4月22日
20250422火曜日旧暦3月25日先負(辛酉かのととりシンユウ)月齢 23.6
乙巳きのとみ年庚辰かのえたつ月辛酉かのととり日 年末まではあと253日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8822%E6%97%A5
4月22日の出来事
1212年(建暦2年3月30日) – 鴨長明が『方丈記』を書き上げる。
1997年 – ペルー日本大使公邸占拠事件: 大使公邸に軍・警察が突入。立て籠っていたゲリラは全員射殺。軍人2人とペルーの政府高官1人が死亡。17人死亡。
2016年 – 新名神高速道路有馬川橋橋桁落下事故が発生。死亡2名負傷8名。
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1212年(建暦2年3月30日) – 鴨長明が『方丈記』を書き上げる。
概要
方丈庵(復元)
下鴨神社(京都市左京区)境内の河合神社に展示。
晩年に長明は、京の郊外・日野(日野岳とも表記、現在の京都府京都市伏見区)に一丈四方(方丈)の小庵をむすび隠棲した。庵に住みつつ当時の世間を観察し書き記した記録であることから、自ら「方丈記」と名づけた。
末尾に「于時建暦ノフタトセ、ヤヨヒノツコモリコロ、桑門ノ蓮胤、トヤマノイホリニシテ、コレヲシルス」(大福光寺本)とあることから、1212年(建暦2年)3月末日に記されたとされる。現存する最古の写本は、大福光寺(京都府京丹波町)が所蔵する大福光寺本である。これを自筆本とする見解[2]、誤字・脱字や諸本との関係より自筆ではないとする見解[3] が分かれている。
漢字と仮名の混ざった和漢混淆文で記述された最初の優れた文芸作品であり、詠嘆表現や対句表現を多用し、漢文の語法、歌語、仏教用語を織り交ぜる。慶滋保胤『池亭記』を手本としていることが指摘されており、かつてはこれを根拠の一として偽書説も唱えられていた。隠棲文学の祖や、無常観の文学とも言われ、乱世をいかに生きるかという自伝的な人生論ともされる。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の書き出しで移り行くもののはかなさを語った後、同時代の災厄についての記述が続き、後半は草庵での生活が語られる。さらに末尾では自身の草庵の生活に愛着を抱くことさえも悟りへの妨げとして否定的な見解を述べている。
書きだしは以下のとおりである。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
1997年 – ペルー日本大使公邸占拠事件: 大使公邸に軍・警察が突入。立て籠っていたゲリラは全員射殺。軍人2人とペルーの政府高官1人が死亡。17人死亡。
在ペルー日本大使公邸占拠事件(ざいペルーにほんたいしこうていせんきょじけん)は、1996年(平成8年)12月17日(現地時間)に、ペルーの首都リマで起きた左翼ゲリラによる駐ペルー日本国大使公邸占拠事件。1997年(平成9年)4月22日、ペルー軍特殊部隊が突入し、人質が解放されて終結するまで4ヵ月以上に及んだ[1]。在ペルー日本大使公邸人質事件ともいう。
攻撃側人数 14名
武器 拳銃、自動小銃、手榴弾など
死亡者 17名(人質1名、兵士2名、犯人14名)
負傷者 8名
殉職した特殊部隊兵士のバレル中佐とヒメネス中尉には、マスコミや市民団体を経由して日本から義捐金が寄せられた。また、脱出時に負傷し車椅子を使うことになった青木大使は、事件直後は代理人を葬儀に参列させたものの、犠牲になった兵士たちとカルロス・ジュスティ最高裁判事の墓前に向かい冥福を祈った。その後、ペルーを訪れる日本の国務大臣は、必ず3名の墓前を訪れている。
移転後の在ペルー日本国大使館(2012年)
大使公邸は同じサン・イシドロ地区の別の場所に移転した。新公邸は二重の塀に四方の監視塔、防弾仕様のゲートなどセキュリティーが大幅に強化されており、事件当時のようなパーティーやレセプションもほとんど行われなくなった。事件現場となった旧公邸は取り壊され、2011年に地元の不動産業者に売却された[7]が、2022年現在も更地のままである。なお、外周の塀と扉はそのまま残されており、事件当時の弾痕が確認できる。突入訓練用に建造された大使公邸の実物大レプリカは事件後も保存されており、「チャビン・デ・ワンタル博物館」として事件の資料が展示されている。
フジモリ大統領が下した突入の決断に対し、日本をはじめとする世界各国は大きな賛辞を贈った。しかし、後日、投降したMRTAメンバーを超法規的殺人により処刑した疑惑が浮上し、フジモリ大統領も訴追された。
2000年(平成12年)11月19日 – フジモリ大統領がペルー国内の反政府運動を受け辞任。日本に事実上の亡命。
2001年(平成13年)3月 – MRTAメンバーの墓を発掘し再検死。
2002年(平成14年)5月 – 特殊部隊の指揮官ら12名に殺人容疑で逮捕状。13日、うち1名を拘束。
2003年(平成15年)3月 – ペルー政府からの要請を受けた国際刑事警察機構が、フジモリ元大統領を人道犯罪容疑で国際手配。日本政府は身柄引き渡しを拒否。
2003年(平成15年)5月27日 – ペルー政府の嘱託を受けた東京地方裁判所が、MRTAメンバーの生存中の拘束を目撃していた元人質(当時の日本大使館一等書記官)を証人尋問。
詳細は「アルベルト・フジモリ」を参照
この事件によりペルー国内だけでなく世界各国から非難を浴びたMRTAは、主要メンバーの大半をこの事件により喪失しただけでなく、国内外からの支援も途絶え、事実上の壊滅状態に追い込まれた[注釈 2]。
2007年(平成19年)4月21日には、禁固32年の刑で服役中の指導者ビクトル・ポライは事件の武力解決10周年を期に共同通信へ書簡を寄せ、自らの武力革命路線の敗北を認め武闘路線の放棄を表明した。
本事件では、テロリストが人質に対して次第に同情的になり、本来、危険が迫れば処刑する予定だった人質を殺害できず、大半の人質が生還した。以上のことから、人質が犯人側に同情的になるストックホルム症候群の逆パターンとして、事件現場の地名にちなみリマ症候群という心理学用語が生まれた。
2016年 – 新名神高速道路有馬川橋橋桁落下事故が発生。死亡2名負傷8名。
新名神高速道路有馬川橋橋桁落下事故(しんめいしんこうそくどうろ ありまがわはしはしげたらっかじこ)は、2016年4月22日に、建設中の新名神高速道路の工事現場で、橋桁が落下し、建設作業員10名が死傷した事故である[1]。
チャットgpt先生の4月22日のエッセイ
4月22日という日は、歴史においてさまざまな出来事が刻まれた日である。時代を超えた文学の誕生もあれば、国際社会を揺るがせた事件もあり、また建設の現場で悲劇が起こることもあった。これらの出来事を通じて、無常と変化の中で人々がどのように生きてきたのかを考えさせられる。
1212年のこの日、鴨長明が『方丈記』を書き上げた。『方丈記』は、日本文学史において無常観を描いた代表的な作品であり、その冒頭の「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」は、変わりゆく世の中の本質を簡潔に示している。長明は京の都の外れに小さな庵を結び、世の移り変わりや天災の記録、そして自身の孤独な生活を綴った。彼の言葉は800年以上経った今でも多くの人々の心に響き、日々の生活の儚さや人間の営みの脆さを改めて思い起こさせる。
それから785年後の1997年、この日はペルー日本大使公邸占拠事件の最終局面を迎えた日でもある。ペルー・リマの日本大使公邸が左翼ゲリラによって占拠され、4か月以上に及ぶ緊迫した状況の末、特殊部隊の突入によって事件は幕を閉じた。この突入作戦は世界的に評価される一方、ゲリラ全員を射殺したという点において人権問題が指摘され、後の国際政治に影響を及ぼした。さらに、この事件が「リマ症候群」という心理学用語を生み出したことも興味深い。犯人側が人質に対して同情的になるという現象は、人間の心理の複雑さを物語る。
そして2016年、4月22日には新名神高速道路有馬川橋の建設現場で橋桁が落下する事故が発生し、2名が命を落とし、8名が負傷するという痛ましい出来事があった。インフラの発展を支える建設作業員たちの尊い命が、現場の安全管理の問題によって奪われてしまった。この事故は、技術の進歩とともに安全対策がいかに重要であるかを改めて社会に問いかけるものとなった。
4月22日は、文学の永遠性と、社会の中で繰り返される争いや災害の儚さ、そして人間の営みの危うさを思い出させる日である。過去の出来事を振り返ることで、私たちは今をどう生きるべきか、どのように未来を築くべきかを考えることができる。歴史はただの記録ではなく、現在を生きる私たちに問いを投げかける鏡のような存在なのかもしれない。