:石山本願寺軍 15000人強 2700人以上戦死 織田+九鬼軍 10000人中 僅少。
1611年(慶長16年3月28日) – 豊臣秀頼が徳川家康の招きで上洛。二条城で会見する。
1857年 – インドでインド大反乱(セポイの乱)が起こる。時 1857年5月10日 – 1859年11月1日 場所 インド(cf. 1857)[1] 発端 東インド会社による様々な行動がインド兵(セポイ)の反乱を招き、それに東インド会社による統治に不満を持っていた民衆が合流 結果 イギリスの勝利、ムガル帝国の滅亡、東インド会社による統治の終焉、英王室の直接統治によるイギリス領インド帝国成立 領土の変化 東インド会社が消滅し、イギリス領インド帝国が成立損害 :インド側(兵士+民間人) 10万〜80万人 イギリス側(兵士+民間人) 約1万〜1.5万人
1871年 – フランスとプロイセン王国の間で「フランクフルト講和条約」調印。普仏戦争が終結。普仏戦争:戦争:普仏戦争
年月日:1870年7月19日 – 1871年5月10日
場所:フランス、ドイツ、カリブ海
結果:プロイセン側の勝利、フランクフルト講和条約の締結 フランス第二帝政の崩壊
フランス第三共和政の成立 プロイセン王国(北ドイツ連邦)へのフランス領アルザス=ロレーヌの割譲 ドイツ統一が起こる。ドイツ帝国の成立
損害:フランス軍 90万人中 戦死28万人 捕虜47万人 ドイツ軍120万人中 戦死13万人強。
1877年 – イキケ地震: Mw 8.7、死者2,400人 チリ北部で発生した巨大地震。

1952年 – 荒川放水路バラバラ殺人事件: 西新井橋から約1.7km上流、荒川放水路支流の入り江で、胴だけの男性の遺体を発見。被害者は警察官で、同年5月16日に妻が逮捕された[3]。

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1575年(天正3年4月2日) – 石山合戦: 石山本願寺の顕如が織田信長に反抗して再挙兵。石山合戦 年月日:元亀元年9月12日(1570年10月11日) – 天正8年8月2日(1580年9月10日) 場所:摂津国石山(大阪市中央区) 結果:石山本願寺と織田信長との講和 損害:石山本願寺軍 15000人強 2700人以上戦死 織田+九鬼軍 10000人中 僅少。

石山合戦(いしやまかっせん)は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦った。

1611年(慶長16年3月28日) – 豊臣秀頼が徳川家康の招きで上洛。二条城で会見する。
1857年 – インドでインド大反乱(セポイの乱)が起こる。時 1857年5月10日 – 1859年11月1日 場所 インド(cf. 1857)[1] 発端 東インド会社による様々な行動がインド兵(セポイ)の反乱を招き、それに東インド会社による統治に不満を持っていた民衆が合流 結果 イギリスの勝利、ムガル帝国の滅亡、東インド会社による統治の終焉、英王室の直接統治によるイギリス領インド帝国成立 領土の変化 東インド会社が消滅し、イギリス領インド帝国が成立損害 :インド側(兵士+民間人) 10万〜80万人 イギリス側(兵士+民間人) 約1万〜1.5万人

インド大反乱(インドだいはんらん、英: Indian Rebellion、Sepoy Mutiny)は、1857年から1858年の間にインドで起きたイギリスの植民地支配に対する反乱、民族的抵抗運動のことである。かつては「シパーヒーの乱」、「セポイの反乱」、「セポイの乱」と呼ばれたが、反乱参加者の出身・身分が多岐にわたり、インド社会全体に広がっていた事から、最近では「インド大反乱」と呼ばれる様になっている。

これらはいずれもイギリス側の呼称であり、独立したインド側からは「第一次インド独立戦争」(India’s First War of Independence)と呼ばれている

1871年 – フランスとプロイセン王国の間で「フランクフルト講和条約」調印。普仏戦争が終結。普仏戦争:戦争:普仏戦争
年月日:1870年7月19日 – 1871年5月10日
場所:フランス、ドイツ、カリブ海
結果:プロイセン側の勝利、フランクフルト講和条約の締結 フランス第二帝政の崩壊
フランス第三共和政の成立 プロイセン王国(北ドイツ連邦)へのフランス領アルザス=ロレーヌの割譲 ドイツ統一が起こる。ドイツ帝国の成立
損害:フランス軍 90万人中 戦死28万人 捕虜47万人 ドイツ軍120万人中 戦死13万人強。

普仏戦争(ふふつせんそう、独: Deutsch-Französischer Krieg、仏: Guerre franco-allemande de 1870)は、フランス第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランス帝国とプロイセン王国の間で行われた戦争である。

プロイセンは北ドイツ連邦のみならず、南ドイツのバーデン大公国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国と同盟を結び、フランスに圧勝した[1]。この戦争を契機に、すでに旧ドイツ連邦の解体で除外が濃厚となっていた議長国オーストリア帝国を除いたドイツ統一が達成され、フランス第二帝政は崩壊した。

1877年 – イキケ地震: Mw 8.7、死者2,400人 チリ北部で発生した巨大地震。
1952年 – 荒川放水路バラバラ殺人事件: 西新井橋から約1.7km上流、荒川放水路支流の入り江で、胴だけの男性の遺体を発見。被害者は警察官で、同年5月16日に妻が逮捕された[3]。

概要
1952年5月10日、東京都足立区にある荒川放水路(通称:日の丸プール)で、新聞紙にくるまれた胴体だけの男性遺体が浮かんでいるのを、近くで遊んでいた少女が発見。5日後には同じ放水路で頭部が、その翌日には両腕が発見された。

発見された頭部からモンタージュ写真が作成されると、被害者と思われる警察官の男性が捜査線上に浮上。そして、しばらく前に行方不明となっていた板橋警察署の巡査(当時28歳)とわかった。

5月17日、捜査により小学校教諭である被害者の妻(当時26歳)が事情聴取され、犯行を認めたため逮捕。妻の母親(当時51歳)も死体損壊に関わったとして逮捕された。

供述によると、酒好きで乱暴者の夫(多額の借金に加えて暴力団との交友関係があり、上司が素行を監視していたという)に常日頃から加害者である妻は暴力を振るわれており、犯行当夜も泥酔して帰宅した夫に意見したところ暴力を振るわれ、前途を悲観した妻は夫が寝入ったところを紐で絞殺。目を覚ました母親と共に遺体をバラバラにして荒川放水路に遺棄した。バラバラにしたのは遺体の処理を容易にするため。

10月(12月とする資料あり)、東京地裁において妻に懲役12年、妻の母親に懲役1年6月(4年とする資料あり)の判決が下された。ともに栃木刑務所に収監された。妻の母親は翌1953年病気のため獄死。

チャットgpt先生の5月10日のエッセイ

5月10日という日:記憶と歴史の交差点

5月10日。暦の上では何の変哲もない春の日だが、この日には静かに、しかし確かに、人類の営みの軌跡が刻まれている。

1575年のこの日、石山本願寺の顕如は再び織田信長に抗して兵を挙げた。石山合戦と呼ばれるこの戦は、信仰と権力がぶつかり合う十年にわたる消耗戦だった。本願寺は信仰を守るため、民を守るため、城郭化した寺に籠り、決して武士の世に容易に屈しなかった。この戦いの末、本願寺は講和に至るが、宗教と政治、民衆と権力のせめぎ合いは今も世界各地で続いている。歴史は、終わらぬ問いかけを繰り返す。

1611年、豊臣秀頼が徳川家康の招きで上洛し、二条城で会見した。戦国という乱世の後に訪れたこの和解の場面も、ただの儀式ではなく、滅びの予兆をはらんでいた。家康と秀頼。かつて天下を巡ってしのぎを削った家同士の、最後の邂逅。この日もまた、時代の大きな潮目のひとつだった。

1857年には、インドで「セポイの乱」、すなわちインド大反乱が勃発した。イギリスによる植民地支配に対する、兵士たちと民衆の広範な抵抗である。この日を「第一次インド独立戦争」として記憶するインドの視点は、勝者の記録が語らなかった歴史の重みを浮かび上がらせる。言葉が変われば、歴史の輪郭も変わる。語られるべきは、勝者だけの物語ではない。

1871年5月10日、ヨーロッパではフランクフルト講和条約が結ばれ、普仏戦争が終結した。戦争の結果、フランスはアルザス=ロレーヌを失い、プロイセンを中心にドイツが統一される。統一の代償は、フランス兵28万人の命と、47万人の捕虜だった。鉄と血による統一は、後の二度の世界大戦への伏線ともなる。国境線は地図に引かれる前に、血で引かれてきた。

そして1952年、東京・荒川放水路ではバラバラ殺人事件が起きた。この事件は、ただの凄惨な事件ではない。家庭という最も身近な共同体の中に潜む絶望、暴力、そして「普通の人」が抱える闇を浮かび上がらせた。加害者となった妻もまた、被害者だった。人の心の内にある悲しみや孤独は、数字や年表では計れない。

5月10日という一日には、権力と信仰の衝突も、家族という最小単位の崩壊も、独立への渇望も、国家の誕生もあった。どれもが、その時代に生きた人間たちが流した汗や涙、そして時に血で書かれた物語だ。

今日をただの春の一日として過ごすこともできる。だがその一方で、我々はこうした日々の連なりの上に立っている。歴史を思い起こすことは、今という瞬間に重みを与える行為だ。

だから、今日という日もまた、誰かにとっての歴史となる。何気ないこの5月10日が、未来の誰かの記憶に残る日になるかもしれない。私たちはその只中に生きている。