3月28日
20250328金曜日旧暦2月29日赤口(丙申ひのえさるヘイシン)月齢 28
乙巳きのとみ年己卯つちのとう月丙申ひのえさる日 年末まであと278日
吉方位 陽遁日
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3月28日の出来事
1876年 – 日本の明治政府が廃刀令を発布。
1894年 – 金玉均が上海で朝鮮政府の刺客により暗殺される。生誕1851年2月23日 朝鮮国・忠清南道公州 死没 1894年3月28日(43歳没)暗殺
1961年 – 名張毒ぶどう酒事件。名張毒ぶどう酒事件(なばりどくぶどうしゅじけん)とは、1961年(昭和36年)3月28日の夜に三重県名張市葛尾(くずお)地区の公民館で発生した大量殺人事件。
名張市の実質飛地と隣接する奈良県山辺郡山添村にまたがる集落の懇親会酒席で振る舞われたワイン(ぶどう酒)に毒物(農薬・ニッカリンT)が混入され、そのワインを飲んだ女性17人が中毒症状を起こして5人が死亡した。
2005年 – スマトラ島沖地震。死亡2000人以上。
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1876年 – 日本の明治政府が廃刀令を発布。
大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件(たいれいふくならびにぐんじんけいさつかんりとうせいふくちゃくようのほかたいとうきんしのけん、明治9年太政官布告第38号)は、1876年(明治9年)3月28日に発せられた、大礼服着用者・勤務中の軍人や警察官吏以外は刀を身に付ける(=武装する)ことを禁じる内容の太政官布告。
すでに明治2年(1869年)頃から廃刀の議論は行われていた。明治2年(1869年)3月に公議所が開かれたとき、制度寮撰修森有礼は佩刀禁止を提議した。「早く蛮風を除くべし」というものであったが、王政復古から間もない頃であったため公議人らは反対し、「廃刀をもって精神を削ぎ、皇国の元気を消滅させるといけない」として否決され、森は退職を命じられた。明治3年(1870年)には一般に禁止し、明治4年8月9日(1871年9月23日)には帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発していた。そして、1876年(明治9年)3月28日、廃刀令を発布した。
発布の直接の因となったのは、1875年(明治8年)12月山縣有朋の建議が採用されたことである。長文の建議であるが、要するに、「従来帯びていたのは倒敵護身を目的としたが、今や国民皆兵の令が敷かれ、巡査の制が設けられ、個人が刀を佩びる必要は認められないので、速やかに廃刀の令を出して武士の虚号と殺伐の余風を除かれたい」というものだった。
反発
禁止されたのは帯刀であって、所持または所有そのものが禁止されたわけではない。しかしながら、帯刀はもともと実戦的武備というよりは武士の身分の証明としての意味合いが大きく、それを否定する事は、実質的な特権の否定であり、徴兵令および秩禄処分とともに一つのアイデンティティーが否定されることを意味していた。廃刀令に反発した者は、刀を袋の中に入れて持ち歩いたり、「差さなければいいのだろう」と刀を肩に担いで歩いたりした。また、一部はこの廃刀令を含めた四民平等政策に反発し、士族反乱を起こした。
法令の沿革
その後、銃砲等所持禁止令(昭和21年勅令第300号)の施行により刀剣類の所持が禁止されたことで、本太政官布告は実効性を喪失した。さらに、1954年(昭和29年)、その時点において既に実効性を喪失していると判断した政府は、内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律(昭和29年法律第203号)第4号により、1954年(昭和29年)7月1日をもって本太政官布告を廃止した。
撃剣興行
概要
明治維新による改革(廃藩置県、秩禄処分、散髪脱刀令及び廃刀令)によって生活は困窮していった者がいた。特に西洋軍制の導入によって活躍の場を失った剣術指導を行っていた者は以前の職務を生活の糧に転じさせる術がなく深刻なものがあった。
これを憂えた旧江戸幕府の講武所剣術教授方(師範)であった榊原鍵吉は相撲興行を参考にして剣術を興行として、その木戸銭で収入を得させることを考案、東京府知事・大久保一翁もこれに賛同して、1873年(明治6年)4月[注釈 1]。から10日間、東京浅草の左衛門河岸(現在の浅草橋駅西方)にて初めての撃剣興行を行った。来客は満員御礼を超えた。
1894年 – 金玉均が上海で朝鮮政府の刺客により暗殺される。生誕1851年2月23日 朝鮮国・忠清南道公州 死没 1894年3月28日(43歳没)暗殺
金 玉均(キム・オッキュン、きん ぎょくきん、김옥균、1851年2月23日〈旧暦1月23日〉 – 1894年3月28日)は、李氏朝鮮後期の政治家で、朝鮮独立党の指導者。李氏朝鮮時代の思想家[1]。字は伯温(ペゴン、백온)、号は古愚(コウ、고우)。本貫は新安東金氏。開明派(開化派)として知られ、朝鮮半島として初の諸外国への留学生の派遣や『漢城旬報』の創刊発行に協力した。
洪鐘宇に殺害される金玉均
当時の日本政府の政治的立場から、東京や札幌、栃木県佐野や小笠原諸島[4]などを転々とした後、李経方(李鴻章の甥で養子、日本清国公使官)と李鴻章に会うため松江府上海県に渡ったが、1894年3月28日に上海の東和洋行ホテルで朝鮮末期の高官の洪鐘宇[5]に回転式拳銃で射殺された。
金玉均の死体は大清帝国政府により、軍艦咸靖号で本国大朝鮮国に運ばれて死後に死刑宣告され、凌遅刑に処されたうえで四肢を八つ裂きにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及び片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された[注釈 2]。
没後の周辺
金玉均や朝鮮の文明開化による自立を支援してきた福沢諭吉は1885年(明治18年)2月23日と2月26日の論説に、「朝鮮独立党の処刑(前・後)」という論説では、李氏朝鮮が凌遅刑という残忍な方法で甲申政変後に金玉均ら開化派の三親等の一族処刑して遺体を晒し者にした報を聞いて、朝鮮の体制を激しく非難し、金玉均ら朝鮮開化派の死を涙している。
1961年 – 名張毒ぶどう酒事件。名張毒ぶどう酒事件(なばりどくぶどうしゅじけん)とは、1961年(昭和36年)3月28日の夜に三重県名張市葛尾(くずお)地区の公民館で発生した大量殺人事件。
名張市の実質飛地と隣接する奈良県山辺郡山添村にまたがる集落の懇親会酒席で振る舞われたワイン(ぶどう酒)に毒物(農薬・ニッカリンT)が混入され、そのワインを飲んだ女性17人が中毒症状を起こして5人が死亡した。
2005年 – スマトラ島沖地震。死亡2000人以上。
チャットgpt先生の3月28日のエッセイ
3月28日は、歴史の大きな転換点となる出来事が数多く起こった日である。戦争の開戦、法律の制定、暗殺事件、大規模な自然災害など、多岐にわたる出来事がこの日に重なっている。
1854年、イギリスとフランスがロシア帝国に宣戦布告し、クリミア戦争が開戦した。この戦争はヨーロッパの勢力バランスを大きく変える要因となり、戦場における看護の重要性を訴えたフローレンス・ナイチンゲールの活躍も記憶に残る。また、近代戦争の先駆けともいえる技術的・戦術的変化が見られた戦争であり、その影響は世界各地に及んだ。
日本においては、1876年に廃刀令が発布された。これは明治政府の四民平等政策の一環であり、武士階級の象徴であった刀を帯びることを禁止する内容であった。この法令は武士の特権の否定を意味し、多くの反発を生んだ。しかし同時に、徴兵制度の導入による国民皆兵の体制が確立し、日本の近代国家としての歩みが一層加速した。
1894年、朝鮮独立派の指導者である金玉均が上海で暗殺された。金玉均は開化派として朝鮮の近代化を目指したが、清国との関係を重視する保守派にとっては危険な存在であった。その死後、彼の遺体は残酷な仕打ちを受け、その扱いは当時の朝鮮政治の冷酷さを象徴するものとなった。この事件は、日本や清国、そして朝鮮の間で進行していた政治的駆け引きの一端でもあり、やがて日清戦争の引き金の一つとなった。
1961年には、日本で名張毒ぶどう酒事件が発生した。懇親会の場で振る舞われたワインに毒物が混入され、5人が死亡、17人が中毒症状を引き起こした。この事件は、日本の犯罪史において未解決の問題を多く残すものであり、裁判の長期化や冤罪の可能性など、法制度の課題を浮き彫りにした。
そして2005年、スマトラ島沖地震が発生し、2000人以上の尊い命が失われた。インドネシア周辺は地震活動が活発な地域であり、度重なる地震と津波の被害を受けてきた。災害に対する備えの重要性が改めて認識され、国際的な救援活動や防災意識の向上につながった。
こうして3月28日は、戦争、政治、犯罪、自然災害と、多様な出来事が交錯する日である。過去の出来事を振り返ることで、現在の世界がどのような経緯を経て形作られたのかを考える機会となる。この日を迎えるたびに、歴史の教訓を忘れず、より良い未来を築くために何ができるのかを考えたい。