kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月25日 1837年(天保8年2月19日)大塩平八郎の乱、ほかwikipedia大塩肖像

3月25日
20250325火曜日旧暦2月26日先負(癸巳みずのとみキシ)月齢 25 
乙巳きのとみ年己卯つちのとう月癸巳みずのとみ日  年末まであと281日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8825%E6%97%A5
3月25日の出来事
940年(天慶3年2月14日) – 承平天慶の乱: 平将門と追討の平貞盛・藤原秀郷の軍勢が激突し、将門が討ち死にする。
1837年(天保8年2月19日) – 大塩平八郎の乱。反乱軍約300人 壊滅。
1900年 – イギリス政府がアシャンティ王国に対し黄金の床几を要求。黄金の床几戦争の引き金となる。所 アシャンティ王国、現在のガーナ共和国アシャンティ地方 結果 イギリス帝国の勝利 アシャンティ王国の植民地化 黄金の床几の奪取に失敗 損害 英国軍 1000人戦死 アンシャティ王国 戦死2000人。
1911年 – ニューヨークでトライアングルシャツウェスト工場火災が発生。工員146人が死亡。

1977年 – 福岡県平尾台で行われていた野焼きで、消防署員が巻き込まれて5人が殉職[4]。

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940年(天慶3年2月14日) – 承平天慶の乱: 平将門と追討の平貞盛・藤原秀郷の軍勢が激突し、将門が討ち死にする。
1837年(天保8年2月19日) – 大塩平八郎の乱。反乱軍約300人 壊滅。

事後
大塩の挙兵自体は半日で鎮圧され失敗に終わったが、幕府の元役人だった大塩が、大坂という重要な直轄地で反乱を起こしたことは、幕府・大名から庶民に至るまで、世間に大きな衝撃を与えた。

大塩の発した檄文は庶民の手で、取締りをかいくぐって筆写により全国に伝えられ、越後国では国学者の生田万が柏崎の代官所を襲撃する乱(生田万の乱)を起こしている。その檄文は寺子屋の習字の手本にされたほどだった。また、摂津国能勢では山田屋大助が一揆を起こし、数日にわたり付近を揺るがした(能勢騒動)。

この事件を境に、先述の生田万の乱を始め全国で同様の乱が頻発し、その首謀者たちは「大塩門弟」「大塩残党」などと称した。また、最期の状況から「大塩はまだ生きている」「海外に逃亡した」という風説が流れた。身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止したり、また同年アメリカのモリソン号が日本沿岸に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説まで流れた。これに、大塩一党の(遺体の)磔刑をいまだ行っていなかったことが噂に拍車をかけた。

幕府としても、叛徒が元役人で武士でもあり、遺体の状況をも鑑みた上での処置であったと考えられるが、そのため余計に生存説が拡大してしまった。仕方なく幕府は、事件1年後に磔を行うが、それは「塩漬け保存されていた遺体が十数体磔にされる」という異様な光景だった。しかも大塩親子は焼身自殺していたため、焼け崩れて塩漬けにされた遺体を目視で真贋判断などできるわけもなく、さらに生存説に拍車をかけることとなった。

大塩平八郎
生誕 寛政5年1月22日(1793年3月4日)
死没 天保8年3月27日(1837年5月1日) (45歳没) 別名 正高、後素
通称:平八郎 号:中斎 幕府 江戸幕府:大坂町奉行組与力 父母 父:大塩平八郎敬高 妻 妾:ゆう / ひろ(茶屋大黒屋和市の娘) 子 養子:格之助 

生涯
大坂町奉行組与力
14歳で与力見習いとして大坂東町奉行所に出仕する。柴田勘兵衛門について佐分利流槍術を学び関西第一の評判を得る。他に中島流砲術を学んだ[3]。25歳で与力となる[2]。奉行所時代は、組違いの同僚である西町奉行所与力・弓削新右衛門の汚職を内部告発したり、切支丹を摘発したり、破戒僧を処断したりなど[1]、汚職を嫌い、不正を次々と暴いた。奉行所内では大塩を疎む者もいたが、上司の東町奉行・高井実徳は大塩を重用した[1]。前述の弓削新右衛門の一件と、切支丹摘発、破戒僧の摘発を大塩自らが「三大功績」としている[注 1]。

人物・逸話
・「友人になりたいと思った相手に対して、なんらかの邪心を抱いているならば、親しくすべきではない」との言葉から、極めて厳格な人間性が窺われる。
・非常に短気で、頼山陽からは「小陽明」とその学識ぶりを称賛される一方で「君に祈る。刀を善(ぬぐ)い、時に之を蔵せよ」とその直情的な性格を忠告された。また、大坂西町奉行・矢部定謙宅に招かれて食事中に幕政の腐敗に怒ったあまり、本来なら歯が立たないほどの硬い魚(カナガシラ)の頭を噛み砕いてしまったことがある。
・近藤重蔵が大坂御弓奉行を勤めていた時に会ったことがあり、互いに「畳の上では死ねない人」という印象を抱いた。
・講義は厳格そのもので、門人たちは緊張のあまり大塩の目が見られなかったという。
・ストイックな生活を送り、夕方には就寝、午前2時に起床と天体観測、潔斎と武芸の後に朝食、午前5時には門弟を集めて講義、その後出勤というサイクルであった[2]。
・自他共に厳しく、神経の張り詰めた生活を送り、10日余りも眠ることが出来なかった時があったという。
容貌
大塩の肖像画としては、菊池容斎が描いたものが非常に有名である[18]。しかし、菊池は大塩に面識がなく、この絵もいつごろ描かれたものか詳細は不詳である。

大塩が逃亡した後、町奉行所が全国に手配書を配っているが、そこに大塩の容貌が詳細に書かれている。

「年齢四十五六斗 顔細長キ色白キ方 眉毛細ク薄キ方 額開キ月代厚キ方 眼細キ有之鼻常躰 背格好常躰中肉 其節之着類鍬形付甲着用黒キ陣羽織其余着用」
手配書には上記のように「背格好常躰中肉」(中肉中背)と記されている。石崎東国『大塩平八郎伝』(大正八年)に門人の証言が引用されているが[要ページ番号]、それによると「大塩の容貌ですが、なかなか美男でござりました、身の丈は五尺五六寸、少しやせすぎですが凛とした風采はそりゃ立派なものです」とあり、このため美男子で身長は160cm台後半の長身であったと思われる。

1900年 – イギリス政府がアシャンティ王国に対し黄金の床几を要求。黄金の床几戦争の引き金となる。所 アシャンティ王国、現在のガーナ共和国アシャンティ地方 結果 イギリス帝国の勝利 アシャンティ王国の植民地化 黄金の床几の奪取に失敗 損害 英国軍 1000人戦死 アンシャティ王国 戦死2000人。
1911年 – ニューヨークでトライアングルシャツウェスト工場火災が発生。工員146人が死亡。
1977年 – 福岡県平尾台で行われていた野焼きで、消防署員が巻き込まれて5人が殉職[4]。

チャットgpt先生の3月25日のエッセイ
3月25日という日は、歴史の中で幾度も重要な出来事が刻まれた日である。戦乱、反乱、災害といった異なる側面を持つ出来事が、この日に集中していることは興味深い。これらの出来事を振り返ることで、時代ごとの人々の価値観や生き様を垣間見ることができる。

940年のこの日、平安時代中期に起こった承平天慶の乱の最中、関東の英雄とも称される平将門が討ち死にした。彼は自ら「新皇」を名乗り、中央集権的な律令国家の支配に抗った人物であった。その最期は壮絶でありながらも、その後の時代においては怨霊として恐れられ、一方で信仰の対象ともなった。歴史の流れの中で、勝者と敗者の評価が時に逆転するのは実に興味深い。

また、1837年のこの日には、大塩平八郎の乱が勃発した。大坂町奉行所の与力であった大塩は、飢饉と幕府の腐敗に憤り、反乱を起こしたが、わずか半日で鎮圧される。しかし、その影響は計り知れず、彼の掲げた思想は全国に広まり、その後の各地の一揆の引き金となった。特に「大塩は生きている」という風説が広まったことは、彼が象徴的な存在となった証であり、人々の期待や願望がそこに投影されていたのだろう。

20世紀に入ると、3月25日はさらに新たな歴史の舞台となる。1900年には、イギリスとアシャンティ王国との間で黄金の床几戦争が勃発。植民地支配の歴史の中で、富と権力を巡る戦いは後を絶たず、ここでもまた強国による侵略と支配が繰り返された。歴史の教訓として、こうした出来事を振り返ることは重要である。

また、1911年には、ニューヨークでトライアングルシャツウェスト工場火災が発生し、146人もの工員が命を落とした。この悲劇は、労働環境の改善を訴える大きな契機となり、労働者の権利が見直されるきっかけともなった。現在でも労働環境の問題は世界中で議論され続けており、この事件が持つ意味は決して過去のものではない。

さらに、日本に目を向けると、1977年には福岡県平尾台で野焼き中の消防署員5人が殉職する事故が発生した。火を扱うことの危険性と、それに立ち向かう人々の勇気を改めて思い起こさせる出来事である。

3月25日は、歴史の転換点となる出来事が多く起こった日である。権力への反抗、戦争、労働者の権利、災害と、様々なテーマが交錯する。過去の出来事を振り返ることは、未来をより良くするための重要な手がかりとなる。歴史に学び、現在を見つめ、未来を考える――そうした営みが、今を生きる私たちに求められているのではないだろうか。