kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月6日 1937ゼッペリン ヒンデンブルグガス爆発、ほか写真wikipedi炎上する飛行船

5月6日
20250606火曜日旧暦4月9日赤口(乙亥きのといイツガイ)月齢 8.3
乙巳きのとみ年辛巳かのとみ月乙亥きのとい日 年末まではあと239日
吉方位 陽遁日 南西 大吉 西 吉
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5月6日の出来事
1542年 – フランシスコ・ザビエルがポルトガル領インドの首府ゴアに到達。
1757年 – 七年戦争: プラハの戦い。戦争:七年戦争 年月日:1757年5月6日 場所:現チェコ、プラハ城外 結果:プロイセンの勝利 損害:双方6万人強の軍にて プロイセン14000人死傷 オーストリア12000人死傷 5000人捕虜。
1935年 – 北海道赤平市の茂尻炭鉱でガス爆発事故。死者・行方不明者94人[1]。
1937年 – ドイツの飛行船ヒンデンブルク号爆発事故。乗員・乗客35人と地上の作業員1名、合計36名が死亡し多くの乗客が重傷を負った。
1945年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツで連合国向けプロパガンダ放送をしていた枢軸サリーことミルドレッド・エリザベス・シスクが最後の放送を行う。

1976年 – イタリアでフリウリ地震が発生。死者は990人だった

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1542年 – フランシスコ・ザビエルがポルトガル領インドの首府ゴアに到達。

フランシスコ・ザビエル(スペイン語: Francisco de Xavier または Francisco de Jasso y Azpilicueta, 1506年4月7日 – 1552年12月3日[1])は、スペインのナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人

ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。

当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。しかし、当初派遣される予定だったニコラス・ボバティリャとシモン・ロドリゲスのうち前者が出発直前に熱病にかかったため、急遽代わりの宣教師として、当時ロヨラの秘書で布教先が未定だったザビエルに白羽の矢が立った。ザビエルはインドに行くことを即座に承諾し、1540年3月15日に慌ただしくローマを出発した。ザビエルは先に出発していたシモン・ロドリゲスとともにポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)とともに1541年4月7日にリスボンを出発した(ちなみにこの日は彼の35歳の誕生日である)。8月にアフリカのモザンビークに到着、秋と冬を過して1542年2月に出発、5月6日ゴアに到着。そこを拠点にインド各地で宣教し、1545年9月にマラッカ、さらに1546年1月にはモルッカ諸島に行き宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に導いた。マラッカに戻り、1547年12月に出会った鹿児島出身の武士ヤジロウ(アンジロー〈音訳 安次郎〉)はザビエルに日本に来るようにすすめた。[4]

1757年 – 七年戦争: プラハの戦い。戦争:七年戦争 年月日:1757年5月6日 場所:現チェコ、プラハ城外 結果:プロイセンの勝利 損害:双方6万人強の軍にて プロイセン14000人死傷 オーストリア12000人死傷 5000人捕虜。

プラハの戦い(ドイツ語: die Schlacht von Prag, Schlacht bei Šterboholy, チェコ語: bitva u Štěrbohol, bitvou u Prahy)は、1757年5月6日にプラハ城外で行われた、七年戦争におけるプロイセン軍とオーストリア軍との会戦である。プロイセン軍が勝利した。

1935年 – 北海道赤平市の茂尻炭鉱でガス爆発事故。死者・行方不明者94人[1]。
1937年 – ドイツの飛行船ヒンデンブルク号爆発事故。乗員・乗客35人と地上の作業員1名、合計36名が死亡し多くの乗客が重傷を負った。

ヒンデンブルク号爆発事故(ヒンデンブルクごうばくはつじこ、Hindenburg Disaster)は、1937年5月6日にアメリカ合衆国ニュージャージー州マンチェスター・タウンシップにあるレイクハースト海軍飛行場で発生した、ドイツの硬式飛行船・LZ129 ヒンデンブルク号の爆発[1]・炎上事故を指す。

この事故で、乗員・乗客35人と地上の作業員1名、合計36名が死亡し多くの乗客が重傷を負った。映画、写真、ラジオなどの各メディアで広く報道されたことで、大型硬式飛行船の安全性に疑問が持たれ、飛行船時代に幕が降ろされるきっかけとなった。

1912年4月14日に起きたイギリスの豪華客船タイタニック号沈没事故、1986年1月28日に起きたアメリカのスペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故などとともに、20世紀の世界を揺るがせた大事故の一つとして知られている。

1969年に発売されたレッド・ツェッペリンのデビューアルバム『レッド・ツェッペリン I』、1989年に発売された井上陽水のシングル『最後のニュース』の各ジャケットには、当該爆発事故の写真が使用されているほか、『最後のニュース』の歌詞中には、この事故を想起させるフレーズが折り込まれている。

1945年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツで連合国向けプロパガンダ放送をしていた枢軸サリーことミルドレッド・エリザベス・シスクが最後の放送を行う。

枢軸サリー(すうじくサリー、Axis Sally、1900年11月29日 – 1988年6月25日)は、第二次世界大戦にドイツによって連合国向けに行われたプロパガンダ放送で、アナウンサーを務めた女性の、連合軍における通称である。本名はミルドレッド・エリザベス・シスク(Mildred Elizabeth Sisk)、あるいはミルドレッド・ギラース(Mildred Gillars)と言い、アメリカ・メイン州ポートランド出身である。

プロフィール

ミルドレッドは母の再婚に際して改名し、ニューヨークに移住。女優を夢見てオハイオ・ウェスリアン大学に入学し演劇を学んだが、挫折する。1935年、ドイツ・ベルリンの外国語学校で英語教師を務めた後、ベルリン放送に採用され、ナチス政権が崩壊するまでの間、女優・アナウンサーとしてナチスの宣伝活動に従事した。

その官能的なアナウンスは連合国軍の中でもよく知られた存在となり、彼女に「枢軸サリー」(Axis Sally、女性名である”Sally”には英語で「挑発」「からかい」も意味する)の異名を与えた。

彼女の有名な放送として、1944年5月11日、俗にD-Dayと呼ばれるノルマンディー上陸作戦の前に行われたラジオドラマが挙げられる。これはイギリス海峡の戦闘で息子を亡くす夢を見たアメリカ人の母親を描いたものである。その台詞には意味深なメッセージを込めてこうあった。

“The D of D-Day stands for doom… disaster… death… defeat… Dunkerque or Dieppe.”

「D-DayのD、それは運命、災難、死、敗北、ダンケルク、そしてディエップ・・・。」

戦後「枢軸サリー」は捕えられ、1948年アメリカに送還された。裁判で彼女は10件の容疑で反逆罪に問われた。このうち彼女は8つの訴因は否認した。検察側は「彼女がナチスに忠誠を誓うサインをし、国際赤十字の活動に従事するふりをして米兵の肉声を収集し、宣伝に活用した」と指摘した。これに対し弁護側は「彼女の放送は連合軍に否定的な内容であったが反逆罪を問うほどのものではない。ニューヨークの大学で知り合ったドイツ人の煽動に乗ったに過ぎない」と主張した。

特異なことに、彼女の裁判はわずか6週間を費やしただけで1949年3月8日に結審し、反逆罪としてはわずか1つの訴因のみ認められ懲役10年〜30年の判決を受けた。これは同様に反逆罪に問われ処刑された「ホーホー卿」ことウィリアム・ジョイスのケースとは好対照であった。

1959年に仮釈放が可能となったが、更に2年を経た後に釈放。その後は、オハイオ州コロンバスのカトリック学校で幼稚園児に音楽を教える傍ら、1973年には学位を取得するためにオハイオ・ウェスリアン大学に復学した。

1988年6月25日、老衰のため死去。87歳。

1976年 – イタリアでフリウリ地震が発生。死者は990人だった

チャットgpt先生の5月6日のエッセイ


5月6日という時間の記憶

5月6日——春の余韻が空に残る季節、そして暦の上では赤口という静けさを孕んだ一日。この日を静かに振り返ると、世界各地で起きた数々の出来事が、まるで時間の地層のように私たちの記憶に重なっていく。

1542年、ひとりの宣教師がインドのゴアに足を踏み入れた。名をフランシスコ・ザビエル。イエズス会の創設者の一人であり、その後、海を越えて日本にキリスト教を伝えた人物として歴史に名を残す。彼の足跡は、信仰の灯火というよりも、むしろ“対話”の始まりとして見ることができる。異なる文化、異なる価値観に飛び込んでゆく姿は、現代の我々が失いかけている“聞く力”の象徴かもしれない。

その200年余り後、1757年の同じ日、ヨーロッパでは七年戦争の激戦、プラハの戦いが繰り広げられていた。6万人以上の兵士がぶつかり合い、プロイセンとオーストリアの血がチェコの土に染み込んだ。力の均衡と野心がぶつかる場所に、人間の愚かさと強さの両方が浮かび上がる。地図の線は人の命によって引かれたことを、歴史はいつも静かに語っている。

そして近代。1937年、空を舞った巨大な夢——ヒンデンブルク号が火の玉となって落下する瞬間。36名の命とともに、飛行船という未来の一つが炎の中に消えた。あの黒煙が空に描いたのは、技術の限界と傲慢さへの警鐘だった。夢は時に空を飛ぶが、同時に、現実の重さに引き戻されることもある。

1945年には、ナチス・ドイツのプロパガンダ放送「枢軸サリー」が最後の声を電波に乗せた。甘く柔らかな声の裏側には、戦争という荒々しい現実が横たわっていた。声の力は、時に剣より鋭い。だが、その声をどう使うかは、話す者の覚悟にかかっている。戦後、彼女は裁かれた。だがその声が何を伝え、何を隠し、何を煽ったのか——それを判断するのは、歴史を聞く私たちの耳なのだ。

5月6日はまた、地震によって千近い命が奪われた1976年のイタリア・フリウリ地震の日でもある。自然は時に人の営みを容赦なく壊す。だが、瓦礫の中から立ち上がる人々の姿は、私たちに「再生」という言葉の重みを教えてくれる。

この日を貫くテーマは「破壊」と「再生」、あるいは「伝達」と「沈黙」だろうか。ザビエルの旅も、ヒンデンブルクの墜落も、プロパガンダの終焉も、そして揺れる大地も——すべては何かを伝え、残し、そして次の世代へと託していった。

私たちがこの日をただの「一日」として過ごすのか、それとも、過去からの静かな声に耳を傾けるのか。それを決めるのは、今この瞬間に生きる私たちの意志なのだ。