kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日5月1日 1898マニラ湾開戦ほか、写真wikipedia米艦隊対スペイン艦隊

5月1日
20250501木曜日旧暦4月4日先勝(庚午かのえうまコウゴ)月齢 3.3
乙巳きのとみ年庚辰かのえたつ月庚午かのえうま日  年末まであと244日
吉方位 陽遁日 庚午かのえうま 東 大吉 南東 大吉 出立時刻5時から7時
https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%881%E6%97%A5
5月1日の出来事
1557年(弘治3年4月3日) – 防長経略: 大内義長が毛利元就に攻められて自害し、大内氏が滅亡。
1837年(天保8年3月27日) – 大塩平八郎の乱: 大塩平八郎が自害。
1877年 – 佐野常民と大給恒が西南戦争負傷者の救護のために博愛社(日本赤十字社の前身)を創設[2]。
1898年 – 米西戦争: マニラ湾海戦。戦争:米西戦争 年月日:1898年5月1日 場所:フィリピン・マニラ湾 結果:アメリカ合衆国の完勝 損害:スペイン軍 死傷者381名、全艦喪失。

1945年 – ヒトラーの遺書によって前日にドイツ国首相に任命されたヨーゼフ・ゲッベルスが、愛児を殺害した後に妻マクダとともに自殺。

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1557年(弘治3年4月3日) – 防長経略: 大内義長が毛利元就に攻められて自害し、大内氏が滅亡。

防長経略と最期

功山寺墓地にある、大内義長の墓といわれる宝篋印塔
弘治元年(1555年)、晴賢が毛利元就との厳島の戦いで敗死すると、大内義興の外孫とはいえ外様出身で、一度解消された経緯のある養子だった義長の求心力は低く、ただでさえ晴賢の謀反やその他の内訌で弱体化していた家臣団は完全に崩壊し、大内家は急速に衰退していく。

義長は兄・義鎮に援軍を求めたが、義鎮は元就との間に大内領分割の密約を結んでいたために応じなかった。また義鎮は大内家の家督に興味を示さず、何ら野心の無い事を元就に約していたという[7]。

こうして後背の安全を得た毛利氏は防長経略で弘治3年(1557年)3月、山口へ侵攻。義長は寡兵をもってよく防戦したが、高嶺城を放棄し重臣・内藤隆世の長門且山城へ敗走した。しかし、すぐに毛利軍の福原貞俊により且山城を包囲され、隆世は義長の助命を条件に開城し、自刃した。義長も長門長福院(現在の功山寺)に入った後に毛利軍に囲まれて自刃を強要され、4月3日に陶鶴寿丸(晴賢の末子とされる)らと共に自害した[7]。享年26。辞世の句は「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」。

義長の死により、西国の名門大内氏は滅亡したが、後に大内輝弘が大友氏の支援を受けて周防に上陸し、大内氏再興を試みている(大内輝弘の乱)。また、早くから分かれた傍流の山口氏が江戸時代に大名として存続した。

1837年(天保8年3月27日) – 大塩平八郎の乱: 大塩平八郎が自害。
1877年 – 佐野常民と大給恒が西南戦争負傷者の救護のために博愛社(日本赤十字社の前身)を創設[2]。
1898年 – 米西戦争: マニラ湾海戦。戦争:米西戦争 年月日:1898年5月1日 場所:フィリピン・マニラ湾 結果:アメリカ合衆国の完勝 損害:スペイン軍 死傷者381名、全艦喪失。

マニラ湾海戦(マニラわんかいせん、Battle of Manila Bay, Batalla de Cavite)は、アメリカ合衆国とスペイン帝国が戦った米西戦争中に起きた海戦の一つ。フィリピン方面における艦隊決戦で、スペイン帝国の太平洋艦隊はこの戦いによって壊滅した。

1945年 – ヒトラーの遺書によって前日にドイツ国首相に任命されたヨーゼフ・ゲッベルスが、愛児を殺害した後に妻マクダとともに自殺。

ゲッベルス

パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(ドイツ語 : Paul Joseph Goebbels De-Paul Joseph Goebbels.oga 発音[ヘルプ/ファイル]、1897年10月29日 – 1945年5月1日)は、ドイツの政治家。

ナチ党政権下では国民啓蒙・宣伝大臣を務め、強制的同一化を推進した。

第一次世界大戦後に政治活動を開始し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)における左派の中心人物の一人となったが、その後はアドルフ・ヒトラーに接近し、第3代宣伝全国指導者を勤めてナチスのプロパガンダを積極的に広め、ナチ党の勢力拡大に貢献した。第二次世界大戦の敗戦の直前、ヒトラーの遺書(英語版)によってドイツ国首相に任命されるが、自らの意志でそれに背き、ヒトラーの後を追って家族とともに自殺した。

「ゲッペルス」は誤記。

マクダ・ゲッベルス

ヨハンナ・マリア・マクダレナ・ゲッベルス(Johanna Maria Magdalena Goebbels、1901年11月11日 – 1945年5月1日)は、ナチス・ドイツの宣伝相、ヨーゼフ・ゲッベルスの妻。

いわゆる第三帝国の掲げる理想を具現化した母親像として宣伝に加担した。第二次世界大戦の末期、ソビエト赤軍がベルリンに侵攻した際(ベルリン市街戦)、夫ヨーゼフとの間に生まれた6人の子供達を殺害し自殺した。

チャットgpt先生の5月1日のエッセイ
5月1日という日――崩壊と創造の狭間で

5月1日は、日本でも「メーデー」として知られる労働者の祭典の日であり、世界各地で自由や権利を叫ぶ声があがる一方で、歴史を振り返れば、この日は崩壊と創造という両極の出来事が交差する、非常に象徴的な一日でもある。

たとえば1557年、戦国時代の日本で一つの名門家が静かに幕を閉じた。大内義長が毛利元就に攻められ、わずか26年の生涯を終えたこの日、西国の名族「大内氏」が滅亡した。義長の辞世の句に「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」とある。嵐に散る花を恨まぬとする潔さ――それは、たとえ抗えぬ運命であっても、最期の美学を忘れぬ武士の魂を感じさせる。

その約280年後の1837年、大阪では元・役人であり陽明学者の大塩平八郎が蜂起したが、志を果たせずに自害した。時代の腐敗を憂い、民衆の飢えを見かねて立ち上がった男の悲劇もまた、この5月1日と重なっている。彼もまた、自らの命を懸けて変革を求めた者だった。

一方で、創造の火花もまた、5月1日に散っている。1877年、西南戦争のさなか、佐野常民と大給恒が設立した「博愛社」は、のちの日本赤十字社の前身となり、人の命を救うための組織として根を下ろしていく。戦乱のさなかに芽吹いたこの団体は、「人道」という普遍的な価値の象徴であり、苦しみに対する希望の灯であった。

国外に目を向ければ、1898年のこの日、マニラ湾で米西戦争の決定的な海戦が起こり、アメリカが圧倒的勝利を収めた。世界史の中で帝国の勢力図が塗り替えられた瞬間であり、同時にフィリピンという国にとっては新たな支配の始まりでもあった。勝者と敗者の物語は、いつも一枚の紙の裏表のように隣り合わせである。

そして、1945年――ヨーロッパで第二次世界大戦が終焉を迎えようとしていた中、ベルリンではナチスの幹部ヨーゼフ・ゲッベルスが、妻マクダとともに6人の子どもを道連れに自害した。この日の出来事は、狂気と絶望の最たる形であり、「理念」と称した歪んだ理想の終焉であった。

こうして5月1日を見渡すと、不思議なことに、命が散る日でありながらも、新しい何かが生まれる日でもあることに気づかされる。武士の滅び、義士の死、戦火の中の人道、帝国の崩壊、そして狂信の終焉――いずれも歴史の転換点であり、何かが壊れ、そして何かが始まっている。

現代に生きる私たちは、この日を「ただの祝日」として過ごすかもしれない。けれど、そんな静かな一日の背後には、幾多の命の選択と、時代の波に抗う者たちの足跡がある。5月1日――それは、歴史が息づく、深く静かな節目の日なのだ。