kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月27日 1904軍神広瀬武夫殉職被弾死ほか、写真wikipedia杉野を捜索する広瀬達

3月27日
20250327木曜日旧暦2月28日大安(乙未きのとひつじイツビ)月齢 27
乙巳きのとみ年己卯つちのとう月乙未きのとひつじ日  年末まであと279日
吉方位 陽遁日
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3月27日の出来事
1581年(天正9年2月23日) – イエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが黒人弥助同道で織田信長に謁見する。
1904年 – 日露戦争: 第二回旅順口閉塞作戦。広瀬武夫海軍中佐が戦死。
1927年 – 福島県内郷町の内郷炭坑町田立坑で坑内火災が発生。救助隊の二次災害による被害も含め死者131人[3][4]。
1964年 – アラスカ地震。聖金曜日地震 死亡131人。
1977年 – テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故。583名が死亡。
2017年 – 栃木県の那須で登山講習中だった県立大田原高校山岳部の高校生7名と顧問の教諭1名が、雪崩に巻き込まれて死亡した[12]。

2021年 – 同年2月にクーデターで実権を握った国軍への抗議が続くミャンマーで、デモに参加した市民十数人が治安部隊に殺害された。死者数は、少なくとも91人以上と見られ、クーデター開始以降で最大[13]。

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1581年(天正9年2月23日) – イエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが黒人弥助同道で織田信長に謁見する。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
イエズス会入会まで

1539年、イタリア・ナポリ王国のキエーティで名門貴族の家に生まれたヴァリニャーノは、名門パドヴァ大学で法学を学んだ後、キエーティの司教をつとめた関係でヴァリニャーノ家と親交のあった教皇パウルス4世に引き立てられてローマで働くことになった。パウルス4世の後継者ピウス4世もヴャリニャーノの才能を評価し、より重要な任務につかせようとした。ヴァリニャーノはこれに応えて聖職者となることを決意し、パドヴァ大学で神学を学ぶと1566年にイエズス会に入会した。入会後に哲学を深めるため、ローマ学院で学んだが、この時の学友に後のイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァ (Claudio Acquaviva) がいた。

ヴァリニャーノは巡察師として日本各地を訪れ、大友宗麟・高山右近・織田信長らと謁見している。1581年、織田信長に謁見した際には、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)を贈られ、屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されたが、現在に到るも、その存在は確認されておらず、行方不明のままである。また、従者として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したためこれを献上し、弥助と名づけられて信長の直臣になっている。

再来日と晩年

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1599年)

1590年(天正18年)の2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われた。このときは1591年(天正19年)に聚楽第で豊臣秀吉に謁見している。また、日本で初めての活版印刷機を導入、後に「キリシタン版」とよばれる書物の印刷を行っている。1598年(慶長3年)、最後の来日では日本布教における先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会などの間に起きていた対立問題の解決を目指した。

1603年(慶長8年)に最後の巡察を終えて日本を去り、3年後にマカオでその生涯を終えた。聖ポール天主堂の地下聖堂に埋葬されたが、その後天主堂の焼失・荒廃により地下聖堂ごと所在不明となった。しかし1990年から1995年の発掘により発見され、現在は博物館として観光用に整備されている。

黒人弥助

生い立ち

『南蛮屏風』(狩野内膳画)。黒人の召使が描かれている。

日本に到来したイエズス会宣教師たち。彼らに付き従う黒人の召使が描かれている。

左側の力士は、黒い肌に髷を結っていないざんばら髪、高い鼻など、明らかにそれ以外の人物とは異なる人種的特徴で描かれている。相撲遊楽図屏風の一部(堺市博物館所蔵)

弥助の出自については、フランソワ・ソリエが1627年に記した『日本教会史』第一巻に記述がある。イエズス会のイタリア人巡察師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した際、インドから連れてきた使用人[4]で、出身地はポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)であると記されている[5]。

戦国時代、ポルトガルやスペインなどヨーロッパ人が日本を訪れるようになり、アフリカ出身の者たちも、従者または奴隷として連れてこられていた。その数は決して少ないものではなく、弥助もそのような一人で宣教師の護衛をしていたとされる。護衛として武術の訓練も受けていたと見られるため解放奴隷や自由人との説もあり見解が分れている[6][1][2]。

日本へ

天正9年2月23日(1581年3月27日)に、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れていた[8]。『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26歳 – 27歳ほどで、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と描写されている[9]。

天正9年3月11日(1581年4月14日)付でルイス・フロイスがイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して喧嘩、投石が起き、重傷者が出るほどだった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという[4][注釈 3][10][8]。

本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにしたと、イエズス会日本年報にあり、信長は弥助を気に入って、ゆくゆくは殿(城主)にしようとしていたという[11]。また、金子拓によると、『信長公記』の筆者である太田牛一末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本(尊経閣文庫所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と腰刀を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述があるという[12]。

『家忠日記』の天正10年4月19日(1582年5月11日)付けの記述には「上様[注釈 4]御ふち候、大うす(デウス)進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云(信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈されたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ)」とその容貌が記述されている[13]。これは弥助も従軍していた甲州征伐からの帰還途上に、信長が徳川領を通った時に家康の家臣である松平家忠が目撃したものであるが、日記の記述に弥助は下人や年季奉公人のような隷民ではなく扶持もちの士分であったとはっきり書かれている。

本能寺の変

天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇すると、二条新御所に行って異変を知らせ、信長の後継者の織田信忠を守るため明智軍と戦った末に投降して捕縛された。『イエズス会日本年報』によると、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」という[8]。

家臣に、弥助をどう処分するかを聞かれた光秀は、「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑させずに、「インドのパードレ[注釈 5]の聖堂に置け」と言った。このため弥助は南蛮寺に送られて命拾いした[8][11]。この光秀の発言については、黒人の弥助に対する差別意識の表れだったとする説と、弥助に情けをかけて命を助けるための方便だったとする説があるが、真相は不明である。

信長のデスマスク

愛知県瀬戸市定光寺町の西山自然歴史博物館には、信長と伝わるデスマスクが展示されている[14](信長であるという確証はない)。織田秀信の庶子を称したという織田秀朝(西山清明)の末孫を主張する[15]西山館長によれば、弥助という黒人の家臣が持ち出した信長の首から作られたという。
1904年 – 日露戦争: 第二回旅順口閉塞作戦。広瀬武夫海軍中佐が戦死。

広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体:廣瀨武夫、1868年7月16日(慶応4年5月27日) – 1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人、柔道家。日露戦争でのエピソード(後述)で知られており、特に戦前は軍神として神格化された。兄の勝比古も海軍軍人である。
日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には1935年(昭和10年)に岡田啓介(当時の内閣総理大臣)らと地元の黒川健士ほか数百名の手により広瀬を祀る広瀬神社が創建された。また文部省唱歌の題材にもなる。また、直撃を受けた際、近くにいた兵のそばを飛び散った肉片がかすめていった。その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が靖国神社遊就館に奉納されており、時折展示されている。また、広瀬が戦死した際に所持していた血染めの海図が、朝日の乗員から講道館に寄贈され、その後も講道館2階の柔道殿堂に展示されている。嘉納治五郎は、広瀬の才能を高く評価していた。広瀬の戦死の報が伝えられた時、嘉納は人目もはばからず「男泣きに泣いた」という。
1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた。広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。35歳だった。即日中佐に昇進した。
海軍中佐廣瀬君之大偉勲、廣瀬美邦画
5日後、広瀬の遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるところをロシア軍によって発見された。戦争中であったが、ロシア軍は栄誉礼をもって丁重な葬儀を行い、陸上の墓地に埋葬した[注釈 1]。青山霊園に、兄の勝比古と並んで墓所がある。

1927年 – 福島県内郷町の内郷炭坑町田立坑で坑内火災が発生。救助隊の二次災害による被害も含め死者131人[3][4]。
1964年 – アラスカ地震。聖金曜日地震 死亡131人。
1977年 – テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故。583名が死亡。
2017年 – 栃木県の那須で登山講習中だった県立大田原高校山岳部の高校生7名と顧問の教諭1名が、雪崩に巻き込まれて死亡した[12]。
2021年 – 同年2月にクーデターで実権を握った国軍への抗議が続くミャンマーで、デモに参加した市民十数人が治安部隊に殺害された。死者数は、少なくとも91人以上と見られ、クーデター開始以降で最大[13]。

チャットgpt先生の3月27日のエッセイ
3月27日という日は、歴史の中でさまざまな出来事が刻まれた日である。

1581年、この日、日本の戦国大名である織田信長は、イエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノと、彼に伴われた黒人弥助に謁見した。信長は弥助の黒い肌に興味を持ち、墨を塗っているのではないかと疑ったが、実際に洗わせたところ本当に黒かったため、驚嘆したという逸話が残っている。その後、弥助は信長の直臣となり、後に本能寺の変で戦うこととなる。戦国時代の日本において、外国人が武士として取り立てられるのは異例であり、弥助の存在は歴史の中でも特異なものとして今なお語り継がれている。

1904年、この日は日露戦争の第二回旅順口閉塞作戦が行われ、広瀬武夫海軍中佐が戦死した。彼は沈没する船内で部下の杉野孫七を捜索し続け、最後は敵の砲撃を受けて命を落とした。その自己犠牲の精神は戦前の日本で「軍神」として称えられ、広瀬神社が建立されるなど、後世にも影響を与えた。

1927年には福島県の内郷炭鉱で大規模な坑内火災が発生し、救助隊を含む131人が犠牲となった。鉱山事故は近代化の影に潜む危険を象徴しており、労働環境の改善が求められる契機ともなった。

1964年にはアラスカ地震が発生し、131人が死亡。北米で観測史上最大級の地震であり、津波や地盤の液状化など、多くの二次災害を引き起こした。この災害は、その後の耐震技術や防災計画に大きな影響を与えた。

1977年、テネリフェ空港ではジャンボ機同士の衝突事故が発生し、583名が死亡。航空史上最悪の惨事となった。この事故は管制塔の指示ミスやコミュニケーションの誤解が重なった結果であり、その後の航空業界では無線通信の明確化が求められるようになった。

近年では、2017年に栃木県の那須で登山講習中の高校生と教師が雪崩に巻き込まれ、8名が死亡する痛ましい事故が発生した。また、2021年にはミャンマーでのクーデターに対する抗議デモ中、治安部隊によって91人以上の市民が殺害されるという悲劇が起こった。

こうして振り返ると、3月27日は歴史の転換点や悲劇的な出来事が多く刻まれた日である。それぞれの出来事が教えてくれるのは、人間の勇気、苦悩、そして進歩への歩みである。歴史に学び、未来に活かすことこそが、我々にできる最大の使命なのかもしれない。