4月28日
20250428月曜日旧暦4月1日仏滅(戊辰つちのえたつボシン)月齢 0.3
乙巳きのとみ年庚辰かのえたつ月戊辰つちのえたつ日 年末まではあと247日
吉方位 陽遁日
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4月28日の出来事
1708年(宝永5年3月8日) – 京都で大火(宝永の大火)。約1万4,000軒が焼失。
1916年 – 八幡製鐵所の上水道貯水池(下大谷貯水池)が崩壊。死者・行方不明者13人以上、浸水家屋約1500戸[2]。
1996年 – ポートアーサー事件。オーストラリア・タスマニア州の観光地ポート・アーサーで男が無差別に発砲し、35人が死亡。
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1708年(宝永5年3月8日) – 京都で大火(宝永の大火)。約1万4,000軒が焼失。
宝永の大火(ほうえいの たいか)とは、宝永5年3月8日(1708年4月28日)に、京都で発生した火災。
内容
午の下刻に油小路通三条上ルの銭屋市兵衛宅より出火、南西の風に煽られて被害が拡大し、禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が悉く炎上、九条家・鷹司家をはじめとする公家の邸宅、寺院・町屋など、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた上京を中心とした417ヶ町、10351軒、佛光寺や下鴨神社などの諸寺社などを焼いた。
火災後、「見渡せば京も田舎となりにけり芦の仮屋の春の夕暮」と書かれた落首が市中に貼られた(『元禄宝永珍話』)。火災後、一部の町及び民家が鴨川の東や内野などの郊外に移され、千本通の西側や鴨川の東側まで京都の市街が拡大され、現代に観念される歴史的街並みが形成される契機となった[1][2]。たとえば、二条川東はこの大火後に形成された町と寺院が集まる地域である。
1916年 – 八幡製鐵所の上水道貯水池(下大谷貯水池)が崩壊。死者・行方不明者13人以上、浸水家屋約1500戸[2]。
1996年 – ポートアーサー事件。オーストラリア・タスマニア州の観光地ポート・アーサーで男が無差別に発砲し、35人が死亡。
ポートアーサー事件 (ポートアーサーじけん、The Port Arthur Massacre) とは、1996年4月28日にオーストラリア・タスマニア島の観光地、ポート・アーサーで起こった大量殺人事件である。犯人はマーティン・ブライアント(英語版)で、死者35人、負傷者15人を出した。
概要
1996年4月28日(日曜日)の午後1時半頃に、最初の事件現場となったカフェにマーティン・ブライアントが車に乗って訪れ、当初は外のテーブルに座ってランチを注文して食べていた。食事が終わると店の客に対し「白人ばっかりだ、ジャップは少ないな」と言うと、店内に入り黒いスポーツバッグからAR-15アサルトライフルを取り出して無差別に発砲。わずか90秒の間に20人の死者と12人の重軽傷者を出した。
すぐにブライアントはカフェの駐車場に向かって発砲し、観光バスの運転手や乗客を射殺。さらに別のライフルに持ち替え、自分の車を運転しながら通行人を次々に射殺。そして数百メートル離れたガソリンスタンドに到着するや、そこにいたカップルの女性を射殺し、相手の男性を車のトランクに押し込めて再び運転した。コテージに到着したブライアントは男性を車のトランクから引きずり出して車に火をつけた後、男性と共にコテージに立てこもった。
数百人の警察とマスコミ、野次馬がコテージを取り囲んでいたが、コテージのオーナー夫妻やガソリンスタンドから連れ出された男性の情報が掴めず、コードレスホンの電池切れでブライアントからの連絡はすぐに途絶えた。また、建物の周囲が遮蔽物のまったく無い広い芝生だったこと、コテージの主人が銃のコレクターで屋内には多数の武器があること、電波状態が悪くてスナイパーと指揮所の連絡ができなかったことなどの理由で特殊部隊の突入も見送られ、一夜が過ぎた。
事件の翌朝、コテージから出火するや、ブライアントが飛び出してきて、すぐに取り押さえられた。焼け跡から、オーナー夫妻、ガソリンスタンドから連れ出された男性の遺体が発見された。後にオーナー夫妻とブライアントが知り合いで、彼がカフェに向かう途中ですでに夫妻を射殺していたことが判明した。
チャットgpt先生の4月28日のエッセイ
4月28日という日をめぐるエッセイ
――時代を越えて燃え、崩れ、撃たれた日
春の風がやわらかく吹く4月28日。桜の季節が終わり、初夏の気配がにじみ始めるこの日、人の営みは静かに流れているようでいて、歴史のページをめくると、ときに激しく、悲しみに満ちていた瞬間が姿を現す。
1708年、江戸時代中期。宝永5年3月8日――現在の暦でいえば4月28日。京都の町が、ひとつの火種から瞬く間に炎の海となった。「宝永の大火」。その名の通り、火は禁裏御所、仙洞御所、公家の邸宅、寺社、町屋を呑み込み、1万軒を超える家々を焼き尽くした。人々の暮らしも、誇りも、思い出も、春の空へと煙と化して消えていった。
火災の後に貼られた落首――「見渡せば京も田舎となりにけり芦の仮屋の春の夕暮」――には、都人の心情が滲んでいる。栄華を誇った京の都が、まるで芦の仮屋(あばら家)のようになったという自嘲と悲哀。その大火は、破壊と共に再生をもたらし、京都の街並みを新たに形作るきっかけにもなった。炎はすべてを壊したが、同時に未来へ向けた布石でもあったのだ。
時を進めて1916年。場所は九州・八幡製鐵所の貯水池、下大谷貯水池。突如として水の壁が崩れ、人々の暮らす町を襲った。13人以上が命を落とし、家々が水に飲まれた。水は命を支える一方で、一度その制御を失えば、災厄となって人を試す。鉄を生み出す都市の心臓部で、自然の力と人間の技術の限界が、あらためて突きつけられた日でもあった。
そして現代、1996年。オーストラリア・タスマニア州ポート・アーサー。観光地の静けさを破ったのは、1人の男による無差別大量殺人だった。銃声が響いたのは、午後1時半過ぎのカフェ。そこには普通にランチを楽しんでいた人々がいた。90秒の間に20人が命を落とすという惨劇は、言葉を失わせる。
ポートアーサー事件は、その後のオーストラリアの銃規制を根本から変えた。暴力がどれほど人間社会を揺るがし、どのように社会の意識を変えるのか。それを痛ましい形で突きつけた日でもあった。
火、そして水、そして銃。異なる時代、異なる土地で、4月28日は人間の弱さと、社会の脆さ、そして再生の可能性を示してきた。破壊は一瞬にして起こる。だが、その後に何を築くかが、人間の本質を問うのだろう。
247日後にはまた新しい年が来る。けれど、こうした過去を背負って私たちは今日を生き、未来へと歩いていく。歴史とは、決して遠いものではなく、まさに「今」へと繋がる、ひとつの物語の連なりなのだ。